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白い骸
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廊下に飛び出した兄は、玄関から外に出ようとする。当然の判断だが、井領家では通用しない。
「そちらじゃありません」利玖は衣装部屋の襖に手をかけながら言った。「靴を持ってきてください。庭に行くには、こちらが近道です」
匠は、両手で別々の靴をぶら下げて衣装部屋に入ってくる。右で持っているのが利玖の靴だった。傘はないが、今はそんな悠長な事は言っていられない。
掃き出し窓を開け、テラスを通って庭に出た。
「藍以子さん」匠が大声で呼びかける。
しかし、誰の返事も返ってこない。
利玖も周囲を見回したが、山椒の葉が絶えず風にそよいでいるせいで、どこに何があるのか、はっきりと気配がわからなかった。
「家の中だろうか……」匠が呟く。
「上まで行ってみましょう」利玖は、北側を指さす。さっき見た光景のせいか、〈壺〉の近くで何かあったのではないか、と思ったのだ。「離れの縁側の前に出ますから、そこで大声を出せば、杏平さんが気づいてくれるかもしれません」
匠が頷き、二人は利玖を先頭にして庭を進んだ。途中、何度か立ち止まって藍以子の名を呼んだが、彼女の姿も、何か普通ではない事が起きたような痕跡も見つけられなかった。
結局、北の終端まで行き、最後の階段を上り切った所で藍以子の姿が見えた。
こちらに背を向け、俯いている。足が震えており、自分の力では立っていられないようだった。
その躰を支えているのが誰か、見るよりも先に、彼女の足元に転がっているものが目に入って、利玖はびくっと立ち止まった。
背後で、匠も息をのむ。
そこで、ようやく藍以子がこちらを振り向いた。彼女に寄り添っている人物が、肩を揺すって促したのだ。
「二階で、窓を開けていたら、大きな水音がして……」藍以子は、消え入りそうな声で話し始めた。まったく血の気のない、透きとおるような頼りない顔色だった。「利玖さんか匠さんが落ちたのかも、と思って、ここに来たんです。そうしたら、もう……」
そう言うと、藍以子はまた二人から顔を背け、そばに立っている人物の胸に──自分の兄である、杏平の胸に顔を埋めた。
匠が前に出て、しゃがみ込む。
真っ白な儒艮が、〈壺〉から這い出た所で力尽きたようにぐしゃりと潰れていた。
実際には傷一つなく、どこかが変形している訳でもない。だが、本来は水中にいるはずの生きものが、無造作に、叩き落とされたように地面の上に倒れている姿は、何か得体の知れない力によって引きずり出され、押し潰される場面を連想させた。
体表は乾き切っており、つぶらな黒い瞳は開かれたまま小揺るぎもしない。生命の気配はどこからも感じ取れなかった。
呆然と儒艮の死骸を見つめるうちに、ある事に気づいて、利玖は震えた。
「兄さん」利玖は儒艮の下半身を指さす。「この儒艮、お腹が……」
水生動物の多くは、水中で受ける抵抗を少なくする為に流線型のフォルムを獲得している。だが、この儒艮の腹部の膨らみは、それをまったく意味のないものにしてしまうほど甚だしかった。
「妊娠しているのですか……?」
誰に問うでもなく、利玖がそう呟くと、視界の隅で杏平が身じろぎをした。
藍以子の手を引き、離れの縁側に連れて行く。そこに彼女を座らせて、なだめるように軽く肩に触れると、利玖達の方へ近づいてきた。
彼の顔を見て、匠が目を細める。
「井領……、杏平さんですか?」
その問いに杏平は答えない。
彼の視線は儒艮に固定されている。
仕方なしに、利玖は匠のシャツの裾を引っぱって注意を引き、耳元に口を近づけて彼の名前を教えた。その時、杏平が、ふっとこちらを見た。
「申し訳ない。貴方がたの滞在中にこんな事になるとは思わなかった」
そう言うと、杏平はお辞儀をするように腰をかがめて、離れの方を手で示した。
「よろしければ、あちらへ……。少し、今後の事をご相談させて頂けますか」
「そちらじゃありません」利玖は衣装部屋の襖に手をかけながら言った。「靴を持ってきてください。庭に行くには、こちらが近道です」
匠は、両手で別々の靴をぶら下げて衣装部屋に入ってくる。右で持っているのが利玖の靴だった。傘はないが、今はそんな悠長な事は言っていられない。
掃き出し窓を開け、テラスを通って庭に出た。
「藍以子さん」匠が大声で呼びかける。
しかし、誰の返事も返ってこない。
利玖も周囲を見回したが、山椒の葉が絶えず風にそよいでいるせいで、どこに何があるのか、はっきりと気配がわからなかった。
「家の中だろうか……」匠が呟く。
「上まで行ってみましょう」利玖は、北側を指さす。さっき見た光景のせいか、〈壺〉の近くで何かあったのではないか、と思ったのだ。「離れの縁側の前に出ますから、そこで大声を出せば、杏平さんが気づいてくれるかもしれません」
匠が頷き、二人は利玖を先頭にして庭を進んだ。途中、何度か立ち止まって藍以子の名を呼んだが、彼女の姿も、何か普通ではない事が起きたような痕跡も見つけられなかった。
結局、北の終端まで行き、最後の階段を上り切った所で藍以子の姿が見えた。
こちらに背を向け、俯いている。足が震えており、自分の力では立っていられないようだった。
その躰を支えているのが誰か、見るよりも先に、彼女の足元に転がっているものが目に入って、利玖はびくっと立ち止まった。
背後で、匠も息をのむ。
そこで、ようやく藍以子がこちらを振り向いた。彼女に寄り添っている人物が、肩を揺すって促したのだ。
「二階で、窓を開けていたら、大きな水音がして……」藍以子は、消え入りそうな声で話し始めた。まったく血の気のない、透きとおるような頼りない顔色だった。「利玖さんか匠さんが落ちたのかも、と思って、ここに来たんです。そうしたら、もう……」
そう言うと、藍以子はまた二人から顔を背け、そばに立っている人物の胸に──自分の兄である、杏平の胸に顔を埋めた。
匠が前に出て、しゃがみ込む。
真っ白な儒艮が、〈壺〉から這い出た所で力尽きたようにぐしゃりと潰れていた。
実際には傷一つなく、どこかが変形している訳でもない。だが、本来は水中にいるはずの生きものが、無造作に、叩き落とされたように地面の上に倒れている姿は、何か得体の知れない力によって引きずり出され、押し潰される場面を連想させた。
体表は乾き切っており、つぶらな黒い瞳は開かれたまま小揺るぎもしない。生命の気配はどこからも感じ取れなかった。
呆然と儒艮の死骸を見つめるうちに、ある事に気づいて、利玖は震えた。
「兄さん」利玖は儒艮の下半身を指さす。「この儒艮、お腹が……」
水生動物の多くは、水中で受ける抵抗を少なくする為に流線型のフォルムを獲得している。だが、この儒艮の腹部の膨らみは、それをまったく意味のないものにしてしまうほど甚だしかった。
「妊娠しているのですか……?」
誰に問うでもなく、利玖がそう呟くと、視界の隅で杏平が身じろぎをした。
藍以子の手を引き、離れの縁側に連れて行く。そこに彼女を座らせて、なだめるように軽く肩に触れると、利玖達の方へ近づいてきた。
彼の顔を見て、匠が目を細める。
「井領……、杏平さんですか?」
その問いに杏平は答えない。
彼の視線は儒艮に固定されている。
仕方なしに、利玖は匠のシャツの裾を引っぱって注意を引き、耳元に口を近づけて彼の名前を教えた。その時、杏平が、ふっとこちらを見た。
「申し訳ない。貴方がたの滞在中にこんな事になるとは思わなかった」
そう言うと、杏平はお辞儀をするように腰をかがめて、離れの方を手で示した。
「よろしければ、あちらへ……。少し、今後の事をご相談させて頂けますか」
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