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一つ目の言い伝え
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食事の席では、儒艮の事が話題に上がった。
切り出したのは利玖である。藍以子がいる場で話す事で、もしも説明に間違いがあったら彼女に正してもらえるかもしれない、という目論見があった。
藍以子も、それを察したのか、配膳を終えた後も居間の隅に座って利玖の話を聞いていた。
「儒艮ですか」匠がややオーバな反応をする。敬語だし、藍以子に向けたパフォーマンスかもしれない、と利玖は思った。「それはすごい。──今でも?」
「毎日、利玖さんはご覧になっています」藍以子は頷く。「懐いているのかしら……」
「藍以子さんは、見に行かれないのですか?」
「この世のものではありませんから」藍以子はさらりと答える。「山椒と違って、世話をしなければ絶えてしまう、というものでもありませんし。わたしからすれば、自然現象のようなものです」
「山椒ですか」
聞き返した匠に、利玖は、
「こちらのお庭はすごいんですよ」と言った。「ものすごくたくさんの山椒が植えられているんです」
匠は、瞬きをして、藍以子に視線を戻す。
「すべて、藍以子さんがお一人で世話をなさっていると……?」
「そんなに大層な事じゃありません」藍以子は、はにかんだ。「どの木も、生きる力が強いので、寒さと水はけに気をつけてやれば滅多な事では枯れません。実を取るのなら、もっと様々な事に気をつけなければいけないんでしょうけれど……」
「へえ……」匠は曖昧に頷く。「それは……、少し勿体ないような気もしますね」
「ここの山椒は、口にしてはならないのだそうです」
利玖が言うと、匠は吸い物の器に手を伸ばしながら視線だけを彼女に向けた。
「こちらのお家……、井領家は、江戸時代中頃には山椒の栽培に着手していました。ミカン科の植物である山椒は、本来、薙野のように冷涼な気候の土地では栽培に適していません。ですが、井領家のご先祖は、この山の麓に不思議と温かい空気がたゆたっている場所があるのを見つけ、土壌の改良や接ぎ木の工夫に取り組んで、収量を安定させる事に成功したのだそうです」
「順調に山椒の木を増やして、しばらく経った頃、爽やかな香気に興味を引かれて〈壺〉から儒艮が現れました」藍以子が説明を代わる。「彼らの本当の住み処は、山の奥深くにある、人の足では辿り着けない秘境の湖だと伝わっています。わたし達が珊瑚を見たくて海に潜るように、儒艮は、水の中には生えない山椒の木を間近で見たくて、〈壺〉から……、庭の北にある深い水溜まりから顔を覗かせたのだそうです」
藍以子は、窓の外に目を向けた。
「儒艮は、人に快い夢を見せる力を持っていました。代々、井領家の当主にその力を使う事と引き換えに、末永く山椒の世話をして、香気で自分達を楽しませてほしいと頼んだのだそうです」
藍以子は、匠の顔を見てにっこりと笑った。
「うちの山椒には、全然虫がつかないんですよ。山の方から鹿が入ってきて食べてしまうような事もありません。儒艮が守ってくれているのだと伝わっています。最初に、取り引きに応じた当主は、山椒を虫や獣から守ってもらう代わりに、塀の内側で育てた山椒はすべて儒艮に捧げると約束して、今後一切、自分達では口にしない誓いを立てたそうです」
「なるほど……」
匠は、そう呟くと、吸い物に少しだけ口をつける。
「では、山椒を儒艮に捧げる儀式のようなものが、存在するのでしょうか?」
藍以子は首を振った。
「兄からは、何も教わっておりません」彼女は寂しげに目を伏せる。「本当に、覗きに来るだけなんですよ。何かをお供えしたり、祝詞を唱えるような事も、一度もした事がなくて……。本当は、そういうものが必要なのか、それすら知らなくて……」
藍以子は、そこで言葉を切ると、利玖と匠の顔を見て苦笑した。
「あの、実はわたし、元々、ここの人間ではないのです。母が再婚する時に連れて来られたものですから」
それは、利玖も初めて聞く話だった。
彼女は、失礼にならない程度に驚きを表した顔で兄を見る。
「ああ……、そうなんですか。いや……」匠は、珍しく狼狽えた様子で、胸の前で片手を広げた。「申し訳ない。そんな立ち入った事をお訊きするつもりではなかった」
「いえ、いつかはお話ししなければ、と思っていましたから」藍以子は涼しい表情で言った。「もしも、兄が気まぐれにお二人の前に出てくる事があって、わたしとあまりにも違う顔をしていたら、驚かせてしまいますからね。わたしが、こんな風に……」彼女は片手を広げて、とん、と鎖骨の辺りに当てる。「子どもっぽい見た目をしていますから。叔父と姪だと言っても通るくらいです」
利玖と匠は、無言のまま、一瞬だけ視線を交わし合った。井領欣治の妻が早くに亡くなった事は知っていたが、彼らの間に生まれた子どもが杏平と藍以子だと、二人とも思っていたのだ。
「兄を産んだ女性とは会った事もありません」兄妹の思考を読んだように藍以子が言う。「遺影なら、何度も見ていますけれど……。わたしの母も、ここに引っ越してきて、一緒に暮らしたのは、そう、二年にも満たなかったかな。そのくらいあっという間に逝ってしまいました。お付き合い自体は、もっと前からあったのでしょうけれど……」
「その後は藍以子さんが、ずっと、お屋敷を切り盛りしているという事ですね」匠がそれとなく話題を変えた。
「現実のものを動かしたり、何かを時々綺麗にしているという意味では、そうですね」藍以子は、くすっと笑った。「お金の面では兄に頼り切っていますから……」
切り出したのは利玖である。藍以子がいる場で話す事で、もしも説明に間違いがあったら彼女に正してもらえるかもしれない、という目論見があった。
藍以子も、それを察したのか、配膳を終えた後も居間の隅に座って利玖の話を聞いていた。
「儒艮ですか」匠がややオーバな反応をする。敬語だし、藍以子に向けたパフォーマンスかもしれない、と利玖は思った。「それはすごい。──今でも?」
「毎日、利玖さんはご覧になっています」藍以子は頷く。「懐いているのかしら……」
「藍以子さんは、見に行かれないのですか?」
「この世のものではありませんから」藍以子はさらりと答える。「山椒と違って、世話をしなければ絶えてしまう、というものでもありませんし。わたしからすれば、自然現象のようなものです」
「山椒ですか」
聞き返した匠に、利玖は、
「こちらのお庭はすごいんですよ」と言った。「ものすごくたくさんの山椒が植えられているんです」
匠は、瞬きをして、藍以子に視線を戻す。
「すべて、藍以子さんがお一人で世話をなさっていると……?」
「そんなに大層な事じゃありません」藍以子は、はにかんだ。「どの木も、生きる力が強いので、寒さと水はけに気をつけてやれば滅多な事では枯れません。実を取るのなら、もっと様々な事に気をつけなければいけないんでしょうけれど……」
「へえ……」匠は曖昧に頷く。「それは……、少し勿体ないような気もしますね」
「ここの山椒は、口にしてはならないのだそうです」
利玖が言うと、匠は吸い物の器に手を伸ばしながら視線だけを彼女に向けた。
「こちらのお家……、井領家は、江戸時代中頃には山椒の栽培に着手していました。ミカン科の植物である山椒は、本来、薙野のように冷涼な気候の土地では栽培に適していません。ですが、井領家のご先祖は、この山の麓に不思議と温かい空気がたゆたっている場所があるのを見つけ、土壌の改良や接ぎ木の工夫に取り組んで、収量を安定させる事に成功したのだそうです」
「順調に山椒の木を増やして、しばらく経った頃、爽やかな香気に興味を引かれて〈壺〉から儒艮が現れました」藍以子が説明を代わる。「彼らの本当の住み処は、山の奥深くにある、人の足では辿り着けない秘境の湖だと伝わっています。わたし達が珊瑚を見たくて海に潜るように、儒艮は、水の中には生えない山椒の木を間近で見たくて、〈壺〉から……、庭の北にある深い水溜まりから顔を覗かせたのだそうです」
藍以子は、窓の外に目を向けた。
「儒艮は、人に快い夢を見せる力を持っていました。代々、井領家の当主にその力を使う事と引き換えに、末永く山椒の世話をして、香気で自分達を楽しませてほしいと頼んだのだそうです」
藍以子は、匠の顔を見てにっこりと笑った。
「うちの山椒には、全然虫がつかないんですよ。山の方から鹿が入ってきて食べてしまうような事もありません。儒艮が守ってくれているのだと伝わっています。最初に、取り引きに応じた当主は、山椒を虫や獣から守ってもらう代わりに、塀の内側で育てた山椒はすべて儒艮に捧げると約束して、今後一切、自分達では口にしない誓いを立てたそうです」
「なるほど……」
匠は、そう呟くと、吸い物に少しだけ口をつける。
「では、山椒を儒艮に捧げる儀式のようなものが、存在するのでしょうか?」
藍以子は首を振った。
「兄からは、何も教わっておりません」彼女は寂しげに目を伏せる。「本当に、覗きに来るだけなんですよ。何かをお供えしたり、祝詞を唱えるような事も、一度もした事がなくて……。本当は、そういうものが必要なのか、それすら知らなくて……」
藍以子は、そこで言葉を切ると、利玖と匠の顔を見て苦笑した。
「あの、実はわたし、元々、ここの人間ではないのです。母が再婚する時に連れて来られたものですから」
それは、利玖も初めて聞く話だった。
彼女は、失礼にならない程度に驚きを表した顔で兄を見る。
「ああ……、そうなんですか。いや……」匠は、珍しく狼狽えた様子で、胸の前で片手を広げた。「申し訳ない。そんな立ち入った事をお訊きするつもりではなかった」
「いえ、いつかはお話ししなければ、と思っていましたから」藍以子は涼しい表情で言った。「もしも、兄が気まぐれにお二人の前に出てくる事があって、わたしとあまりにも違う顔をしていたら、驚かせてしまいますからね。わたしが、こんな風に……」彼女は片手を広げて、とん、と鎖骨の辺りに当てる。「子どもっぽい見た目をしていますから。叔父と姪だと言っても通るくらいです」
利玖と匠は、無言のまま、一瞬だけ視線を交わし合った。井領欣治の妻が早くに亡くなった事は知っていたが、彼らの間に生まれた子どもが杏平と藍以子だと、二人とも思っていたのだ。
「兄を産んだ女性とは会った事もありません」兄妹の思考を読んだように藍以子が言う。「遺影なら、何度も見ていますけれど……。わたしの母も、ここに引っ越してきて、一緒に暮らしたのは、そう、二年にも満たなかったかな。そのくらいあっという間に逝ってしまいました。お付き合い自体は、もっと前からあったのでしょうけれど……」
「その後は藍以子さんが、ずっと、お屋敷を切り盛りしているという事ですね」匠がそれとなく話題を変えた。
「現実のものを動かしたり、何かを時々綺麗にしているという意味では、そうですね」藍以子は、くすっと笑った。「お金の面では兄に頼り切っていますから……」
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