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第一章 狂い菊に祝盃を
五 運命の人
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初日の大入りを祝い、監督たちに浅草寺北の花街を連れまわされた。
どうにも気分の乗らなかった志千は、明日もあるからと言い訳をし、早々に引きあげてきた。
上映は短くとも数週間のあいだ続き、今作が終わってもまた次の作品が待っている。
いつまでも腐っている暇はないのだが、今日はなんだか疲れてしまったのだ。
「おかえり! どう呑まされたんだろ。お茶漬け食べるかい?」
下宿に戻ると、幼い家主が台所から顔をだした。
堅苦しい礼装から浴衣に着替えて居間におりると、すぐに佃煮の茶漬けと漬物がでてくる。
「別料金だよな……」
「いいよ。今日は夕飯いらないって話だったんだから、そのぶんで」
蝶子はにこにこしているが、どことなく空気が重い原因はもうひとりのせいだ。
ちゃぶ台をはさんで志千と向かい合せに座り、煙草を吸っている百夜である。
何度見ても、大層な美青年であった。
そして、不愛想でなにを考えているのかわからない奴だ。
白い胸をはだけて片膝を立て、後ろ手を畳につき、ぼんやりと煙を吐いている。
べつに無理して仲良くする必要もない。
百夜は無視することにして、さりげなく蝶子に尋ねた。
「どうだった、俺の説明は」
「よかったよぉ。御前さん、やっぱりほれぼれするいい声だね」
頬を手で包んでうっとりしている。
興行街を出入りしている蝶子ならば、志千が寿八の息子だと知っているはずだ。
当然比較されるだろうと思っていたから、拍子抜けである。
「顔も男前なんだから、この先もっと売れるだろうねえ。そうしたらウチに下宿しているのを自慢しなきゃね」
自称するだけあって紛うことなきミーハーだ。
容姿だけの追っかけと大差ない発言に、思わず苦笑いが漏れる。
「とくにお宮がよかったよ。その男っぽいなりで、まるっきり女の声色がでるのは驚いたよねえ」
父は『八色の声』と呼ばれているが、女の台詞だけは志千のほうが得意だと自負していた。唯一勝っている点といってもいい。
艶っぽい女、清廉な女、気風のいい女──
どんなイメージで撮られた女の声色でも、使い分ける自信がある。
無論、それだけでは勝負にならない。
だから悩んでいるのだが、忖度のない、蝶子の思ったままを口にした評価が今は嬉しかった。
「ももちゃんも一度観にいってごらんよ。しばらく撮影が続くなら早起きだろ」
百夜は紫煙をくゆらせながら、いかにも面倒そうに答えた。
「おれは活動写真なんかに興味はない」
「あん? おまえ、活動俳優じゃねえのか?」
無関心というわりに、やけに険のある言い方だった。
長ったらしい髪の隙間から、猫のような瞳が光る。
「好きでやっているわけじゃない」
その発言に、志千は思わず言い返していた。
「じゃあやらなきゃいいだろ。役者なんて、誰に強制されるもんでもねえ。自由なんだから」
「他に選択肢がない人間もいる。いかにもお気楽に生きていそうな貴様には、想像もつかないだろうがな」
役者になりたくてもなれない人間は大勢いるだろうが、逆などあるものか。
せいぜい顔の良さからはじめたものの、たいした興味もないのに惰性でしかたなく続けている──といったところではないだろうか。
やめるのも投げだすのも、思いきりがあればできる。
それよりも、真剣に向き合って到達できない人間のほうが苦しいに決まっている。
どれほど努力しようが、叶わないものは叶わないのだから。
しかもお気楽とはなんだ。
恵まれた環境でぬるくやっているといわれたように感じて、頭に血がのぼった。
極めつけに、さらなる暴言が飛んでくる。
「あんなもの、所詮は口パクのチャンバラ芝居だろう。そのうえ弁士の好き勝手に味付けされて、作品が売れれば、さも自分が売ってやったとばかりにでかい態度をとられる。貴様らに我が物顔されるのはこりごりだ」
「なんだと!?」
思わず掴みかかりそうになったそのとき、卓の真ん中に西瓜を盛った皿が置かれた。
「ちょいと。うちは喧嘩ご法度だよ。大の男に暴れられたら家が壊れちまうだろ。外なら構わないけれどさ」
蝶子の手前、どうにか耐える。
「……暴れたりしねえよ。ガキじゃないんだし。まあ、ありがたいことに今は活弁の時代だ。チヤホヤされて調子に乗っている連中がいるのも事実だからな」
息を深く吸い、座布団に座りなおした。
戦意を失くしたのがわかると、百夜もそれ以上絡んではこなかった。煙管の灰を捨て、黙って二階にあがっていく。
「ねえ、西瓜は? 御前さんが食べたいっていうから冷やしておいたのに」
「部屋に持ってきてくれ」
「もーう。我儘なんだから」
蝶子が水菓子をしゃくしゃくと噛む音だけが響いていた。
静かになると、徐々に落ち着きを取り戻してきた。茶漬けを食べ終え、志千はぽつりといった。
「悪かった、大きな声をだして」
「あれはももちゃんが悪いよ。すぐ威嚇する子でごめんねえ」
まるで年寄りみたいな口調で、蝶子はしみじみといった。
「あの子にもいろいろあるんだよ。しちちゃんだって、そうだから怒ったんだろ」
「まあ、な」
「ウチは活弁が好きだよ。しちちゃんの説明だってほんとによかったよ」
「ありがとう。蝶子さんが褒めてくれたのは嬉しかったよ」
浅草にくればすべてがうまくいくと、楽観的に考えていたわけではない。後ろ盾の強固な地元にいたほうが将来は安泰だっただろう。
だとしても、今までの環境を断ちきって仕切り直したかった。這いあがる必要があるのは覚悟の上だ。
それに、わざわざ移籍したのには、もうひとつ理由がある。
「……俺を主任弁士にしてくれた出世作は、泉鏡花の『高野聖』を脚色した新派映画『月下の妖女』だ。妖女役は二代目残菊が演じた。観たことあるか?」
「え。うん、まあ」
蝶子は一瞬ぽかんとしたが、そのまま話の続きを待っていた。
「日本には活動女優がほとんどいないだろ。だから俺の得意な女の声色を披露する機会は、あまりなかったんだよな」
国産の活動写真では、いまだ男が女役を演じる女形が一般的だ。
女形が一概に悪いわけではない。男の弁士による女らしさが誇張された声色も味があり、かえって馴染んでいたりする。
だが、志千はもっと自然で、現実感のある女の声を演じたいと思っている。ならば女優のほうがふさわしい。
二代目残菊の初主演作である『月下の妖女』は、志千にとって今後目指すべき方向を決定づける特別な作品となった。
父とは違う芸、父とは違う評価。
彼女は自身の特性を存分に活かすことのできた、初めての女優なのである。
「つまり二代目残菊は、俺の“ファム・ファタル〈運命の女〉”なんだ」
「え!? う、うん……」
「スクリーンの中でいつでも会えるのに、絶対に触れられない想い人ってやつだな」
志千があてた二代目残菊の声色は、まさに大好評であった。
初代と違って表舞台にでてこないため、本人の声は想像でしかない。
だが、そっくりに見えて二代目のほうが瞳に意志の強さが宿っていると思う。
初代の小鳥のような可憐さとは異なり、夜の湖畔のような透明感と、荒れ狂う水流に似た生命力が共存している。
彼女に悲劇は似合わない。誰にも堕とせやしない女だ。
月夜の下で水浴びをする、気高く、妖艶で、すべてを魅了して渦に呑み込んでいく魔性の妖女。
そんな幻想を、自身の声に注ぎこんだ。
「残菊の声を演じられるのは俺だけだ。本当は他の弁士にやらせたくねえけど、そりゃ無理な話だからせめて封切の初日は俺がもぎ取ってみせる。俺の残菊が正解なんだと帝都中に知らしめるんだ。地方はフイルムがまわってくるのが遅いからな。そのために浅草へやってきた」
「なんだい、その唾をつけとくみたいな独占欲は。しちちゃん、思ってたより馬鹿馬鹿しい理由で移籍してきたんだねえ……」
父の影響下から離れたかったという理由もあるのだが、子ども相手に弱音を吐くわけにもいかない。
蝶子はどことなく目を泳がせ、控えめにいった。
「そりゃあウチも残菊は好きだけれど、御前さんの熱心さには負けそうだよ……」
菊の飾られた卓上の写真立てに、自然と目線がいく。
「蝶子さんは初代が好きなんだろ。部屋を見るかぎり、隣のあいつも。俺は断然二代目派だね。未来永劫、二代目残菊一筋だ」
自身の心臓あたりを拳で叩き、意気揚々と宣言する。
「残菊が所属している松柏キネマの撮影所はすぐ近くの向島にある。あの会社の連中は浅草でよく呑んでるっていうし、運がよけりゃひと目でも会えるかもしれないよな。ま、ただの甘い夢だが」
「そ、そうかい……」
蝶子はなぜか俯いて、笑いを堪えているかのように震えていた。
***
その深夜。
横になっているのに、なかなか寝つけなかった。
仕事のあとではよくあることだ。うまくいった日ほど作品の世界にどっぷりと浸りすぎて、上映が終わっても数時間は高揚が収まらない。
浅草での初日、さらに先輩文士の発言にもやもやして気分の落差が激しい日でもあったため、よけいに体が疼いてしかたがなかった。
眠れないせいでさっきの百夜の発言を思いだし、今更ながら腹が立ってきた。
こちらが大人になって流してやったものの「なんだ、あの野郎は」という気持ちはまだ残っている。
蒸し返すような情けない真似をするつもりはないが、ちょっとからかうくらい構わないだろう。
悪巧みを思いつき、志千は笑いを噛み殺しながら布団をでた。
向かいの襖に耳をつける。安楽椅子がきいきいと揺れる音がかすかに聴こえてきた。
このあいだと同じように、座りながら眠ってしまっているようだ。
ちゃんと煙草の後始末はしているのかと若干心配しながら、戸をほんの少し開く。
室内は暗く、中の様子までは見えない。
静かな寝息だけが規則的に繰り返されていた。
「えー、こほん」
小さく咳ばらいをして喉を整え、声をだす。
『あああ、どうして人間は死ぬのでしょう……。わたし、生きたいわ。千年も万年も生きたいわ! 死ぬならば、ねえ、ふたりで!』
志千が子どもの頃に観た初代残菊の舞台は、徳富蘆花『不如帰』であった。
夫と無理やり離縁させられ、胸の病で死んでいった悲運のヒロイン浪子の台詞だ。
初代の声を聞いたのはたった一度きりだが、我ながら完璧な模倣である。
さて、あの不愛想野郎には届いただろうか。
耳をすますと、百夜が飛び起きる気配がした。
襖が激しい音を立てて開け放たれる前に、慌てて自室に引っ込んだ。
「残菊……?」
野生の動物が路上で睨みあっているときのように、こちらにも緊張が伝わるほど空気が張りつめている。
「残菊!!」
青年の声は暗闇をこだまし、後を引きながら廊下の奥に吸い込まれて消えていった。
──なんだ、あいつ。必死になりやがって。ミーハー野郎め。
こき下ろしながらも、その名を呼ぶ百夜の様子があまりに悲哀めいているのを感じて、妙な気分になった。
懇願、寂寥、飢餓。まるで悲鳴のようであった。
どうにも気分の乗らなかった志千は、明日もあるからと言い訳をし、早々に引きあげてきた。
上映は短くとも数週間のあいだ続き、今作が終わってもまた次の作品が待っている。
いつまでも腐っている暇はないのだが、今日はなんだか疲れてしまったのだ。
「おかえり! どう呑まされたんだろ。お茶漬け食べるかい?」
下宿に戻ると、幼い家主が台所から顔をだした。
堅苦しい礼装から浴衣に着替えて居間におりると、すぐに佃煮の茶漬けと漬物がでてくる。
「別料金だよな……」
「いいよ。今日は夕飯いらないって話だったんだから、そのぶんで」
蝶子はにこにこしているが、どことなく空気が重い原因はもうひとりのせいだ。
ちゃぶ台をはさんで志千と向かい合せに座り、煙草を吸っている百夜である。
何度見ても、大層な美青年であった。
そして、不愛想でなにを考えているのかわからない奴だ。
白い胸をはだけて片膝を立て、後ろ手を畳につき、ぼんやりと煙を吐いている。
べつに無理して仲良くする必要もない。
百夜は無視することにして、さりげなく蝶子に尋ねた。
「どうだった、俺の説明は」
「よかったよぉ。御前さん、やっぱりほれぼれするいい声だね」
頬を手で包んでうっとりしている。
興行街を出入りしている蝶子ならば、志千が寿八の息子だと知っているはずだ。
当然比較されるだろうと思っていたから、拍子抜けである。
「顔も男前なんだから、この先もっと売れるだろうねえ。そうしたらウチに下宿しているのを自慢しなきゃね」
自称するだけあって紛うことなきミーハーだ。
容姿だけの追っかけと大差ない発言に、思わず苦笑いが漏れる。
「とくにお宮がよかったよ。その男っぽいなりで、まるっきり女の声色がでるのは驚いたよねえ」
父は『八色の声』と呼ばれているが、女の台詞だけは志千のほうが得意だと自負していた。唯一勝っている点といってもいい。
艶っぽい女、清廉な女、気風のいい女──
どんなイメージで撮られた女の声色でも、使い分ける自信がある。
無論、それだけでは勝負にならない。
だから悩んでいるのだが、忖度のない、蝶子の思ったままを口にした評価が今は嬉しかった。
「ももちゃんも一度観にいってごらんよ。しばらく撮影が続くなら早起きだろ」
百夜は紫煙をくゆらせながら、いかにも面倒そうに答えた。
「おれは活動写真なんかに興味はない」
「あん? おまえ、活動俳優じゃねえのか?」
無関心というわりに、やけに険のある言い方だった。
長ったらしい髪の隙間から、猫のような瞳が光る。
「好きでやっているわけじゃない」
その発言に、志千は思わず言い返していた。
「じゃあやらなきゃいいだろ。役者なんて、誰に強制されるもんでもねえ。自由なんだから」
「他に選択肢がない人間もいる。いかにもお気楽に生きていそうな貴様には、想像もつかないだろうがな」
役者になりたくてもなれない人間は大勢いるだろうが、逆などあるものか。
せいぜい顔の良さからはじめたものの、たいした興味もないのに惰性でしかたなく続けている──といったところではないだろうか。
やめるのも投げだすのも、思いきりがあればできる。
それよりも、真剣に向き合って到達できない人間のほうが苦しいに決まっている。
どれほど努力しようが、叶わないものは叶わないのだから。
しかもお気楽とはなんだ。
恵まれた環境でぬるくやっているといわれたように感じて、頭に血がのぼった。
極めつけに、さらなる暴言が飛んでくる。
「あんなもの、所詮は口パクのチャンバラ芝居だろう。そのうえ弁士の好き勝手に味付けされて、作品が売れれば、さも自分が売ってやったとばかりにでかい態度をとられる。貴様らに我が物顔されるのはこりごりだ」
「なんだと!?」
思わず掴みかかりそうになったそのとき、卓の真ん中に西瓜を盛った皿が置かれた。
「ちょいと。うちは喧嘩ご法度だよ。大の男に暴れられたら家が壊れちまうだろ。外なら構わないけれどさ」
蝶子の手前、どうにか耐える。
「……暴れたりしねえよ。ガキじゃないんだし。まあ、ありがたいことに今は活弁の時代だ。チヤホヤされて調子に乗っている連中がいるのも事実だからな」
息を深く吸い、座布団に座りなおした。
戦意を失くしたのがわかると、百夜もそれ以上絡んではこなかった。煙管の灰を捨て、黙って二階にあがっていく。
「ねえ、西瓜は? 御前さんが食べたいっていうから冷やしておいたのに」
「部屋に持ってきてくれ」
「もーう。我儘なんだから」
蝶子が水菓子をしゃくしゃくと噛む音だけが響いていた。
静かになると、徐々に落ち着きを取り戻してきた。茶漬けを食べ終え、志千はぽつりといった。
「悪かった、大きな声をだして」
「あれはももちゃんが悪いよ。すぐ威嚇する子でごめんねえ」
まるで年寄りみたいな口調で、蝶子はしみじみといった。
「あの子にもいろいろあるんだよ。しちちゃんだって、そうだから怒ったんだろ」
「まあ、な」
「ウチは活弁が好きだよ。しちちゃんの説明だってほんとによかったよ」
「ありがとう。蝶子さんが褒めてくれたのは嬉しかったよ」
浅草にくればすべてがうまくいくと、楽観的に考えていたわけではない。後ろ盾の強固な地元にいたほうが将来は安泰だっただろう。
だとしても、今までの環境を断ちきって仕切り直したかった。這いあがる必要があるのは覚悟の上だ。
それに、わざわざ移籍したのには、もうひとつ理由がある。
「……俺を主任弁士にしてくれた出世作は、泉鏡花の『高野聖』を脚色した新派映画『月下の妖女』だ。妖女役は二代目残菊が演じた。観たことあるか?」
「え。うん、まあ」
蝶子は一瞬ぽかんとしたが、そのまま話の続きを待っていた。
「日本には活動女優がほとんどいないだろ。だから俺の得意な女の声色を披露する機会は、あまりなかったんだよな」
国産の活動写真では、いまだ男が女役を演じる女形が一般的だ。
女形が一概に悪いわけではない。男の弁士による女らしさが誇張された声色も味があり、かえって馴染んでいたりする。
だが、志千はもっと自然で、現実感のある女の声を演じたいと思っている。ならば女優のほうがふさわしい。
二代目残菊の初主演作である『月下の妖女』は、志千にとって今後目指すべき方向を決定づける特別な作品となった。
父とは違う芸、父とは違う評価。
彼女は自身の特性を存分に活かすことのできた、初めての女優なのである。
「つまり二代目残菊は、俺の“ファム・ファタル〈運命の女〉”なんだ」
「え!? う、うん……」
「スクリーンの中でいつでも会えるのに、絶対に触れられない想い人ってやつだな」
志千があてた二代目残菊の声色は、まさに大好評であった。
初代と違って表舞台にでてこないため、本人の声は想像でしかない。
だが、そっくりに見えて二代目のほうが瞳に意志の強さが宿っていると思う。
初代の小鳥のような可憐さとは異なり、夜の湖畔のような透明感と、荒れ狂う水流に似た生命力が共存している。
彼女に悲劇は似合わない。誰にも堕とせやしない女だ。
月夜の下で水浴びをする、気高く、妖艶で、すべてを魅了して渦に呑み込んでいく魔性の妖女。
そんな幻想を、自身の声に注ぎこんだ。
「残菊の声を演じられるのは俺だけだ。本当は他の弁士にやらせたくねえけど、そりゃ無理な話だからせめて封切の初日は俺がもぎ取ってみせる。俺の残菊が正解なんだと帝都中に知らしめるんだ。地方はフイルムがまわってくるのが遅いからな。そのために浅草へやってきた」
「なんだい、その唾をつけとくみたいな独占欲は。しちちゃん、思ってたより馬鹿馬鹿しい理由で移籍してきたんだねえ……」
父の影響下から離れたかったという理由もあるのだが、子ども相手に弱音を吐くわけにもいかない。
蝶子はどことなく目を泳がせ、控えめにいった。
「そりゃあウチも残菊は好きだけれど、御前さんの熱心さには負けそうだよ……」
菊の飾られた卓上の写真立てに、自然と目線がいく。
「蝶子さんは初代が好きなんだろ。部屋を見るかぎり、隣のあいつも。俺は断然二代目派だね。未来永劫、二代目残菊一筋だ」
自身の心臓あたりを拳で叩き、意気揚々と宣言する。
「残菊が所属している松柏キネマの撮影所はすぐ近くの向島にある。あの会社の連中は浅草でよく呑んでるっていうし、運がよけりゃひと目でも会えるかもしれないよな。ま、ただの甘い夢だが」
「そ、そうかい……」
蝶子はなぜか俯いて、笑いを堪えているかのように震えていた。
***
その深夜。
横になっているのに、なかなか寝つけなかった。
仕事のあとではよくあることだ。うまくいった日ほど作品の世界にどっぷりと浸りすぎて、上映が終わっても数時間は高揚が収まらない。
浅草での初日、さらに先輩文士の発言にもやもやして気分の落差が激しい日でもあったため、よけいに体が疼いてしかたがなかった。
眠れないせいでさっきの百夜の発言を思いだし、今更ながら腹が立ってきた。
こちらが大人になって流してやったものの「なんだ、あの野郎は」という気持ちはまだ残っている。
蒸し返すような情けない真似をするつもりはないが、ちょっとからかうくらい構わないだろう。
悪巧みを思いつき、志千は笑いを噛み殺しながら布団をでた。
向かいの襖に耳をつける。安楽椅子がきいきいと揺れる音がかすかに聴こえてきた。
このあいだと同じように、座りながら眠ってしまっているようだ。
ちゃんと煙草の後始末はしているのかと若干心配しながら、戸をほんの少し開く。
室内は暗く、中の様子までは見えない。
静かな寝息だけが規則的に繰り返されていた。
「えー、こほん」
小さく咳ばらいをして喉を整え、声をだす。
『あああ、どうして人間は死ぬのでしょう……。わたし、生きたいわ。千年も万年も生きたいわ! 死ぬならば、ねえ、ふたりで!』
志千が子どもの頃に観た初代残菊の舞台は、徳富蘆花『不如帰』であった。
夫と無理やり離縁させられ、胸の病で死んでいった悲運のヒロイン浪子の台詞だ。
初代の声を聞いたのはたった一度きりだが、我ながら完璧な模倣である。
さて、あの不愛想野郎には届いただろうか。
耳をすますと、百夜が飛び起きる気配がした。
襖が激しい音を立てて開け放たれる前に、慌てて自室に引っ込んだ。
「残菊……?」
野生の動物が路上で睨みあっているときのように、こちらにも緊張が伝わるほど空気が張りつめている。
「残菊!!」
青年の声は暗闇をこだまし、後を引きながら廊下の奥に吸い込まれて消えていった。
──なんだ、あいつ。必死になりやがって。ミーハー野郎め。
こき下ろしながらも、その名を呼ぶ百夜の様子があまりに悲哀めいているのを感じて、妙な気分になった。
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