衍溢する潮 Toxicity order

梅室しば

文字の大きさ
5 / 23

引き継ぎ

しおりを挟む
 匠が井領邸に着いた時にはすっかり夜も更けて、二十二時を過ぎていた。
「いや、申し訳ない」
 玄関で出迎えた藍以子に、匠はそう言って深く頭を下げた。キネマの俳優が着るような薄いブラウンのスーツ姿だったが、暑さの為か、上着は脱いで体の脇で抱えている。
「高速道路を使ったのですが、渋滞にはまりましてね。堪らずに途中のインタで下りたのですが、まあ、同じ事を考える連中が多かったものですから……」
 その連絡は、夕方にもらっていたので、藍以子は匠の夕食にはラップをかけて冷蔵庫に移していた。
 温め直して、それを食べるか、と訊かれて、匠は首を横に振りかけ、
「いや、そうだな……」と頷いた。
「せっかくですから、頂いてもよろしいでしょうか。実は、昼もまだ食べていないんです」
 匠は、藍以子の傍らに立っている利玖を見る。
「妹は、台所で頂いているそうですね。藍以子さんさえよろしければ、彼女に使い方を訊いて、自分で用意しますから、どうぞ構わずにお休みになっていてください」
「いえ、大丈夫です」藍以子はにっこりと笑って両手を広げる。「わたし、まだ全然眠くありません。ご兄妹だけでお話ししたい事もあるでしょうし、お食事の用意は任せてください。出来たら、居間へお持ちしますから」
「そうですか。すみません、ありがたい」
 匠はもう一度頭を下げ、靴を脱いで居間へ移動した。さっきまで藍以子がテレビを見ていたので、エアコンが利いており、中は涼しい。
 利玖と匠はテーブルを挟んで向かい合う。
「ざっと見た限りでは、数が多い順に、民俗学、生物学、文学といった内訳です」利玖は前置きなしに共有を始めた。「特に、民俗学と文学のコレクションの中に、貴重なものが多いですね。今では絶版となっている本もありますし、大正時代を代表する画家が駆け出しの頃に装丁を手がけたものもあります。生物学関連の書籍は、発刊当時の研究を大衆向けにまとめた読み物や、図鑑がほとんどで、情報自体はかなり古くなってしまっていますね」
「民俗学や文学は、そういった部分が価値に直結しないからね」バッグから出したコーヒーのペットボトルのキャップをひねりながら匠が呟く。「発刊当時の世相や文化、言葉遣いが、修正されないまま残っている方が貴重だという見方もあるし、その方が面白い」
「うちからお貸ししたものなのか、寄贈してくださるつもりで取っておいてくださったのか、それすらわからないのです」
 匠はペットボトルを傾けて、一気に中身を飲んだ。もうほとんど残っていなかったようだ。
「メモとか、ないの?」
 利玖は首を振った。
「藍以子さんにも訊いてみましたが、残っているのは『佐倉川家へ』という一筆箋だけで、それ以上の事はわからないそうです」
「お兄さんがいるよね」匠は空になったペットボトルを弄びながら言う。「えっと、杏平さんだっけ。彼なら、何か知っているんじゃないの?」
 利玖は、また首を振る。
「まだ、ご挨拶も出来ていません。ずっと離れで仕事をしておられて、滅多な事では人前に出てこられないそうです。お食事も、眠るのも、お風呂に入るのも、すべてそちらで済ませてしまうと……」
「へえ……」匠が口を半開きにする。「そりゃ、すごい」
「藍以子さんにお会いした時にも、まず、その事を謝罪されました。代理で来た人物だから会わないというのではなく、誰に対してもそうだから、どうか気を悪くしないでほしい、と」
 匠は、納得したように頷いた。

 井領家は、当代に至るまで、二代続けて当主が小説家として名を馳せている。『佐倉川家へ』という書き置きとともに本を遺した欣治も、離れに籠もっている藍以子の兄・杏平も、シリーズものを手がけて、複数の文学賞を授与されていた。
 二人に共通しているのは、作風だけではない。人嫌いで、メディアの取材にまったく応じないという点も同じだった。対人関係に問題があるのではないか、世間に見せるのが憚られるような生活をしているのではないかと噂する声もあったが、それはむしろ、厭世的で、インモラルな情感に満ちた男女の交わりを描く彼らに箔をつけた。

(そうだ……)
 利玖は今朝、藍以子に、自分と匠は実の兄妹なのか、と訊かれた事を思い出す。
 あれはどういう意味だったのだろう。
 確かに、外見の上では一致する特徴は少ないが……。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

処理中です...