衍溢する潮 Toxicity order

梅室しば

文字の大きさ
11 / 23

白い骸

しおりを挟む
 廊下に飛び出した兄は、玄関から外に出ようとする。当然の判断だが、井領家では通用しない。
「そちらじゃありません」利玖は衣装部屋の襖に手をかけながら言った。「靴を持ってきてください。庭に行くには、こちらが近道です」
 匠は、両手で別々の靴をぶら下げて衣装部屋に入ってくる。右で持っているのが利玖の靴だった。傘はないが、今はそんな悠長な事は言っていられない。
 掃き出し窓を開け、テラスを通って庭に出た。
「藍以子さん」匠が大声で呼びかける。
 しかし、誰の返事も返ってこない。
 利玖も周囲を見回したが、山椒の葉が絶えず風にそよいでいるせいで、どこに何があるのか、はっきりと気配がわからなかった。
「家の中だろうか……」匠が呟く。
「上まで行ってみましょう」利玖は、北側を指さす。さっき見た光景のせいか、〈壺〉の近くで何かあったのではないか、と思ったのだ。「離れの縁側の前に出ますから、そこで大声を出せば、杏平さんが気づいてくれるかもしれません」
 匠が頷き、二人は利玖を先頭にして庭を進んだ。途中、何度か立ち止まって藍以子の名を呼んだが、彼女の姿も、何か普通ではない事が起きたような痕跡も見つけられなかった。
 結局、北の終端まで行き、最後の階段を上り切った所で藍以子の姿が見えた。
 こちらに背を向け、俯いている。足が震えており、自分の力では立っていられないようだった。
 その躰を支えているのが誰か、見るよりも先に、彼女の足元に転がっているものが目に入って、利玖はびくっと立ち止まった。
 背後で、匠も息をのむ。
 そこで、ようやく藍以子がこちらを振り向いた。彼女に寄り添っている人物が、肩を揺すって促したのだ。
「二階で、窓を開けていたら、大きな水音がして……」藍以子は、消え入りそうな声で話し始めた。まったく血の気のない、透きとおるような頼りない顔色だった。「利玖さんか匠さんが落ちたのかも、と思って、ここに来たんです。そうしたら、もう……」
 そう言うと、藍以子はまた二人から顔を背け、そばに立っている人物の胸に──自分の兄である、杏平の胸に顔を埋めた。
 匠が前に出て、しゃがみ込む。
 真っ白な儒艮が、〈壺〉から這い出た所で力尽きたようにぐしゃりと潰れていた。
 実際には傷一つなく、どこかが変形している訳でもない。だが、本来は水中にいるはずの生きものが、無造作に、叩き落とされたように地面の上に倒れている姿は、何か得体の知れない力によって引きずり出され、押し潰される場面を連想させた。
 体表は乾き切っており、つぶらな黒い瞳は開かれたまま小揺るぎもしない。生命の気配はどこからも感じ取れなかった。
 呆然と儒艮の死骸を見つめるうちに、ある事に気づいて、利玖は震えた。
「兄さん」利玖は儒艮の下半身を指さす。「この儒艮、お腹が……」
 水生動物の多くは、水中で受ける抵抗を少なくする為に流線型のフォルムを獲得している。だが、この儒艮の腹部の膨らみは、それをまったく意味のないものにしてしまうほど甚だしかった。
「妊娠しているのですか……?」
 誰に問うでもなく、利玖がそう呟くと、視界の隅で杏平が身じろぎをした。
 藍以子の手を引き、離れの縁側に連れて行く。そこに彼女を座らせて、なだめるように軽く肩に触れると、利玖達の方へ近づいてきた。
 彼の顔を見て、匠が目を細める。
「井領……、杏平さんですか?」
 その問いに杏平は答えない。
 彼の視線は儒艮に固定されている。
 仕方なしに、利玖は匠のシャツの裾を引っぱって注意を引き、耳元に口を近づけて彼の名前を教えた。その時、杏平が、ふっとこちらを見た。
「申し訳ない。貴方がたの滞在中にこんな事になるとは思わなかった」
 そう言うと、杏平はお辞儀をするように腰をかがめて、離れの方を手で示した。
「よろしければ、あちらへ……。少し、今後の事をご相談させて頂けますか」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

処理中です...