この青空の下を歩く夢

花崎有麻

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 カーテンの隙間から差し込む光を受けて、中島合人は目を開いた。
 枕元のスマホで時間を確認するといつもの起床時間の五分前。いつもならアラームが鳴るまで目を閉じているのだが、今朝はとてもそんな気分ではない。ベッドから出てスウェットを脱ぎ捨てると中学の制服に袖を通した。
 その間にも頭を過ぎるのは昨晩の光景。
 廃団地の六階から落下した合人の手を取った、あの少女の姿。
 夜空の黒とは正反対の病的なまでに白い肌と、月明かりが陰るほどに輝いて見えた長い金髪。目鼻立ちの整った顔は合人との年齢差をほとんど感じさせないほどに幼さが残っていた。
 あんな時間の、あんな場所に、自分以外の、それも同じ年頃の少女がいるというだけで不審だ。だが彼女の最も不審で、不可思議なところはそこではない。
 今思い出しても現実味がない。
 彼女の背中に生えた黒い羽と、宝石のように色濃い赤色の瞳。彼女は六階から落下した合人の手を空中で取ると、そのまま上昇して合人が落ちた場所へと戻ったのだ。
 到底、彼女が普通の人間だとは思えない。落下による精神的ショックと、突然の異質な存在の登場に昨晩の合人の思考は停止し、助けてもらった彼女とはそれ以上の話をすることもなくそこで別れてしまった・・・・・・というよりは、合人の手を離した少女はそのまま暗闇の中へと消え去ってしまったのだ。
(あの娘は、いったい・・・・・・)
 時間が経って心も落ち着くとそんなことばかり頭を支配する。おかげで一睡もできなかったため今頃になって睡魔が襲ってきていた。
 彼女はいったいなんだったのか。夢でも見ていたのかと思ったが、そもそも寝ていないのだから夢を見るわけがない。なら彼女は何者だ。あの羽は、あの瞳は本物なのか。本当に空を飛んでいたのか――。
「・・・・・・」
 家に帰ってから何度も何度も同じ質問を自分に問うた。でも合人が六階から転落したのも、それを彼女が助けてくれたのも、彼女に握られた手の温もりも、一晩経った今でも鮮明に覚えている。
 ありえないことだ。そんなことはわかっている。でもありえないと切って捨ててしまうこともまたできなかった。
 では、彼女は何者なのか――。
 振り出しに戻った自分へのその問いかけは、スマホのアラームの音で途切れた。
 いつの間にか着替える手は止まり、いつも起きる時間になっていた。
 合人はスマホのアラームを止めると時間を気にする素振りも見せずに着替える。
 着替え終わると通学カバンを手にして部屋を出た。
 合人の部屋は家の三階の一番角部屋にある。角部屋と言えば聞こえは良いが、部屋の広さは他の部屋と比べても一回り以上狭く、物置やトイレなどを除けばこの中島家では一番狭い部屋だった。
 三階の個人スペースから、リビングのある二階の生活スペースへと階段を降りて向かう。洗面所で顔を洗い歯を磨き、それからキッチンへ。戸棚から食パンを一枚取り出すとトースターへ差し込んで焼けるのを待った。
 数分してパンが焼き上がり、冷蔵庫から英語のラベルが貼られている高級そうなジャムを適当に取り出して塗りたくる。
 ――と、パンを咥えてジャムを冷蔵庫に戻したところでキッチンのドアが開き、そこから父親が顔を出した。
 互いの視線が交錯する。しかしどちらも一言も発しない。朝の挨拶すら交わすことなく、合人は口にパンを咥えたまま父親の隣をすり抜けて行こうとした。
「待て、合人」
 が、しかし。背中越しに父親から名前を呼ばれ足を止める。首だけで振り向くと父親もちょうど振り返ったところだった。その眉間には皺が寄り、睨み付けるような視線が向けられている。
「お前、昨日もまた夜遅くに帰ってきたな。中学生がそんな遅くに一人で出歩いていいと思っているのか?」
「・・・・・・」
 父親の言葉は傍から見れば正しいものに感じられる。中学生が日付の変わる頃まで一人で外出していれば、親ならばその身を案じるのは当然だ。だが合人は父親の言葉の真意をよく理解していた。言葉で答える代わりに視線を投げる。
「・・・・・・お前も来年は高校に入学する歳だというのに、なんだその態度は。夜な夜な遊び歩いて、恥ずかしいとは思わないのか」
 父親の語気が僅かに荒くなったのは聞き間違いではない。合人の態度にイラつきを見せたのだ。
 だが合人からすれば夜に出歩いていることも、父親にこういった言葉を投げつけられることも、この家での自分の扱いなどすでに日常の一部になっている。これが当たり前の光景なのだ。だからなにかを言われてもなにかを言い返すことにすらなんら意味を感じない。
 合人は父親の言葉を聞くとパンを租借しながら父親に背を向けて一階へと向かう。
「合人! お前、自分の立場が分かっているのか! 少しは常識というものを身につけたらどうだっ」
(常識・・・・・・? それをあんたが言うのか)
 合人は歩きながら鼻で笑う。そしてそれが父親に聞こえたのかどうかはわからないが父親は合人に聞こえるように舌打ちをすると、
「・・・・・・まったく、景司とは雲泥の差だ。双子だというのに、どうしてこうまで違うのか。――役立たずが」
「・・・・・・っ」
 さすがにその言葉に合人も一瞬足を止めるが、パンを噛み千切ることで堪えて階段を降りていった。
 中島家の一階は合人の部屋並の広さを誇る玄関と、これ見よがしの高級車が三台も停まるガレージに銜え、もう一つ部屋がある。合人は通学カバンを肩にかけ直して玄関で靴を履き、ドアノブに手を掛けた。
「合人」
 すると背後から一番聞きたくない声が聞こえ、思わず振り向いた。
 視線の先、そこには合人と同じ顔をした一人の少年が立っている。
「・・・・・・景司」
 中島景司。合人の、双子の兄――。
「合人お前、昨日もまた夜遅くに帰ってきていたな」
「そうだけど、それが? アトリエから見てたのか? 随分と熱心じゃないか」
 チラリと視線を向けた先は一階にあるもう一つの部屋。
 アトリエと呼ばれたその部屋は、その名の通り絵を描くための作業部屋だ。
「ああ、筆が乗っていたんだ。それよりも、お前――」
 続く言葉はわかっている。兄も父親と同じことを言うに違いない。
 父親から言われるのはまだいい。無視もできるし我慢もできる。しかし双子で兄である景司には同じようなことを言われたくはなかった。
 だから景司の言葉を遮るようにして言った。
「さすが天才画家様はお忙しいな。今度の絵は誰のために描いてるものだ? いくらで売れる?」
 中島景司。
 きっとこの名を知らない人間は日本にそう多くはない。
 十五歳にしてすでに世界で個展を開き、高い評価を得ている天才画家。景司の描く絵は人物の一切いない風景画で、見た人間があたかもその場にいるような、風の音や匂いすらも感じるような絵だと言われている。
 メディアでも注目を集め、その絵の価値といえば数百万は当たり前で、中には数千万を超えたものまであった。
 元々、家族四人で小さな木造アパートに住んでいた中島家は、才能のあった景司の絵を売ることで巨大な富を手にし、今では高級車を所持し、三階建ての家を建て、両親は決まった職に就かずに景司の絵を売ることを生業として生活している。
「景司、お前の絵だけがこの家の収入源なんだ。だから無能の僕なんか気に掛けず絵を描いていろよ」
「・・・・・・そうだな。僕は忙しい。合人、お前に構っている暇はないよ」
 そう言うと景司は踵を返し階段を上がっていった。
 これから両親も交えて三人で朝食でも摂るのかもしれない。でも合人には関係のないことだ。最後のパンを口に放り込んで、合人は学校へと向かった。
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