衍溢する潮 Toxicity order

梅室しば

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齢満ちて

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 白津透は、社用車の後部座席で懐かしい夢を見た。
 思いがけない所で、カイコという名前を聞いたせいだろうか。暑苦しさで目が覚めて、車の外に出た時も、高い所で皓々と無色の光を放つ月を見て、彼らの姿を連想した。繭の方ではない。それを紡ぎ始める直前、鉱石のように透きとおり始める幼虫の姿の方だ。
 夜になり、幾分風はひんやりとしたものの、依然として湿度は高い。肌がべたつく感じがする。
 いつ事態が急変するかわからないから、と藍以子を説得して、駐車場に停めた社用車の中で夜を明かす許可をもらったものの、せめてシャワーの使用許可くらいはオプションで交渉するべきだったかもしれない。こんな夜半になってしまっては、どこに行っても銭湯は閉まっているだろう。女性の警察官はこんな時どうしているのか、などと他愛無い事を考える。
 時計を見る。
 午前二時。夜はまだ長い。
 伸びをして、ついでにふわあと欠伸をした所で、庭木戸が動く音がした。数時間前に野端と一緒に煙草を吸った辺りである。
 驚いて、透はとっさに車の陰に隠れた。
 少し待ってから、顔だけを出して、こわごわと庭木戸の方を窺う。佐倉川匠が、一人でこちらへ歩いてくるのを見て、彼女は正直、ほっとした。儒艮の死骸の回収を終えた部下を全員撤収させた今、あの塀の中に残っている人間の中では、現状、彼が最も気を遣わずに話せる相手である。
「ものすごいタイミングですね」塀の中で寝ている人々を起こさないように、透は小さな声で言う。
「車のドアを閉める音が聞こえたんですよ。僕が借りている部屋、あの庭木戸のすぐ近くですから」
「あ、じゃあ、妹さんも? 申し訳ありません」透は頭を下げる。強く閉めたつもりではなかったのだが、起こしてしまったか、と思ったのだ。
「いえ、利玖とは部屋が別ですよ、流石にね……」匠は苦笑する。「彼女は母屋です。僕らと違って、ぐっすり眠っているんじゃないですかね」
 匠がさらに近づいてくる。
 透は、思わず「あ……」と両手を前に出してあとずさった。
「すみません、その辺で勘弁してもらえますか。シャワーを浴びていないんです。声は届きますから……」
 匠が目を見開いて立ち止まる。
 正面から鞭打たれたような、予想外に強い反応に透は驚いた。
「……ああ、それは……」匠は、 まだショックが引いていないような表情で眼鏡を触る。「すみません。僕が、気が利かなかった」
 しばらく、匠は何かが引くのを待つように、その場で俯いていたが、やがて顔を上げて車越しに透と向かい合った。
「儒艮、本当に上がってくると思いますか?」透は訊く。
「向こうに、まだ病んだ個体が残っているのなら、おそらく」匠は頷いた。「群れからすれば、弱った個体を追放する理由が増えて、ありがたいとすら思っているかもしれません」
「大変だわぁ」透は顔をしかめる。「毎回、あんなに大きな死骸を残されたら、たまったものじゃないですよ。外部にばれたら大ごとです。藍以子さん、どうするつもりなのかしら……」
「死骸の処理は、そちらにお願い出来ますか?」
「それは、もちろん」透は頷く。「でも、あのサイズですからね、安価では済まないと思いますよ。それに、継続して引き受けるなら、漏洩のリスクについてもご理解頂く必要があります。長く続く仕事は、属人的にならないように引き継ぎがされるものです。新人が割り当てられる可能性だってあります。わたしも野端も、申し訳ありませんが、毎回同行して目を光らせるお約束は出来ません。儒艮の出現が不定期だというのなら、なおさら……」
 透は、肩をすくめた。
「それと、はっきりと申し上げておきますが、死骸の処理を引き受ける事と、儒艮を殺す事とは別です」
「ええ、わかっています」匠は頷く。「処理をお願いする際には、確実に死んだのを見届けてからにしますよ」
「そんな……、どうやって?」透は苦笑する。「腐り始めてからご連絡を頂いたのでは……」
 言いかけて、ふと、それを解決する手段が一つある事に気づき、透は息をのんだ。
「パッシマンの良い餌になる、と思ったのですが……」言いさして、匠はふっと視線を逸らす。「いえ、やはり、現実的ではありませんね。僕やにも都合がある。やむを得ずそうするのだとしても、二、三回が限度かな」
 透は、こくこくと頷きながら、自分の鼓動か速くなるのを感じていた。
 パッシマンとは、透が匠に融通した花筬喰の商品である。他の商品のようにナンバリングされていないのは、まだ、試用段階であるからだ。異形のモノ達の血を吸わせるほどに力を増すが、殺傷力が強過ぎる為に、生身の人間では扱えない。より強い妖の血を、より多く吸わせれば、あるいは制御が可能になるかと、妖でありながら匠に忠誠を誓っている柑乃に携えさせているのだった。
(本気だった……)
 透は、浅く息を吸う。
 自分の反応を見て、やめたのだ。
 匠は〈壺〉に現れる儒艮を、最後の一頭になるまで柑乃に斬らせるつもりだった。

 匠が庭木戸を通り、塀の中に戻って行った後も、透は社用車のボンネットに手をついたまま、じっと下唇を噛んでいた。
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