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3話
1 真偽の要
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咲弥には会っておきたい人物がいた。
とある大学の駐車場に彼は車を停めていた。早朝、仕事に出勤する前に会う約束をしていた。
――約束の時間。
咲弥は車から下りその人物を待っていた。
一八〇センチ程はあるだろうか、その長身に黒いサマースーツが似合っている。ノーネクタイの襟元に、スーツの上着の胸ポケットには彼愛用の眼鏡が差し込んである。
夏の朝、まだ心地良い風が彼の束ねた長髪を揺らした。
「・・・へぇ―、LEXUSかぁ・・・」
冷やかし交じりの軽い口笛を吹いてその人物が彼の傍らへ歩み寄ってきた。
ハスキーな声で、
「久しぶりだな。高級車とは・・・稼ぎがいいな、咲弥。」
そう言うと親しい笑みを浮かべた。
「車が好きなだけだよ・・・・。ところで、今は何をやっている?菊千代殿――。」
冷やかしに反撃するように咲弥も皮肉って笑いながら問う。
〝菊千代〟――そう呼ばれた人物は手にしていた名刺を差し出した。
そこには、〝心理学学士 磯部 綾〟と記されていた。
「学士号は持ってるが、まだまだ・・・勉強の身でね。ここの大学院生だよ。」
少し控えた笑みを見せて、彼女は肩まで伸びた茶色の髪を掻き揚げた。長身のすらりとしたスタイルが人目を惹きつける。
彼女もまた、幾世と転生を繰り返し宿魂体を換えながら仲間と共に生きてきた。その仲間の一人が、咲弥なのである。
「あんたは・・・?」
彼女の問い掛けに、咲弥も上着の内ポケットから名刺を取り出し渡した。
「へぇ・・・大学病院の医者ねぇ・・・・どおりで・・・・。」
(高級車にも乗れるわけだ)と、言いたいような表情で彼女は笑う。
「・・・・直臣のこと――」
と、急に真剣な顔付きになり菊千代が言う。
菊千代の言葉を追って咲弥が、
「居場所は分かってる。陵北高校の学生らしいが・・・・」
「・・・・記憶が、無いんだろ――?」
そう言う彼女の声音が重々しくなる。
――大切な直臣様を護る為、幾度と転生を繰り返してきた。
たとえその記憶は無くとも、ただ愛しい貴方の傍に居たい・・・・。
「・・・・辛くないか・・・・?」
菊千代は愁いを帯びた眸で咲弥を思う。
彼女に心配はさせまいと咲弥は優しい笑みを微かに浮かべ、
「・・・・仕方のないことだよ。」
低く落ち着いたその声で言いながら愛車に乗り込んだ。
静かなエンジン音が響く――。
咲弥は運転席の窓を開け、『また、連絡する』と言い残して駐車場を後にした。
「・・・・まったく・・・・」
咲弥の去って行った後を眼を細めながら菊千代は見つめていた。
そんな彼女のさらりとした髪を、夏の風が靡かせていく――。
夏の太陽が照らし始めていた。
夏の始まり――蝉の声が朝から響いていた。窓から入ってくる風が一時の涼を感じさせてくれる。
「今日も洗濯物が良く乾くわぁ。」
母親はベランダで洗濯物を干していた。
そんな母の姿を横目に見ながら、保は大急ぎで身支度を整えている。
「俺、今日、部活で遅くなっから!」
「行ってきます」の言葉もそこそこに慌てて保は出て行った。
「気を付けてよ!行ってらっしゃい!・・・」
母の言葉は聞こえただろうか――?
慌てて出て行く息子の姿に母は少し苦笑いする。そして、青天の空を仰ぎまた残りの洗濯物を干し始めた。
町は朝を迎え動き始める。
通勤、通学の人々や車で溢れていた。いつもの通学路、保は自転車を走らせる。
もうすぐ夏休みを前にして学生たちの足取りが軽やかに感じられる。遅れまいと小走りする小学生のランドセルの揺れる音。戯いも無い会話をしながら声を上げて笑う学生たち。
風が気持ち良い――。
信号待ちで止まっている保の眼に見慣れた姿が映る。道路を挟んで向かい側の歩道を友達と一緒に歩いていた。
信号が変わったのと同時に保は勢いよくペダルを踏み込んだ。
「よッ!」
背後からいきなり、その後頭部を小突く。
驚いて振り返ると、悪戯っ子のような笑顔がそこにあった。
「・・・んだ、保っ!」
保の悪戯に応じて亮介が羽交い絞めしようとする。
まぁ、これが彼らなりの挨拶とでもいうべきか・・・・。じゃれ合う仔犬のようだ。
亮介は保の首に腕を回し、その顔を自分の口許に引き寄せて耳打ちする。
「お前・・・また、カバンの中、タバコ隠してっだろ・・・?」
亮介の鋭い問いに保は苦笑いする。
「お前、今日持ち物検査だろ?忘れてたんだろ?ばぁか!覚悟しとけよ!」
「う・・・やべ、忘れてた!」
亮介の呆れた苦笑い。
興味本意でタバコを覚えた。面白かったから?かっこよく見えたから?ただ何となく、手にしているだけで粋がってる代物なだけだ。
保と亮介は自転車に相乗りして学校へ向かった。
校門にはしっかりと仁王立ちした教師が数人、次々と登校してくる学生たちに挨拶をしながら監査していた。
その中の一人の教師が相乗りの二人を見つけ、
「おい!荒木、芳賀野!お前らよく堂々と・・・・二人乗りは禁止だぞ!」
その教師を前に二人は悪びれる様子もなく、
「よっ!藤本!今日だけ!見逃して!」
「お前らぁ・・・教師だと思ってないだろ?だめだ!規則は規則だ!」
そうこの二人、教師に対してもいわゆるタメ口なのだ。
それもその筈・・・この教師、保たちサッカー部の顧問教師なのだ。教師というよりも、保たちからすると話のできる兄貴的な存在だった。
さすが、サッカー部顧問というだけあって日焼けした肌が凛々しく見える。
でも、それとこれとは別。
学校の規則は規則。特に、目立つ学生に対しては監査の目も厳しい。
――その時、
「・・・・・んっ!」
保は何時になく激しい耳鳴りに襲われた。
(何だ・・・これ・・・!)
止まない耳鳴りに保は掌で顔を覆った、
次の瞬間――!
「きゃぁぁ――っ!」
突然、女子学生らの甲高い声が校内に響いた。
一斉に全ての視線がそこに向けられる。その先には、グラウンドに面した手洗い場の水道管から水柱が吹き上がっていたのだ。
亀裂でも入ったのだろうか――?
突然の事に教師たちが急いで駆けつけて行く。
辺りは一瞬にして大きな水溜りになっていた。
「保!今だ、行くぞ!」
その隙を衝いて亮介が保を促しながら校内へと駆け込んだ。
「・・・タバコ、見つかんねぇうち捨てとけよ!・・・ってか、んなもん持ってくんな!」
「お前だって持ってんだろっ!」
「ばぁか!お前とは、頭が違うんだよっ!」
そう言いながら亮介は自分の頭を人差し指でトントンと示した。
そして、「じゃあな!」と手を上げると教室へと向かった。
そんな彼の後ろ姿を流し見しながら保は軽く舌打ちして教室へと急いだ。
学校中を騒がす朝の一件で保のクラスの学生たちもざわめいていた。
保は自分の席に着くと、椅子に凭れながら外の景色を眺めた。
窓側の中央辺りが彼の席だった。窓から入ってくる風に保の柔らかな髪が揺れる。
(・・・あんな耳鳴り、初めてだ・・・・)
遠くに広がる山々は眩しいほど深い緑に満ちて、その山並みには白く青い積乱雲が力強く湧き上がっていた。
白衣に着替えた義明はナースステーションへ向かっていた。
彼の歩調に合わせて白衣が靡く。
「おはようございます。二〇一号室の患者さんのカルテを見せて欲しいのですが・・・」
「あ、橘先生!おはようございます!」
義明の姿に気付き、看護師たちが一斉に挨拶をする。その爽やかな笑顔の挨拶に義明も微笑みを返す。
誰に対しても丁寧な口調の彼は看護師は勿論、多くの患者の間でも信頼され好感を持たれていた。
「・・・二〇一号室の――」
一人の看護師がカルテの置かれている棚から探し出し持って来た。
「ありがとう・・・。」
優しい笑みを返しそのカルテを受け取ると、義明はエレベーターのある方へと向かった。
カルテに目を通しながらエレベーターへ乗り込む。
「ねぇ、橘先生って素敵よねぇ。」
「そう!品があるっていうか・・・何処か謎めいたところがあるのよねぇ。そこがまたいいのよ!」
「でも、三十三歳で独身でしょ・・・?あぁ~私がまだ独身だったら橘先生とお付き合いしてみたかったなぁ・・・・。」
「ムリ、ムリ~・・・あんな素敵な人ほっておく人いないでしょ~」
義明の行った後では看護師たちの会話が絶えなかった。
この大学病院の四階には各科に配属されている医師たちの個人室が並んでいる。
義明はドアの横にある名札入れに自分の札を入れると部屋へ入って行った。
部屋はさほど広くはないが窓から入る陽射しで明るかった。デスクにはパソコンや医療関係の書物等が、所狭しと置かれていた。
そのデスクに先程のカルテを置くと彼は椅子に腰を下ろし深く一息吐いて、再びカルテに目を通し始めた。
――トゥルルル・・・・
院内専用の電話が鳴る。
「・・・・はい。」
「橘先生、理事長から御電話です。それと、巡回の時間です。宜しくお願いします。」
「分かりました。すぐに行きます。」
義明は内線に切り替え電話に出る。
「橘です――」
『橘君かね・・・以前話していた理事会の件だが、今日の夕方、院内の会議室で行うことになったんだが・・・宜しく頼むよ。』
「・・・はい、分かりました。」
義明の口調が少々重く感じる。
――どうも気が進まない・・・・・。
受話器を置くと軽く前髪を掻き上げた。その前髪がサラリと下りて彼の横顔を隠す。
そして彼は白衣を翻すようにして病棟へ急いだ。
陽は高くなり一日のうちでも最も暑い時間に差し掛かっていた。時折、吹いてくる風もアスファルトの噎せ返しで熱風に変わる。
さすがに商店街も人通りは少ない。ただ、車やバイクだけが忙しなく行き来していた。
息子はその父親の背中に哀願する。
「・・・すまない、父さん・・・。でも、今の俺にはこうするしかないんだ。頼む・・・この店を明け渡して欲しい――。」
そう言って息子は頑なな父親の背中に向かい頭を下げた。しかし、父はその背中を向けたまま一言も語らない。
そう、保の伯父とその息子の姿だ――。
「父さんなら分かる筈だろ・・・?生きていく為には何が必要なのか、どうすることが一番いいのか、父親だったら、なおさら・・・・分かってほしい――」
切なる願いにその父の重い口が開いた。
「・・・和弘、お前はどうなんだ?お前の本心はどうなんだ・・・?」
「・・・それは・・・・・」
父の穏やかだが力強い言葉に息子は少し戸惑ったが、
「・・・俺は・・・俺は、自分で選んだ仕事を全うしたい。悔いが残る生き方をしたくないんだ。」
それでも強い意志は変わらない――と、息子は言う。
「・・・・そうか、それなら・・・・・」
と、そこで始めて父親が息子の顔を見て確と伝えた。
「お前もそう思うのなら、父さんだって同じだ。護りたいものがある。それは、他の誰にも譲れない大切な物だ。」
――誰にも大切な護りたいものがある。しかし、人は誰しも強い人間ばかりではない。皆、何処かに弱さや痛み悲しみを背負いながら生きている・・・・。
父の眸は息子を想っている。だからこそ悲しみに揺らいでいた。
午後の授業も何となく耳に入ってくるだけで集中できない。
保は頬杖を付きながら窓の外を眺めている。
教師が黒板に文字を書き連ねる音や、教科書を捲る音が心地良いリズムを奏でているかのようだ。校庭には池が造られており、中には色鮮やかな錦鯉が飼われていた。校舎の敷地の周りには青々と茂る公孫樹の木々が並んでいる。
―――!
ぼんやりとしていた保の耳に入ってきたのは、授業終了のチャイムの音。
「よっしゃぁ!」
チャイムの音と同時に勢いよく立ち上がり、とりあえず開いていた教科書をカバンに放り込んで、自分のロッカーに直していたスポーツバッグを急いで取り出し足早に教室を出る。
「またな、荒木!」
そんな保の姿に苦笑いしながら友人たちが声を掛ける。
「おう!また明日な!」
「ほんと、荒木ってサッカーバカだよな!」
そう・・・保が待っていたのは授業より何より、大好きな部活の時間だ。水を得た魚のように保は軽やかに駆けて行く。
渡り廊下を一目散に駆ける。
三階建ての校舎がコの字型に並ぶ裏側に各部活専用の部室が設置されていた。その横には保がいつも利用している自転車置き場があった。
保は部室の鍵を開けると練習着に着替え始めた。
ドアをノックして会議室に入る。
「失礼します・・・。」
会議室に入ると、正面に二人の男性が座っていた。
「すまんね・・・橘君。君も忙しいとは思ったんだが・・・・」
そう言って義明の姿を見ると先程から待っていた正面の二人に紹介する。
「彼が橘君だ――。病院の名医でね・・・・」
理事長の紹介に、二人が即座に立ち上がり一礼した。
「・・・橘です――。」
義明もそれに応えて会釈する。
「お忙しい中、申し訳ありません。私ども《安藤コーポレーション》の企画担当をしております、内田と、こちらが荒木と申します。」
一人の男がそう紹介した。白髪の混じる髪を後ろに流し固めている。黒縁の眼鏡が、会社の上役そのままの印象を与えていた。
(・・・・荒木——?)
義明は隣の青年に視線を移した。
覚えがある姓・・・・。しかし、ただの偶然か・・・・。
「橘君も知っているだろうとは思うが、こちらの会社が企画されている〝都市化計画〟の件で、今日は君に話があってね・・・」
――その計画は知っていた。あちこちで噂に聞いているが・・・・。
「それで・・・この計画の内容としては・・・・」
上役の男が後を取って話の続きを始めた。
「新しい街を造る為に必要な物が、住宅、デパート、学校などです。そして、何よりも必要とされるのが、街に密着した医療機関です。そこで、是非とも理事長の御力をお借りして、新しく病院を建てて頂こうというお願いで話を進めさせて頂いております。」
義明の顔が微かに険しくなる。
「そこでだな、橘君・・・腕の良い君を信頼して、君に独立してもらい、新しい病院を任せたいと思っているのだが――?」
理事長は落ち着いた笑みを浮かべ義明を見やった。
――正直、驚いた。ここまで話が進んでいたとは・・・・・。
それはこの上ない出世への道。誰もが羨み、あるいは妬むであろう話だ。
しかし、彼は険しい表情のまま、
「このお話に関しては、私は返答し兼ねます。」
義明の応えに三人は呆気に取られた様子で声を詰まらせた。
そして、誰よりも辛くなったのは、荒木と呼ばれた――そう、和弘だった。
――自分と同じような立場なのに、何故・・・・?
「・・・申し訳ありません。しかし、ただでさえ医師不足で深刻な状況の中で、設備だけ十分にあっても何もなりません。私は、今の場で私に与えられた役目を全うするだけです。」
そうはっきりと言い切った。彼の眸には何の迷いもない。
「申し訳ありません、理事長――。この件に関しては、私でなくとも、私以外に腕の良い医師が大学病院にはたくさんいらっしゃいます。」
何処までも自分を謙遜してそう告げる義明は、理事長の方を見やり微笑んだ。
「・・・そうか・・・それは残念だが――」
理事長は深く一息ついて瞼を閉じた。
「話はそれだけでしたら、私の方は先に仕事に戻らせて頂きます。」
義明は静かに席を立つと、軽く一礼して部屋を出た。
ドアの前で気持ちを切り替えるように、義明は深く一息ついて歩き出した。
その背後から突然、
「・・・・どうしてですか?」
振り返った先に和弘の姿があった。
和弘の表情は少し切なげな感じもした。それでも彼は真っ直ぐに義明を見やって言う。
「私には貴方が理解できません。どうして自分の立場を不利にしてまでも、条件の良い話を断わってしまうのですか――?」
その眸が訴えていた。
義明は落ち着いた口調で応える。
「・・・確かに、仕事は大事です。生きていく為の糧ですからね・・・・」
そこまで言うと、義明は一呼吸おいてしっかりと和弘を見つめた。
そして、
「それ以上に私には大切なものがあります。全てを犠牲にしても護りたいものがあるのです・・・・。ただそれだけの事ですよ――。」
それだけ言い残すと静かに微笑んでその場を後にした。
この人も――、父親と同じ事を言うのだ。
行き場のないこの気持ち。
和弘は茫然と立ち尽くしていた。
大切なもの・・・・
護りたいもの・・・・
とある大学の駐車場に彼は車を停めていた。早朝、仕事に出勤する前に会う約束をしていた。
――約束の時間。
咲弥は車から下りその人物を待っていた。
一八〇センチ程はあるだろうか、その長身に黒いサマースーツが似合っている。ノーネクタイの襟元に、スーツの上着の胸ポケットには彼愛用の眼鏡が差し込んである。
夏の朝、まだ心地良い風が彼の束ねた長髪を揺らした。
「・・・へぇ―、LEXUSかぁ・・・」
冷やかし交じりの軽い口笛を吹いてその人物が彼の傍らへ歩み寄ってきた。
ハスキーな声で、
「久しぶりだな。高級車とは・・・稼ぎがいいな、咲弥。」
そう言うと親しい笑みを浮かべた。
「車が好きなだけだよ・・・・。ところで、今は何をやっている?菊千代殿――。」
冷やかしに反撃するように咲弥も皮肉って笑いながら問う。
〝菊千代〟――そう呼ばれた人物は手にしていた名刺を差し出した。
そこには、〝心理学学士 磯部 綾〟と記されていた。
「学士号は持ってるが、まだまだ・・・勉強の身でね。ここの大学院生だよ。」
少し控えた笑みを見せて、彼女は肩まで伸びた茶色の髪を掻き揚げた。長身のすらりとしたスタイルが人目を惹きつける。
彼女もまた、幾世と転生を繰り返し宿魂体を換えながら仲間と共に生きてきた。その仲間の一人が、咲弥なのである。
「あんたは・・・?」
彼女の問い掛けに、咲弥も上着の内ポケットから名刺を取り出し渡した。
「へぇ・・・大学病院の医者ねぇ・・・・どおりで・・・・。」
(高級車にも乗れるわけだ)と、言いたいような表情で彼女は笑う。
「・・・・直臣のこと――」
と、急に真剣な顔付きになり菊千代が言う。
菊千代の言葉を追って咲弥が、
「居場所は分かってる。陵北高校の学生らしいが・・・・」
「・・・・記憶が、無いんだろ――?」
そう言う彼女の声音が重々しくなる。
――大切な直臣様を護る為、幾度と転生を繰り返してきた。
たとえその記憶は無くとも、ただ愛しい貴方の傍に居たい・・・・。
「・・・・辛くないか・・・・?」
菊千代は愁いを帯びた眸で咲弥を思う。
彼女に心配はさせまいと咲弥は優しい笑みを微かに浮かべ、
「・・・・仕方のないことだよ。」
低く落ち着いたその声で言いながら愛車に乗り込んだ。
静かなエンジン音が響く――。
咲弥は運転席の窓を開け、『また、連絡する』と言い残して駐車場を後にした。
「・・・・まったく・・・・」
咲弥の去って行った後を眼を細めながら菊千代は見つめていた。
そんな彼女のさらりとした髪を、夏の風が靡かせていく――。
夏の太陽が照らし始めていた。
夏の始まり――蝉の声が朝から響いていた。窓から入ってくる風が一時の涼を感じさせてくれる。
「今日も洗濯物が良く乾くわぁ。」
母親はベランダで洗濯物を干していた。
そんな母の姿を横目に見ながら、保は大急ぎで身支度を整えている。
「俺、今日、部活で遅くなっから!」
「行ってきます」の言葉もそこそこに慌てて保は出て行った。
「気を付けてよ!行ってらっしゃい!・・・」
母の言葉は聞こえただろうか――?
慌てて出て行く息子の姿に母は少し苦笑いする。そして、青天の空を仰ぎまた残りの洗濯物を干し始めた。
町は朝を迎え動き始める。
通勤、通学の人々や車で溢れていた。いつもの通学路、保は自転車を走らせる。
もうすぐ夏休みを前にして学生たちの足取りが軽やかに感じられる。遅れまいと小走りする小学生のランドセルの揺れる音。戯いも無い会話をしながら声を上げて笑う学生たち。
風が気持ち良い――。
信号待ちで止まっている保の眼に見慣れた姿が映る。道路を挟んで向かい側の歩道を友達と一緒に歩いていた。
信号が変わったのと同時に保は勢いよくペダルを踏み込んだ。
「よッ!」
背後からいきなり、その後頭部を小突く。
驚いて振り返ると、悪戯っ子のような笑顔がそこにあった。
「・・・んだ、保っ!」
保の悪戯に応じて亮介が羽交い絞めしようとする。
まぁ、これが彼らなりの挨拶とでもいうべきか・・・・。じゃれ合う仔犬のようだ。
亮介は保の首に腕を回し、その顔を自分の口許に引き寄せて耳打ちする。
「お前・・・また、カバンの中、タバコ隠してっだろ・・・?」
亮介の鋭い問いに保は苦笑いする。
「お前、今日持ち物検査だろ?忘れてたんだろ?ばぁか!覚悟しとけよ!」
「う・・・やべ、忘れてた!」
亮介の呆れた苦笑い。
興味本意でタバコを覚えた。面白かったから?かっこよく見えたから?ただ何となく、手にしているだけで粋がってる代物なだけだ。
保と亮介は自転車に相乗りして学校へ向かった。
校門にはしっかりと仁王立ちした教師が数人、次々と登校してくる学生たちに挨拶をしながら監査していた。
その中の一人の教師が相乗りの二人を見つけ、
「おい!荒木、芳賀野!お前らよく堂々と・・・・二人乗りは禁止だぞ!」
その教師を前に二人は悪びれる様子もなく、
「よっ!藤本!今日だけ!見逃して!」
「お前らぁ・・・教師だと思ってないだろ?だめだ!規則は規則だ!」
そうこの二人、教師に対してもいわゆるタメ口なのだ。
それもその筈・・・この教師、保たちサッカー部の顧問教師なのだ。教師というよりも、保たちからすると話のできる兄貴的な存在だった。
さすが、サッカー部顧問というだけあって日焼けした肌が凛々しく見える。
でも、それとこれとは別。
学校の規則は規則。特に、目立つ学生に対しては監査の目も厳しい。
――その時、
「・・・・・んっ!」
保は何時になく激しい耳鳴りに襲われた。
(何だ・・・これ・・・!)
止まない耳鳴りに保は掌で顔を覆った、
次の瞬間――!
「きゃぁぁ――っ!」
突然、女子学生らの甲高い声が校内に響いた。
一斉に全ての視線がそこに向けられる。その先には、グラウンドに面した手洗い場の水道管から水柱が吹き上がっていたのだ。
亀裂でも入ったのだろうか――?
突然の事に教師たちが急いで駆けつけて行く。
辺りは一瞬にして大きな水溜りになっていた。
「保!今だ、行くぞ!」
その隙を衝いて亮介が保を促しながら校内へと駆け込んだ。
「・・・タバコ、見つかんねぇうち捨てとけよ!・・・ってか、んなもん持ってくんな!」
「お前だって持ってんだろっ!」
「ばぁか!お前とは、頭が違うんだよっ!」
そう言いながら亮介は自分の頭を人差し指でトントンと示した。
そして、「じゃあな!」と手を上げると教室へと向かった。
そんな彼の後ろ姿を流し見しながら保は軽く舌打ちして教室へと急いだ。
学校中を騒がす朝の一件で保のクラスの学生たちもざわめいていた。
保は自分の席に着くと、椅子に凭れながら外の景色を眺めた。
窓側の中央辺りが彼の席だった。窓から入ってくる風に保の柔らかな髪が揺れる。
(・・・あんな耳鳴り、初めてだ・・・・)
遠くに広がる山々は眩しいほど深い緑に満ちて、その山並みには白く青い積乱雲が力強く湧き上がっていた。
白衣に着替えた義明はナースステーションへ向かっていた。
彼の歩調に合わせて白衣が靡く。
「おはようございます。二〇一号室の患者さんのカルテを見せて欲しいのですが・・・」
「あ、橘先生!おはようございます!」
義明の姿に気付き、看護師たちが一斉に挨拶をする。その爽やかな笑顔の挨拶に義明も微笑みを返す。
誰に対しても丁寧な口調の彼は看護師は勿論、多くの患者の間でも信頼され好感を持たれていた。
「・・・二〇一号室の――」
一人の看護師がカルテの置かれている棚から探し出し持って来た。
「ありがとう・・・。」
優しい笑みを返しそのカルテを受け取ると、義明はエレベーターのある方へと向かった。
カルテに目を通しながらエレベーターへ乗り込む。
「ねぇ、橘先生って素敵よねぇ。」
「そう!品があるっていうか・・・何処か謎めいたところがあるのよねぇ。そこがまたいいのよ!」
「でも、三十三歳で独身でしょ・・・?あぁ~私がまだ独身だったら橘先生とお付き合いしてみたかったなぁ・・・・。」
「ムリ、ムリ~・・・あんな素敵な人ほっておく人いないでしょ~」
義明の行った後では看護師たちの会話が絶えなかった。
この大学病院の四階には各科に配属されている医師たちの個人室が並んでいる。
義明はドアの横にある名札入れに自分の札を入れると部屋へ入って行った。
部屋はさほど広くはないが窓から入る陽射しで明るかった。デスクにはパソコンや医療関係の書物等が、所狭しと置かれていた。
そのデスクに先程のカルテを置くと彼は椅子に腰を下ろし深く一息吐いて、再びカルテに目を通し始めた。
――トゥルルル・・・・
院内専用の電話が鳴る。
「・・・・はい。」
「橘先生、理事長から御電話です。それと、巡回の時間です。宜しくお願いします。」
「分かりました。すぐに行きます。」
義明は内線に切り替え電話に出る。
「橘です――」
『橘君かね・・・以前話していた理事会の件だが、今日の夕方、院内の会議室で行うことになったんだが・・・宜しく頼むよ。』
「・・・はい、分かりました。」
義明の口調が少々重く感じる。
――どうも気が進まない・・・・・。
受話器を置くと軽く前髪を掻き上げた。その前髪がサラリと下りて彼の横顔を隠す。
そして彼は白衣を翻すようにして病棟へ急いだ。
陽は高くなり一日のうちでも最も暑い時間に差し掛かっていた。時折、吹いてくる風もアスファルトの噎せ返しで熱風に変わる。
さすがに商店街も人通りは少ない。ただ、車やバイクだけが忙しなく行き来していた。
息子はその父親の背中に哀願する。
「・・・すまない、父さん・・・。でも、今の俺にはこうするしかないんだ。頼む・・・この店を明け渡して欲しい――。」
そう言って息子は頑なな父親の背中に向かい頭を下げた。しかし、父はその背中を向けたまま一言も語らない。
そう、保の伯父とその息子の姿だ――。
「父さんなら分かる筈だろ・・・?生きていく為には何が必要なのか、どうすることが一番いいのか、父親だったら、なおさら・・・・分かってほしい――」
切なる願いにその父の重い口が開いた。
「・・・和弘、お前はどうなんだ?お前の本心はどうなんだ・・・?」
「・・・それは・・・・・」
父の穏やかだが力強い言葉に息子は少し戸惑ったが、
「・・・俺は・・・俺は、自分で選んだ仕事を全うしたい。悔いが残る生き方をしたくないんだ。」
それでも強い意志は変わらない――と、息子は言う。
「・・・・そうか、それなら・・・・・」
と、そこで始めて父親が息子の顔を見て確と伝えた。
「お前もそう思うのなら、父さんだって同じだ。護りたいものがある。それは、他の誰にも譲れない大切な物だ。」
――誰にも大切な護りたいものがある。しかし、人は誰しも強い人間ばかりではない。皆、何処かに弱さや痛み悲しみを背負いながら生きている・・・・。
父の眸は息子を想っている。だからこそ悲しみに揺らいでいた。
午後の授業も何となく耳に入ってくるだけで集中できない。
保は頬杖を付きながら窓の外を眺めている。
教師が黒板に文字を書き連ねる音や、教科書を捲る音が心地良いリズムを奏でているかのようだ。校庭には池が造られており、中には色鮮やかな錦鯉が飼われていた。校舎の敷地の周りには青々と茂る公孫樹の木々が並んでいる。
―――!
ぼんやりとしていた保の耳に入ってきたのは、授業終了のチャイムの音。
「よっしゃぁ!」
チャイムの音と同時に勢いよく立ち上がり、とりあえず開いていた教科書をカバンに放り込んで、自分のロッカーに直していたスポーツバッグを急いで取り出し足早に教室を出る。
「またな、荒木!」
そんな保の姿に苦笑いしながら友人たちが声を掛ける。
「おう!また明日な!」
「ほんと、荒木ってサッカーバカだよな!」
そう・・・保が待っていたのは授業より何より、大好きな部活の時間だ。水を得た魚のように保は軽やかに駆けて行く。
渡り廊下を一目散に駆ける。
三階建ての校舎がコの字型に並ぶ裏側に各部活専用の部室が設置されていた。その横には保がいつも利用している自転車置き場があった。
保は部室の鍵を開けると練習着に着替え始めた。
ドアをノックして会議室に入る。
「失礼します・・・。」
会議室に入ると、正面に二人の男性が座っていた。
「すまんね・・・橘君。君も忙しいとは思ったんだが・・・・」
そう言って義明の姿を見ると先程から待っていた正面の二人に紹介する。
「彼が橘君だ――。病院の名医でね・・・・」
理事長の紹介に、二人が即座に立ち上がり一礼した。
「・・・橘です――。」
義明もそれに応えて会釈する。
「お忙しい中、申し訳ありません。私ども《安藤コーポレーション》の企画担当をしております、内田と、こちらが荒木と申します。」
一人の男がそう紹介した。白髪の混じる髪を後ろに流し固めている。黒縁の眼鏡が、会社の上役そのままの印象を与えていた。
(・・・・荒木——?)
義明は隣の青年に視線を移した。
覚えがある姓・・・・。しかし、ただの偶然か・・・・。
「橘君も知っているだろうとは思うが、こちらの会社が企画されている〝都市化計画〟の件で、今日は君に話があってね・・・」
――その計画は知っていた。あちこちで噂に聞いているが・・・・。
「それで・・・この計画の内容としては・・・・」
上役の男が後を取って話の続きを始めた。
「新しい街を造る為に必要な物が、住宅、デパート、学校などです。そして、何よりも必要とされるのが、街に密着した医療機関です。そこで、是非とも理事長の御力をお借りして、新しく病院を建てて頂こうというお願いで話を進めさせて頂いております。」
義明の顔が微かに険しくなる。
「そこでだな、橘君・・・腕の良い君を信頼して、君に独立してもらい、新しい病院を任せたいと思っているのだが――?」
理事長は落ち着いた笑みを浮かべ義明を見やった。
――正直、驚いた。ここまで話が進んでいたとは・・・・・。
それはこの上ない出世への道。誰もが羨み、あるいは妬むであろう話だ。
しかし、彼は険しい表情のまま、
「このお話に関しては、私は返答し兼ねます。」
義明の応えに三人は呆気に取られた様子で声を詰まらせた。
そして、誰よりも辛くなったのは、荒木と呼ばれた――そう、和弘だった。
――自分と同じような立場なのに、何故・・・・?
「・・・申し訳ありません。しかし、ただでさえ医師不足で深刻な状況の中で、設備だけ十分にあっても何もなりません。私は、今の場で私に与えられた役目を全うするだけです。」
そうはっきりと言い切った。彼の眸には何の迷いもない。
「申し訳ありません、理事長――。この件に関しては、私でなくとも、私以外に腕の良い医師が大学病院にはたくさんいらっしゃいます。」
何処までも自分を謙遜してそう告げる義明は、理事長の方を見やり微笑んだ。
「・・・そうか・・・それは残念だが――」
理事長は深く一息ついて瞼を閉じた。
「話はそれだけでしたら、私の方は先に仕事に戻らせて頂きます。」
義明は静かに席を立つと、軽く一礼して部屋を出た。
ドアの前で気持ちを切り替えるように、義明は深く一息ついて歩き出した。
その背後から突然、
「・・・・どうしてですか?」
振り返った先に和弘の姿があった。
和弘の表情は少し切なげな感じもした。それでも彼は真っ直ぐに義明を見やって言う。
「私には貴方が理解できません。どうして自分の立場を不利にしてまでも、条件の良い話を断わってしまうのですか――?」
その眸が訴えていた。
義明は落ち着いた口調で応える。
「・・・確かに、仕事は大事です。生きていく為の糧ですからね・・・・」
そこまで言うと、義明は一呼吸おいてしっかりと和弘を見つめた。
そして、
「それ以上に私には大切なものがあります。全てを犠牲にしても護りたいものがあるのです・・・・。ただそれだけの事ですよ――。」
それだけ言い残すと静かに微笑んでその場を後にした。
この人も――、父親と同じ事を言うのだ。
行き場のないこの気持ち。
和弘は茫然と立ち尽くしていた。
大切なもの・・・・
護りたいもの・・・・
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