この青空の下を歩く夢

花崎有麻

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プロローグ

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 カツ、カツ、と、乾いた音が響いていた。
 そしてその音が響く度、白い線が描かれ形を成していく。
 休むことなく、止まることなく、音は響き、線が生まれる。その音を響かせているのは一人の少年だ。
 幼さの残る横顔は真剣そのもので、壁を見つめ一心不乱に手を動かす。その手に握られた白いチョークが壁を打ち、音を響かせ線を描く。
 もう何時間、壁に向かっているのかわからない。延々と、ただただひたすらに少年は線を描いていた。その証拠に少年の額には薄らと汗が滲み、彼の疲労を物語っている。
 だがそれでも、少年は止めない。
 どれだけ疲れても手を動かすことを止めたりしない。
 なぜなら、この場に少年の邪魔をするものはただの一人もいないからだ。誰になにを言われることなく、自分のしたいようにすることができる。だから何一つ苦とは思わない。どれだけ疲れ、汗が滲んでも、それを完成させるまで決して少年はその手を止めない。
 乾いた音はいつまでも響く。少年が描いた線は、時間を追うごとに明確な形を成していった。
「・・・・・・っ」
 そしてついに、少年の手が止まる。
 少年はその場から数歩下がり、自分が描き上げたそれの全体像を見る。
 描かれていたのは、少年が描いたのは、人だった。
 成人男性と成人女性が一人ずつに、少年よりも僅かに年上の男の子が二人。
 それは、家族の絵だ。
 なんてことのない、四人家族の日常の一コマを切り取った人物画。それを少年は数時間をかけて描き、完成させたのだ。
「・・・・・・」
 自分が描いたものを見て、しかし少年の表情に達成感のようなものはなかった。この程度の出来では満足できない、納得できない。そうありありと表情には浮かんでいるのに、それでもどこか諦めたような色すら浮かぶ複雑な表情のまま少年は自分が描いた絵を見ていた。
 ジッと、無言のまま少年が壁画を見ていると床の上に置いてあったバッグの中から音がした。静かなその場所に響くのは少年のスマホから流れる着信音だ。その小さく短い音で我に返った少年は、僅かに溜息を吐くとバッグを手に取り中からスマホを取りだした。
 画面を見るとメッセージアプリが起動していて、一通のメッセージが届いている。差出人が誰か、なんてことはすでにわかっていた。もう一度、溜息を吐きながらメッセージを目で追うと、予想通りの内容が目に飛び込んでくる。
 内容は単純だ。早く家に帰ってくるようにという少年を叱責する内容だ。そのメッセージを読んだ少年は興味なさげにアプリを閉じる。すると今の時刻が画面に大きく表示された。
 二十三時五十三分。もう日付が変わろうかという時間だが、少年は表情を変えずにスマホをバッグの中に投げ入れ、天を仰いだ。
 少年の視線の先には崩れかけの瓦礫と、その隙間から覗く星空、そして静かに輝く月が見える。
 少年が立つのはいつ崩れるかもわからない瓦礫の中。かつては多くの人が暮らし、生活していたが今では少年以外の人影は見えず、誰も近寄ろうともしない集合住宅跡地。かつての時代の流れの中で建造され、しかしまたも時の流れの中で人口が減り、ついには誰も住まなくなり崩れ去るのを待つだけになった廃団地。
 それが今、少年が立っている場所であり、その崩れかけの壁に少年はチョークで人物の絵を描いていたのだ。
 地元では心霊スポットの一つに数えられるその場所に、少年は夜な夜な、しかも何年も通い詰めては絵を描いている。それを始めた頃は両親から深夜に外出することを咎められ、酷く叱責されたものだが、今ではもう諦められ、呆れられ、直接顔を合わせでもしない限りなにも言われなくなった。
 今でも少年に小言のように説教してくるのはたった一人の双子の兄だけ。先程のメッセージもその兄からのものだ。
「・・・・・・僕のことなんて、どうだっていいだろうに」
 兄も両親に倣ってさっさと干渉を止めてくれればいいのにと思う。少年はそんなことは望んでいないし、今更家族の意見に従う気もない。だから早々に兄からのメッセージを頭から追い出そうとした。
「・・・・・・え?」
 そのときふいに、視界をなにかが遮った気がした。
 視界、と言ってもすぐに目の前じゃない。崩れかけの団地の天井、その隙間から見える星空を、なにか大きなものが遮ったように見えたのだ。
 月明かりだけしか光源のない場所ではそのなにかの姿をはっきりと捉えることはできない。ただなにかが横切ったようにしか見えなかった。
 なにかはわからない。見間違いかも知れない。でも妙に気になったのは、その影が人間ほどの大きさをしていて、羽のようなものが生えて飛んでいるように見えたからだ。
 ありえない。見間違い。幻覚。もしくはここは心霊スポットだ。だからそういったものかもしれない。普通ならそう思う。でも気づいたら少年は駆けだしていた。部屋から飛び出し、影の向かったほうへと走る。
 この廃団地は山の麓にコの字型で建っている。六階建てで部屋数は百を超えていて、少年はその最上階にある部屋の一室で絵を描いていた。影が向かったのは団地の角。今そこはちょうど大きく崩れていて、危険ではあるが空と景色がよく見える。その崩れかけの先端ギリギリに立って少年は空を見上げた。
「・・・・・・?」
 目の前には星空が広がっている。もちろん月と星以外のものはそこにはなく、羽の生えた人の影なんて見えるはずもない。
(・・・・・・気のせい、か?)
 絵を描き続けたせいで疲れていたのだろうか。そういえば学校が終わってからすぐここへ来て、それから飲まず食わずでずっと絵を描いていた。空腹と疲労で幻覚でも見たのかも知れない。
 兄の言葉に従うわけではないが、一段落したことだしそろそろ家に帰って眠ったほうがいいだろう。
 ――と、そんなことを思って視線を外そうとした瞬間だった。
 それは、再び少年の視界に飛び込んできた。
(今――っ)
 今度は僅かだった。視界の隅にほんの僅か、羽のようなシルエットが見えた。少年は再び空を見上げる。するとちょうど物陰になっている場所でなにかが小さく動いた。
(よく見えない・・・・・・もう少し・・・・・・)
 あとほんの少し、あと一メートル下がればそれが見えそうだ。少年は視線をその影に固定したまま一歩、また一歩と下がる。そしてようやくその姿が見えそうという三歩目を踏み出し、その足が空を切った。
「ぁ――」
 足場が、ない――。
 廃団地の崩れ去った床では、当然だが少年の身体を支えることができない。その場に足場があると思い込んで踏み出した足には体重も乗っていて、空中に投げ出された少年の身体は重力に従って落下する。
「ぅ、ぁぁぁあああ――っ!?」
 背筋が凍り、叫び声が自然と出た。手足をバタつかせてもなにも掴めるものはなく、ただひたすらに落下していく。
 この団地は高層マンションというわけではない。しかし六階の高さから落ちれば運が良くても骨の数本は折れるだろう。そして打ち所が悪ければ――。
 その最悪の結末が頭を過ぎると、もう叫び声を上げることすらできなくなった。
 ここは誰も近寄らない廃団地で、誰もが寝静まる深夜。奇跡を期待しても、少年の身体が地面に叩きつけられるのは間違いなかった。
 遠ざかっていく空を見るのがたまらなく怖かった。ああ、今自分は落下している。死が近づいている。その実感が一秒にも満たない時間で怒濤のように押し寄せてくる。だから少年は目を閉じた。その恐怖を少しでも遠ざけようとした。
 ――と、そのときだ。

「――大丈夫?」

 誰もいないはずの、落下している最中の空中で女の子の声がした。
 その声と手に感じる優しい温もりと、そしてありえないはずの浮遊感に目を開ける。
 月と、星と、夜の空を背にした一人の少女の姿。
 背中から漆黒の羽を生やし空を飛ぶ、真っ赤な瞳の少女の姿が、そこにはあった。
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