衍溢する潮 Toxicity order

梅室しば

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 時間は少し遡る。
 佐倉川匠が庭木戸を押し開けて、塀の外に出た時、佐倉川利玖は台所の食卓の上で揺らめくキャンドルの火を見つめていた。蝋の色は、南国の海のようにかろやかで、すっきりと青い。
「これくらいの明かりだったら、外に漏れないかしら」藍以子がマッチを置いて呟く。「台風の夜みたいですね……」
「台風の夜って、蝋燭をつけるものなのですか?」利玖は首を傾げた。
「ええ、昔、関西に住んでいた時には……」藍以子は天井を見つめ、瞬きをする。「不謹慎ですけれど、何となくお祭りごとのような気がしたものです。学校が休みになったり、家中の雨戸を閉めて回ったり……、わくわくして……、大人は気が気じゃなかったでしょうけれど……」
「子どもの時って、そんなものだと思います」
 藍以子は、うっすらと微笑むと、キャンドルの横にカードを二枚並べた。デザインは同じだが、片方には藍以子の名前が、もう一枚には彼女の母親、井領千紗の名前が書かれている。
「これは……」利玖はカードに顔を近づける。「診察券ですか?」
 藍以子は頷き、
「右上の番号を見てください」
と言った。
「母とわたしで、一つしか番号が違わないでしょう? たぶん、発行した順に番号を振っているんだと思います」
「本当ですね」利玖は二枚を見比べて、え、と呟く。「じゃあ、お二人とも、同じ日に受診されたのですか?」
「そう……、なんだと思います」藍以子は目を伏せた。「そこに受診日は書かれていませんが、わたしが井領の姓で書かれているから、少なくとも、母が再婚して、このお屋敷に引っ越してきた後の事ですよね。それはわかるのですけれど、全然、覚えていなくて……」
「消化器内科……」利玖は診察券に書かれた文字を読む。「母娘で同時に、という事は、何かを食べてあたったんでしょうか?」
「利玖さん」藍以子は潤んだ瞳で利玖を見た。「母が、あの石を買ったのが、その直前だって考えると辻褄が合いませんか?」
 利玖は息をのんだ。
 藍以子は泣きそうな顔のまま、シンクの方を見る。
「ここで一度、とても強い山椒の風味がする肉を食べた事があると思ったんです。ずっと、そんな訳はない、と思っていたんですけれど……、もしかしたら、あれが……」
「ま、待ってください」利玖は、思わず彼女の話を遮った。「そんな大事な話を、なぜ、わたしに?」
「どうしてでしょう……」藍以子は力なく微笑んだ。「でも、今日お話しした人の中で、白津さんは、嘘もついていないけれど、仕事として割り切って遠巻きに見ているような印象がありました。貴女のお兄さんは、皆が儒艮を危険なものだと思い込むように誘導していると思った。利玖さんだけが、純粋に、山椒と儒艮を自然現象として考えているような感じがしました」
「そんな事はありません」利玖は首を振る。「わたしは、兄ほど頭が切れないし、白津さんのように人を動かす力も持っていないから、無責任な事が言えるだけです」
「そうかしら……」藍以子は、首を傾げた。「もし、そうだとしても、わたしはこれを利玖さんに打ち明ける事が出来て、ほっとしています。他の誰でもなく、貴女が良かった」
 藍以子は、ひとつ息をついて、にっこりと笑う。
「それに、お呼びしたのは、利玖さんにお伺いしたい事があったからです」
「わたしでわかる事なら……」利玖は頷く。
「父の遺品の選定ですが、あと、どれくらいかかりそうですか?」
 このシチュエーションで訊かれる事だとは思っていなかったので、利玖は驚いた。しかし、そう、自分達が呼ばれたのは、そもそもそれが動機だったのである。
「ご報告が遅くなって、申し訳ありません」利玖はまず、そう言って頭を下げた。「兄が作業に加わったので、実は、今日でほとんど終わってしまったのです。忻治さんのプライベートな書きもの、例えば、日記や随筆のようなものは一つもありませんでした。当初のご提案通り、すべて、佐倉川家で引き取らせて頂きたいと思います」
 話し始めると、徐々に気持ちが静まってきた。利玖は膝に両手を置いて背筋を伸ばす。
「佐倉川家には出入りの業者が何人かいます。引き取らせて頂いた本は、一旦、彼らに鑑定を依頼し、藍以子さん達に還元されて然るべき価値があると判断されたものについては、諸々の手数料を差し引いた上で、相当する代金をお支払いする形になると思います」
「まあ……」藍以子が目を丸くする。「そうでしたの……、それは、助かります」
「ただ、業者にも、それぞれ得意分野があります。ですから、引き取らせて頂いた後、段ボール箱ごと彼らに振り分けられるように本をまとめている所でした。最終的には、宅急便で送る事になりますが、サイズも厚みも装丁も様々な本がありましたので、発送の工程でも、やはりそれに特化した専門家に入ってもらう予定です。明日、帰るまでの間に、その辺りの事を藍以子さんにご相談したいと思っていました」
「問題ありません」藍以子は頷く。「メールで詳細を送って頂ければ、対応します」
 藍以子は胸に手を当てて、ふう、と息を漏らした。
「良かった……。こんな事になってしまったけれど、無事に終わったんですね」彼女は心から安堵したように呟いた。「これで、本当に、一段落ついたわ」
 利玖は、目を瞬かせた後、おずおずと「あの……」と言った。
「儒艮の問題が、まだ解決していません」
「塚を探して、骨を掘り出して、山椒の根元に埋め直して……、実がついたら、薬を作ってあげればいいんでしょう?」藍以子は両手を胸の前で重ねたまま、口もとに笑みを浮かべた。「あとは、わたし達だけでも出来る事です。夏が来る前に終わらせられたら楽ですね」
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