雪ごいのトリプレット The Lovers

梅室しば

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三章 裏庭に棲みついたもの

突撃

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 史岐が〈須臾〉の傍らにかがみ込み、つごもりさんまでの距離を訊ねると、四つの単調な音が返ってきた。大人の歩幅で四歩分という意味である。
〈須臾〉が止まったのは、右手に向かう曲がり角の手前だった。ほぼ直角で、先は見通せない。
 念の為、背後にいる柊牙に視線を向けると、彼も黙って頷いた。霊視で確かめても同じ結果だったという事だろう。
「一旦、下がって準備を整える。ここにいて、相手が逃げる素振りを見せたら知らせて」
 そう指示すると〈須臾〉からは了承の鳴き声が返ってきた。
 今歩いてきた、短い直線の廊下の中ほどまで戻り、別海から預けられた矢の感触を確かめる。ここに来るまでずっと利き手の中で転がしていたから、大体の使い勝手は掴めていたが、やはり、中心にある薬液の容器がネックになっていた。
 持ち慣れたダーツの矢とは重心が異なるというだけではなく、投てきした後、薬液が一方向に偏れば、姿勢を崩してつごもりさんの所に届く前に落ちてしまう。
 三本の矢のうち、最も重心のぶれが少なそうな物を選び出している手元を、利玖が険しい表情で覗き込んでいる事に気づいて、史岐は目をあげた。
「わたしもダーツをやっていれば……」普段の彼女からは想像もつかないような暗い声で利玖は言った。「こんな内輪の騒動で、お客様を矢面に立たせて解決を図るだなんて、情けない事この上ありません」
 自分がし損じた時の保険として、柊牙にも矢を一本渡しながら、史岐はにこっと微笑みかけた。
「潟杜に戻ったらいくらでも教えてあげるよ」


 利玖と柊牙を廊下の手前に残して史岐は再び〈須臾〉の所まで戻った。
〈須臾〉はさっきと同じ位置でじっとしている。
 別海医師が、自分達を守る為に、術者としての手札を晒してまで貸し与えてくれた存在だとわかっていても、いざこうして戦いに臨もうとすると心細さが胸を締めつけた。
 隣にいるのは、熟練の兵士でも、鋭い爪や牙を持った獣でもない。見た目に限った話として言ってしまえば、何の変哲もないただのチョウザメなのだ。得体の知れない怪異から、自分や利玖達を守ってくれるイメージが、どうしても湧きづらかった。
「初対面の若造にあてがわれて、君も不本意かもしれないが、ひとつ頼むよ」
 その言葉が伝わったかはわからないが〈須臾〉は胸鰭を小さく振って、突撃の準備が出来ている事を知らせた。
 史岐は、かすかに唇の端を持ち上げて自らを奮い立たせると、大きく息を吸い込んで曲がり角の向こうに飛び出した。
 四歩の距離なら外さない、と思っていた。
 実際、角を曲がった先で目に飛び込んできたつごもりさんの姿は、もっと手前にいるのではないかと思えるほど鮮明で、狙っていた頭部も概ね予想通りの高さにあった。
 衣服に覆われていない顔の前面を目がけて、史岐はひと息に腕を振り抜いて矢を放った。
 両手が本で塞がっているつごもりさんが眼のない顔でこちらを振り向き──矢が届くかと思った、その刹那、ぱしゃっと音を立てて視界から消えた。
「え」
 状況を理解出来ていない声が漏れる。
 つごもりさんが立っていた場所に、中身のなくなった着物と、持ち去られた本が一緒くたになって落ちているのを見つめていたのもつかの間、史岐は、弾かれたように床に目をやった。
(しまった、水……!)
 別海の術が仇になった。
 液体化する事で矢をかわしたつごもりさんは、そのまま床伝いに逃げるつもりなのだろう。だが、その姿は足元に広がる水の幻影に溶け込み、肉眼では見て取る事が出来ない。
 一瞬、利玖達のいる背後を気にしてたたらを踏んだ史岐は、すぐに前方に目を戻し、自分の体を堰にするように床に伏せた。
 目で捉える事が出来なくても、本を運んでいた以上、実体はある。それなら、この体をかすめて通り過ぎて行く時に感触があるはずだ。無傷では済まないかもしれないが、確実に矢を打ち込むには、その一瞬を狙うしかない。
 息をつめて矢を構え、全身の感覚に意識を集中していた、その時、伸ばした足の上をするりと何かが乗り越えた。
「──〈須臾〉!」
 史岐がそう叫ぶのと同時に、着水した〈須臾〉の腹の下で透きとおった物体がビチビチッとのたうった。〈須臾〉は全身を使って、それを抑え込もうとしているが、抵抗する力が強く、徐々に水の外へと押しやられていく。
 史岐は無我夢中で〈須臾〉の元へ駆け寄ると、捕らえられている半透明の生きものの輪郭を何とか見てとるや、片手で押さえつけて矢を突き立てた。
 手の下にある寒天状の平べったい塊が、焼け石を投げ込まれた水のようにぶくぶくと激しく泡を吐いて震えた。
 弾けた泡の中から、目にしみるような薬液のきつい匂いが立ちのぼったが、史岐は矢の先端を押し込む力を決して緩めなかった。
 やがて、泡が徐々に小さくなり、吐き出される勢いも衰え始めて、しばらく経つと、ふいに手に感じていた抵抗が消えた。あっと思う間もなく、支えを失ってしたたかに硬い床に手のひらを打ち付け、史岐は呻いた。
 その声を聞いた〈須臾〉が、気遣うように水をかいて近寄って来る。
「大丈夫……、バランスを崩しただけだから」
 手のひらをさすりながら起き上がり、壁に背中を預けると、史岐は詰めていた息を長々と吐いた。
 つごもりさんに薬が効いたのかどうか、はっきりとは分からない。だが、今は周囲で何かがうろついているような気配はないし、〈須臾〉も静かにしている。一応は退却させる事に成功した、と考えていいのだろう。
 視界の端に、乱雑に放り出されたままの本が映った。
 拾いに行こうと立ち上がったが、気が緩んだのか、頭を動かすと目の中にちらちらと星が舞った。それも無視して歩き出そうとすると、今度は地面が傾いでいくようなめまいがして、慌てて壁に手をつくと、〈須臾〉が警告のような高い声で鳴きながら足元に滑り込んできた。
「わかった、わかった……、ごめんよ」
 医師の生み出した式神というわけか──と思いながら、史岐は暗い壁際に座り込み、めまいが治まるまで項垂うなだれていた。
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