華と毒薬

アザミユメコ

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第二章 乱れ桜に幕が下りる

十九 ぬるくて甘いさくらんぼ

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「わしの残菊」

 と、桜蒔おうじは二代目残菊をそう呼んでいた。
 本当に愛していたはずの初代には決して言わなかった言葉だ。

「初代と違って、あいつはわしの思いどおりにしとるからな。なんも知らん、閉ざされた世界で生きとった世間知らずの子供を」

 宴会帰りだったのか、酔っ払って瓢箪池ひょうたんいけのほとりで小幕こまくにポロッと漏らしたのだ。

「正気じゃないわな。いなくなった女のそっくりな息子に同じ恰好させて。代わりにされたあの子を傷つけとることもわかっとるのに止められん。誰か、百夜ももやをわしから解放してくれる奴が現れてくれんかなって、神頼みみたいなことを最近はずっと考えとる」

 運命の王子様が現れて、魔法は解けて、物語は終わったはずなのに。
 呪いは本人にはね返ってしまったのかもしれない。
 だから大団円のあとも、あのひとだけ過去の執着に囚われたままだ。


 ***


「あれ? ちょっと仲良くなった?」

 ふたたび目を覚ました頃、志千しちが帰ってきた。
 良薬口に苦しとは聞くけれど、こんなに早く熱が引いたのは初めてだった。薬を処方されたことも、医者にかかったことも今までなかったのだ。

 寝込んでいたせいで髪が絡まってしまっていた。百夜に櫛で梳いてもらっていたところである。

「むしろ言い争っていたんだが」
「つまり、本音で話せたんだろ? よかったじゃん」

 まるで自分のことのように嬉しそうな声で、フロックコートを着た青年は膝を広げてしゃがみ、小幕たちに目線の高さを合わせて言った。

「なんかさぁ、おまえらが並んでると可愛いよなぁ。慈しみたくなるっていうか。女学生のエスってこんな感じかな」
「ぜったいに違うと思うぞ」

 ふたりして長い髪をおろしているので、一見しただけなら女同士に見えるのはそうだ。

「エスなら志千さんの入り込む隙間ないですけど、いいんですかー」
「え、俺はいいだろ。あいだに入っても」 
「一部の方々に殺されそうな発言をしますねぇ」

 着替えてくると部屋を出ていった志千を見送り、小幕は言った。

「百夜さん、あなたの恋人、ちょっと大雑把というか、お気楽すぎやしません? 大丈夫ですか?」

 あれほど挑発的な態度を取っていたのだ。小幕が百夜に害を為さないと、なぜ信じられるのだろう。
 懐に入れてもらったらもらったで、変な感じだ。

「あれが志千の長所だからいいんだ。それに、連れてきたのが桜蒔先生だからじゃないか。志千は意外と先生を尊敬しているし、信頼もしている」

 彼らの間柄が平穏すぎて、これ以上邪魔をするのも悪いような気分になってきた。
 桜蒔に特別扱いされていた百夜に嫉妬していただけで、実際に害意があったわけではない。
 
「じゃあ、僕も今日から見守る方向に切り替えることにします」
「は?」
「いえ、あなたたちのいちゃいちゃを見てるの、なんだか癖になってきましたので。ふたりを応援する親衛隊でも入ろうかな。特等席で観察できるし」
「よくわからないがやめろ」

 今までは虐げてもいい対象と見られるか、邪魔者扱いされるかでしかなくて、どれだけ真面目に仕事をこなしていても厄介者だった。所詮は男娼、という扱いだったのに。
 ここにいてもいい、なんて初めて言われた。

「動けるようになったら、ちゃんとお仕事を再開しますね」
「ああ、さっさと治せ。さっき夕飯を作ろうとしたが、うまくできなかった。諦めて出前を頼んだ」
「台所は無事です?」

 夜が更け、百夜も二階にあがった。
 しばらく経つと、天井の軋みとかすかな声が聞こえてきた。

「今日も激しいなぁ」

 熱で朦朧としていたが、昨晩も響いていた気がする。
 百夜が拗ねて逃げたと言っていたから、そのご機嫌取りだろうか。
 多少ほつれそうになってもすぐに修繕費可能な信頼関係は、やはりうらやましい。

 それと比べて──まったく顔を出さない桜蒔に少し腹立ってきた。
 なぜ来ないのかと尋ねても「べつにわしがおっても意味ないじゃろ?」とかそういうことを言うに違いない。
 
 ひとりで拗ねていたら喉が乾いてきた。
 寝返りを打って枕元の盆に手を伸ばす。被せてあった蠅帳はいちょうを取ると、水差しと湯呑み、水菓子の盛られた器、薬が置かれていた。

 薬包の入った紙袋には、桜蒔の家のかかりつけ医の印が押されていた。
 そして、器に盛られていたのはシロップに浸かった赤いさくらんぼである。三越などの高級店にしか売っていない缶詰で、もちろん食べたことはない。

 少し透けたような、素朴な赤があの髪色を連想させる。
 闇夜のなかで艶めいて、眺めていたら不思議と寂しい気持ちが消えていった。

 医者の手配をしてくれたのも、これを届けてくれたのも、きっと桜蒔だ。
 
「もー、優しいんだか、冷たいんだか……」
  
 ひとつを摘んで口に含むと、ぬるくて甘ったるく、少し酸っぱい、幸せな味がした。

 付きまとってもだめで、引いてもだめ。
 大女優残菊のように振り回してみても、どうにもならない。
 べつに、ひとりきりでいるのが平気なひとではない。自分も同じだからわかるが、案外寂しがりやだと思う。
 でも、なかなか手が届かない。

 その日の食べ物と、その日の屋根があればいい。どうせ所有などできないのだから。
 そんなふうに考えていた人生で、唯一欲しいと思った相手。

 ぱたりと仰向けに寝直して、天井を見つめながらつぶやいた。

「は~……くそ、ぜったい落とそ……」

 このまま、この家にいられたらどんなにいいだろう。
 だが、百夜たちを厄介事に巻き込んでしまうのは避けたい。

 懸念がひとつあった。
 幼い頃に掏摸スリ仲間だったのぎのことだ。

 非力な子供らが徒党を組んでいただけで、さほど仲間意識があったわけではない。
 少し成長すると、すぐに『搾取する側』と『搾取される側』に分かれていった。

 弱ければ淘汰される小さな世界だ。目先の欲望に勝てるほど成熟していない子供たちが、日常的に裏切り合って、生存競争を勝ち抜いていこうとするのは必然だった。

 小幕が男娼になったのも、元はといえば芒に売られたのがきっかけである。
 生き抜く方法を教えてくれたとも言えるが、欺かれた事実は変わらない。

 彼は昔から体が大きく、度胸があった。
 掏摸の子らをまとめる中心人物のような存在だった彼に、博徒が目を留めた。
 芒さえ引き込めば、無数にいる浮浪児を楽に管理できるからだ。

 小幕が最初に連れていかれたのは、一雁組いちがれぐみの親分のところだった。
 まだ幼い体を無理やり開かされ──どこか冷静に、十二階下の娼婦たちが毎日やっているのはこれだったのかと腑に落ちたのを覚えている。

 数時間に渡る激しい痛みからようやく解放されたあと、部屋の隅で正座して待機していた芒が言った。

『俺にもおこぼれをもらえますか』
 
 親分は『じゃあ見せてみろ』と言って、笑いながら了承した。
 その後もたびたび少年同士が目合まぐわうのを鑑賞したがった。

 一雁組の親玉に関してはどうでもいい。初めから慈悲など期待していない。
 だが、仲間とまでは思っていないにしろ、互いが生き残るために打算的な信頼関係があったはずの芒のことは許せなかった。

 ──敵だ、こいつは。

 はっきりとそう認識した。
 恨んでいるわけではない。人が人を喰いものにする世界の洗礼を受けた。どうせ今後、何度も味わうことになるのだと確信があった。
 
『おまえは可愛い、ほんとうに』

 小幕の頬を撫でさする悪党の親玉のごつごつとした手と、吐き気のする濁った声で、自分の武器を知った。
 周囲の浮浪児らと比べても小さくて弱い体、女みたいな顔立ち。冬を越せずに死んでいくのは、だいたい自分と同じような子供だった。

 でも、これでどうにか戦っていける術ができた。
 少なくとも屋根のある場所で眠れそうだ。

 他人を信じるな。誰もが敵とあらかじめわかっていたほうが生きやすい。
 仲間に裏切られたあの日にそう理解したはずなのだが、なににもすがらずにいられるほど、大人でも、強くもなかった。

 騙し合いと搾取、欲望しかないこの街で、桜蒔の向けてくれた優しさだけが混じりけのない温もりで、真実だった。
 
 ──生きていれば、いつかは会える。

 一方的な想いなのはわかっているが、一抹の希望を胸に抱いた。

 毎日、目が覚める。またろくでもない一日が始まる。
 なぜこの街で生き続けるのか、自分たちにだってわかっちゃいない。ただ飢えるのがつらくて、苦しいのが嫌だからなんでもする。
 世間からすれば浮浪児などただの目汚し。必要もなければ、いないほうがせいせいする存在だ。

 それでも、人の冷たさしか感じたことのない六区の雑踏で、あの柔らかい赤茶色を捜して見つけ出すためだけに生き延びてきたのだ。
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