衍溢する潮 Toxicity order

梅室しば

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二つ目の言い伝え

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 離れの中に通されるのかと思ったが、そうではなかった。杏平は下駄のまま、庭をテラスの方へ下っていく。
 儒艮の処理について確認したい事でもあるのか、匠は、早足で彼に追いついて、ぼそぼそと何か話している。利玖はその五歩ほど後ろを、黙って藍以子と歩いた。
 すぐ隣にいるのに、何と言えば良いのかわからなかった。死んでいたのが、例えば彼らがペットとして可愛がっている動物だったら、まだ何か言いようがあったかもしれない。だけど、儒艮が藍以子にとって、どれくらい大切なものだったのかわからなかったし、それに、確か彼女はあれを、自然現象のようなものだと話していたではないか。
 自然現象によって、近しい人が死んでしまったり、大切なものが壊れたりしたら、ショックを受けるだろう。
 だが、彼女にとっては自然現象のような儒艮が、やはり、自然の中にある一つの生命として、偶然近い所で死んでいた。水中ではなく〈壺〉の外だったのが不自然ではあるが、それだけで、こんなに憔悴するだろうか?
 そこまで考えて、利玖はとっさにブレーキをかけた。
 藍以子に直接訊くのを中止した、という意味ではない。自分がそういう風に考えている事自体を戒めたのだ。
 命あるものは、誰もいずれ死ぬ。
 実習や講義を通して、自分や匠は、それがごく当たり前の事だと受け入れているけれど、死そのものを忌避したい、否定したいと考える人間も大勢いて、たぶん、そちらの方が自然なのだ。自分達の考え方がメジャだと思い込んで行動すると、誰かを深く傷つける。それも、大学で過ごした二年間で学んだ事だった。
 気をつけなければ……。
 利玖はかすかに顎を持ち上げて、呼吸を整える。
 隣を見ると、藍以子の顔にもだいぶ血色が戻ってきていた。母屋が見えてきたので、ほっとしたのかもしれない。
 衣装部屋のテラスから母屋に入った杏平は、そのまま全員を居間へ連れて行くつもりのようだったが、藍以子はその手前で、
「お茶を淹れてきます」
と台所に入っていき、程なくして、漆塗りの盆を持って居間に入ってきた。薄い無色の硝子の茶碗に、滴るような色味の緑茶が注がれている。
 茶碗が全部で三つなのを見て、
「君の分も持っておいで」と杏平が優しく言った。
 居間から出て行こうとしていた藍以子が、こわばった表情で振り返る。
「本当はこんな話、知らない方が良いのだけれど」杏平は唇を歪める。彼にしてはかなり感情的な表現ではないか、と利玖は感じた。「だけど、君が井領家にいる間に、これが起きてしまった以上、何も知らせないでおく訳にはいかない。一つ、決断をしてもらわなければいけないからね」


 藍以子が四つ目の茶碗と急須を持って居間に戻ってくると、杏平はまず、利玖に質問をした。
「さっき、儒艮を見た時に、妊娠しているのか、とおっしゃっていましたね。貴女はそういう方面に詳しいのですか?」
「いえ……」利玖は首を振る。「わたしは、まだ学部三年生で、一本も論文を書いていません。それに、なんというか、うちの学科の毛色として、哺乳類も、海の生きものもあまり取り扱わないのです。ですから、専門的な知識はほとんどありません」
「なるほど……」杏平は目を細める。「では、貴女の目が、特別に観察に優れている、という事になる」
「儒艮は、分娩を助けてもらう為に、人間に対して接触を試みていたのですか?」
 その仮説を口にした途端、杏平の顔に場違いに明るい笑みが広がった。
「素晴らしい」彼は、ぱん、と手を打ち鳴らして匠に視線を向ける。「鮮烈な才能だ。大事になさった方が良いですよ」
「それは……」匠は、怪訝そうに瞬きをする。「どうも、勿体ないお言葉をかけて頂いて恐縮ですが、僕は利玖の保護者ではありません。それに、彼女はもう子どもじゃない」
 杏平は、ふっとスイッチが切れたように真顔に戻ると、テーブルに目を落とした。
 しばらく、その姿勢のまま何か考えていたが、やがて息をつき、顔を上げた。
「では、本題に入りましょうか。少々長い話になりますが……、どうか、お付き合いください」

 そこで井領杏平が語った言い伝えは、たった一度で、完璧に利玖の頭に吸収された。
 水を飲むよりも抵抗がない。躰のどこかに、あらかじめ、この話を刻み込む為に用意されていた領域と、そこに至るシンプルな式があって、それらすべてが正常に計算を終えて、純粋な情報が適切な場所に収まったような、かすかな高揚感が爪先から這い上ってきた。

 その余韻がゆっくりと引いていくのを待ってから、利玖は傍らの兄を見る。
 自分よりもずっと早く処理が終わっていたのだろう。彼は、険しい面持ちで藍以子の方を見つめていた。
「山椒と儒艮、そして井領家の人間。この三者のゆるやかな共生の関係を保つだけならば、こんな話は知らない方が良い」杏平は茶碗を手に取り、喉を鳴らして緑茶を飲む。「必要な時に……、つまり、今のような状況に陥った時に、最低限の人間にだけ説明出来るよう、代々、当主の座に就く者が語り継いできたのです」
 杏平は、匠を一瞥した。
「花筬喰の方にも話して頂いて構いませんよ。どうせ、今さら、罪にも問えない事です」
 匠は、何か言おうとしたように口を開きかけたが、結局無言のまま頷いただけだった。
 杏平は、茶碗の底に残った緑茶を見下ろして苦笑する。
「先祖とは違って、僕は、多くの人間を動かす力など持っていない。現にこうして、貴方がたに助力を乞わなければならない有様だ。最悪の場合、庭ごと焼き払って、この家を捨てる覚悟をしなければならないかもしれませんね」
 家を捨てる、という言葉を聞いた途端、藍以子の肩がびくっと揺れた。
「わたし……」彼女は、か細い声を発する。
「少し、考えます。花筬喰の方が来られるまでの間、一人にして頂けますか」
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