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第1話 アイという名の少女。
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北海道で独り暮らしを始めると決めてから、半年が経った。
この街では、春という言葉はカレンダー上の名前に過ぎない。現実は、北から吹き付ける風が未だに骨の髄まで凍みる冬の余韻を運んでくる。
今日の夕空は灰色で、まるで雲が独りで抱えるには重すぎる荷物を耐えているかのようだった。 俺、石川荒木も同じだ。クラスの騒がしさに身を投じるよりも、自分の思考に沈んでいる方を好む平凡な高校生。
俺はため息をついた。静まり返り始めた街の公園を通り過ぎると、口から白い吐息が漏れる。
雨が降り始めた。ドラマチックな豪雨ではなく、冷たく突き刺さるような細かな霧雨だ。
誰もいないアパートへ向けて足早に歩き出そうとしたその時、一つのシルエットが目に留まった。
濡れた公園のベンチに、一人の少女が座っていた。
長い金髪は乱れ、雨のせいで数本の毛束が青白い頬に張り付いている。
俺と同じ制服を着ているが、短いスカートと派手なアクセサリーが、彼女が「ギャル」であることを示していた。
名前は、五木アイ。
学校での彼女の名前は、格好の噂の種だった。
「街の中心にあるホテルに出入りしているのを見たらしい」
「あんな格好なんだから、どうせ『安い』女に決まってる」。
俺もその噂は知っている。誰もが知っている。 だが、今の彼女を見る限り、人々が語るような「悪い女」のオーラは微塵も感じられなかった。そこにいたのは、ただ壊れそうな一人の少女だ。 足元の水たまりを虚ろな瞳で見つめたまま、制服がずぶ濡れになっても彼女は動こうとしなかった。
俺の足が止まる。
論理的な思考は、そのまま通り過ぎろと言っている。俺はヒーローじゃないし、彼女のような目立つ存在に関われば厄介なことになるだけだ。
だが、どうしてか胸が締め付けられた。その虚ろな瞳に、どうしようもない孤独を抱えた自分自身を重ねてしまったのかもしれない。
俺は近づき、彼女に傘を差しだした。
ビニール傘を叩く雨音だけが、俺たちの間に流れる唯一のメロディになった。
アイは小さく肩を揺らした。彼女が顔を上げ、俺は初めて間近でその目を見た。
その瞳に輝きはない。ただ、深い疲労だけがそこにあった。
「……荒木くん?」
彼女の声は掠れていて、雨の音にかき消されそうだった。
「そんなところに座っていたら、風邪を引くぞ」俺は淡々と言った。いつもの冷静な声の裏に、緊張を隠しながら。
アイは力なく笑った。瞳には届かない、苦い笑い。
「……どうして助けるの? 学校じゃ、私のこと『悪い女』だって噂されてるのに」
彼女は鋭く、それでいて脆そうな瞳で俺を射抜いた。
「悪い噂に巻き込まれないように、遠ざかるのが正解じゃないの?」
俺は少しの間、沈黙した。傘の端から滴り落ちる雨粒を見つめる。
「噂なんて、他人の人生に首を突っ込む以外に仕事がない奴らの言葉だ」俺は静かに答えた。
「今の俺にとって、君はただ凍えている女の子にしか見えない」
アイは顔を背けた。その肩が微かに震えている。
「私……帰る場所がないの。アパートの、今月の家賃が払えてなくて……」
胸が痛んだ。それが理由だったのか? 彼女はホテルで「遊んで」いたわけじゃない。この凍えるような街で、一人で生き抜くために足掻いていたんだ。
派手な金髪とメイクの裏側に、十代の華奢な肩で大人の重荷を背負った少女がいた。
「俺の家に来い」
言葉が勝手に出た。フィルターも、計画もなく。
アイは目を見開いた。「えっ? あんた、自分が何を言ってるか分かってるの?」
「雨が止むまでだ」俺は論理的な言い訳を絞り出す。「あるいは、君の気分が落ち着くまで。温かい茶くらいは出せる。少なくとも、ここで凍えるよりはマシだ」
俺は手を差し出した。
彼女はその手を、長い間見つめていた。まるでその手が、自分の暗い世界には存在してはいけない異質なものかのように。
やがて、彼女はゆっくりとその手を取った。彼女の手はひどく冷たかった。北海道の冬の氷のように硬く。
***
俺のアパートは狭いが、少なくとも温かかった。部屋に入るなり、俺は清潔なタオルとトレーニングウェアの一着を彼女に渡した。
「お風呂場で着替えてこい。飲み物を用意しておく」そう言ってキッチンへ向かう。
数分後、アイが出てきた。彼女には大きすぎる服を着て、濡れた金髪にはタオルが巻かれている。
彼女はぎこちない動きで小さなソファに腰掛けた。差し出した温かい茶のカップを、まるで世界に一つしかない熱源であるかのように大切そうに抱え込んでいる。
「……話を聞いてくれてありがとう、荒木さん」茶を一口啜り、彼女が呟いた。
彼女は話し始めた。去っていった両親のこと。学費と生活費を賄うには到底足りないアルバイトのこと。そして、舐められないために「強いギャル」を演じ続けなければならない自分への嫌悪感。
その脆い姿を見て、俺の中に強い衝動が走った。単なる同情ではない。彼女を守りたいという願い。 彼女には価値があるのだと、あのゴミのような噂なんかよりずっと価値があるのだと証明したかった。
「アイさん」俺は呼んだ。
彼女が振り向く。
「もし君さえ良ければ……ここで暮らせ」 彼女は茶を吹き出しそうになった。
「はあ?! さっき話したばかりじゃない!」
「勘違いするな。荷物置き場にしている空き部屋があるんだ」俺はできるだけ冷静なトーンで説明した。
「そこでなら、追い出される恐怖を感じずにバイトも続けられるだろ。その代わり……」
俺は言葉を切った。彼女の瞳をじっと見つめる。
「もっと自分を大切にすると約束しろ。あいつらに、二度と君のプライドを踏みにじらせるな」
アイの瞳に、涙が溜まっていくのが分かった。
外では北海道の雨が激しさを増していた。けれど、この小さな部屋の中で、俺は久しぶりに自分の人生に目的が宿るのを感じていた。
この決断が、俺たちの運命を永遠に変えてしまうとは、この時の俺はまだ知る由もなかった。
「……どうして、そんなに優しくしてくれるの?」彼女が儚げに問う。
「……たぶん、俺も寂しかったからだ」夜空を窓越しに見つめながら、俺は正直に答えた。
その夜、俺は誓った。この少女に、彼女がどれほど尊い存在なのかを、必ず理解させてみせると。
この街では、春という言葉はカレンダー上の名前に過ぎない。現実は、北から吹き付ける風が未だに骨の髄まで凍みる冬の余韻を運んでくる。
今日の夕空は灰色で、まるで雲が独りで抱えるには重すぎる荷物を耐えているかのようだった。 俺、石川荒木も同じだ。クラスの騒がしさに身を投じるよりも、自分の思考に沈んでいる方を好む平凡な高校生。
俺はため息をついた。静まり返り始めた街の公園を通り過ぎると、口から白い吐息が漏れる。
雨が降り始めた。ドラマチックな豪雨ではなく、冷たく突き刺さるような細かな霧雨だ。
誰もいないアパートへ向けて足早に歩き出そうとしたその時、一つのシルエットが目に留まった。
濡れた公園のベンチに、一人の少女が座っていた。
長い金髪は乱れ、雨のせいで数本の毛束が青白い頬に張り付いている。
俺と同じ制服を着ているが、短いスカートと派手なアクセサリーが、彼女が「ギャル」であることを示していた。
名前は、五木アイ。
学校での彼女の名前は、格好の噂の種だった。
「街の中心にあるホテルに出入りしているのを見たらしい」
「あんな格好なんだから、どうせ『安い』女に決まってる」。
俺もその噂は知っている。誰もが知っている。 だが、今の彼女を見る限り、人々が語るような「悪い女」のオーラは微塵も感じられなかった。そこにいたのは、ただ壊れそうな一人の少女だ。 足元の水たまりを虚ろな瞳で見つめたまま、制服がずぶ濡れになっても彼女は動こうとしなかった。
俺の足が止まる。
論理的な思考は、そのまま通り過ぎろと言っている。俺はヒーローじゃないし、彼女のような目立つ存在に関われば厄介なことになるだけだ。
だが、どうしてか胸が締め付けられた。その虚ろな瞳に、どうしようもない孤独を抱えた自分自身を重ねてしまったのかもしれない。
俺は近づき、彼女に傘を差しだした。
ビニール傘を叩く雨音だけが、俺たちの間に流れる唯一のメロディになった。
アイは小さく肩を揺らした。彼女が顔を上げ、俺は初めて間近でその目を見た。
その瞳に輝きはない。ただ、深い疲労だけがそこにあった。
「……荒木くん?」
彼女の声は掠れていて、雨の音にかき消されそうだった。
「そんなところに座っていたら、風邪を引くぞ」俺は淡々と言った。いつもの冷静な声の裏に、緊張を隠しながら。
アイは力なく笑った。瞳には届かない、苦い笑い。
「……どうして助けるの? 学校じゃ、私のこと『悪い女』だって噂されてるのに」
彼女は鋭く、それでいて脆そうな瞳で俺を射抜いた。
「悪い噂に巻き込まれないように、遠ざかるのが正解じゃないの?」
俺は少しの間、沈黙した。傘の端から滴り落ちる雨粒を見つめる。
「噂なんて、他人の人生に首を突っ込む以外に仕事がない奴らの言葉だ」俺は静かに答えた。
「今の俺にとって、君はただ凍えている女の子にしか見えない」
アイは顔を背けた。その肩が微かに震えている。
「私……帰る場所がないの。アパートの、今月の家賃が払えてなくて……」
胸が痛んだ。それが理由だったのか? 彼女はホテルで「遊んで」いたわけじゃない。この凍えるような街で、一人で生き抜くために足掻いていたんだ。
派手な金髪とメイクの裏側に、十代の華奢な肩で大人の重荷を背負った少女がいた。
「俺の家に来い」
言葉が勝手に出た。フィルターも、計画もなく。
アイは目を見開いた。「えっ? あんた、自分が何を言ってるか分かってるの?」
「雨が止むまでだ」俺は論理的な言い訳を絞り出す。「あるいは、君の気分が落ち着くまで。温かい茶くらいは出せる。少なくとも、ここで凍えるよりはマシだ」
俺は手を差し出した。
彼女はその手を、長い間見つめていた。まるでその手が、自分の暗い世界には存在してはいけない異質なものかのように。
やがて、彼女はゆっくりとその手を取った。彼女の手はひどく冷たかった。北海道の冬の氷のように硬く。
***
俺のアパートは狭いが、少なくとも温かかった。部屋に入るなり、俺は清潔なタオルとトレーニングウェアの一着を彼女に渡した。
「お風呂場で着替えてこい。飲み物を用意しておく」そう言ってキッチンへ向かう。
数分後、アイが出てきた。彼女には大きすぎる服を着て、濡れた金髪にはタオルが巻かれている。
彼女はぎこちない動きで小さなソファに腰掛けた。差し出した温かい茶のカップを、まるで世界に一つしかない熱源であるかのように大切そうに抱え込んでいる。
「……話を聞いてくれてありがとう、荒木さん」茶を一口啜り、彼女が呟いた。
彼女は話し始めた。去っていった両親のこと。学費と生活費を賄うには到底足りないアルバイトのこと。そして、舐められないために「強いギャル」を演じ続けなければならない自分への嫌悪感。
その脆い姿を見て、俺の中に強い衝動が走った。単なる同情ではない。彼女を守りたいという願い。 彼女には価値があるのだと、あのゴミのような噂なんかよりずっと価値があるのだと証明したかった。
「アイさん」俺は呼んだ。
彼女が振り向く。
「もし君さえ良ければ……ここで暮らせ」 彼女は茶を吹き出しそうになった。
「はあ?! さっき話したばかりじゃない!」
「勘違いするな。荷物置き場にしている空き部屋があるんだ」俺はできるだけ冷静なトーンで説明した。
「そこでなら、追い出される恐怖を感じずにバイトも続けられるだろ。その代わり……」
俺は言葉を切った。彼女の瞳をじっと見つめる。
「もっと自分を大切にすると約束しろ。あいつらに、二度と君のプライドを踏みにじらせるな」
アイの瞳に、涙が溜まっていくのが分かった。
外では北海道の雨が激しさを増していた。けれど、この小さな部屋の中で、俺は久しぶりに自分の人生に目的が宿るのを感じていた。
この決断が、俺たちの運命を永遠に変えてしまうとは、この時の俺はまだ知る由もなかった。
「……どうして、そんなに優しくしてくれるの?」彼女が儚げに問う。
「……たぶん、俺も寂しかったからだ」夜空を窓越しに見つめながら、俺は正直に答えた。
その夜、俺は誓った。この少女に、彼女がどれほど尊い存在なのかを、必ず理解させてみせると。
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