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第2章 碓氷 雫
#31
しおりを挟む「うん、美味しい。やっぱりここのバナナケーキ抜群だね」
「私は以前食べた時より美味しく感じます」
「これだけ美味しいもの食べたら自分でも作りたくならない?」
「すごく分かります。この味には敵わないかもしれないけど、自分で作ってこれだけ美味しいもの作れたらすごく嬉しいかも」
「だよね。僕らがバナナ好きだからっていうのを差し引いても絶対美味しいもんね、ここのケーキ」
いつの間にか体に入っていた余分な力は抜けていて、普段通り何気ない会話が出来ている私たちは、いつも出かける時に立ち寄る隠れ家的な喫茶店でとっても美味しいこのバナナケーキとコーヒーをいただくのがルーティンのようになっている。平日の昼前だからなのか、客は私たちと窓際の席でゆったりと過ごしている老夫婦の二組しかいない。このゆったりとした空間が私たちをさらに開放的な気持ちにしてくれているようだった。
「おかわりのコーヒー、いかがですか?」
「あ、お願いしようかな。雫さんは?」
「ありがとうございます。私もお願いします」
「かしこまりました」
真っ白な髪の毛を後ろで結んでいるマスターの凛々しい声を味わいながら私の手元にあるカップにとぷとぷとコーヒーが注がれる。コーヒーも美味しいんだよなぁ。本当に素敵な喫茶店だ。
「ご贔屓にしていただいていつもありがとうございます」
「マスター。こちらこそいつも素敵で美味しいケーキとコーヒーをありがとう。マスターの作るような美味しいケーキ、いつか僕も作りたいんだけどなぁ」
「ははは。斗和さんのような方でしたら、きっと作ることが出来ますよ。私の作るものよりも美味しいものがきっと」
「私もいつか作りたいです。こんなに美味しいケーキ」
「恐縮です」
言葉の少ないマスターだけれど、そこがまたこのマスターの魅力のひとつだと私は思う。大人で余裕のある男の人ほど多くは語らない。まさにこのマスターのような人だと思う。あと二口もすれば目の前にあるケーキが胃の中へ消えてしまう。もどかしさを感じながら、その味をしっかりと感じながら咀嚼する。
「こんなに美味しいものを作ってくれたなら僕たちもお礼をしないとね。雫さん」
「先生、私も今ちょうど同じようなことを思っていました」
「お礼……、ですか?」
「うん。僕らは『Tsukakoko』というクリニックで、みんなの疲れを取る仕事をしてるんだ。「疲れ」と一言で言っても身体的なもの、精神的なもの、人によって疲労箇所が違ってくる。それでね、僕らの施術でマスターの疲労を取らせてもらおうと思ってさ」
「……要するにマッサージですか?」
ぎらりと目を細めたマスターが声を低くさせてそう言った。鋭くなった目つきには迫力がありながらも、その話、もっと聞かせてくれよ。そうやって言っているような表情に見えなくもない気がした。神妙な空気になっていくところが逆に面白くなってきてしまった。
「そうだね。全部ひっくるめたらマッサージだね」
「あいにくなのですが、私は生まれてこの方58年間、そういう場所に通ったことがありません。なので、人様に私の体を奉仕していただくことなどあってはならないことだと思いまして……」
「あ、マスター。なんか下ネタチックな言い方になってる。大丈夫。ウチはそういういかがわしいようなところでも無ければ、病院みたいにピリッとした空気のところでもないんだ。ただ友達の家にお邪魔してリラックスしてこうかなーぐらいの感覚で来てもらえれば嬉しいんだ」
「ここが私たちの家でもあり、職場の『Tsukakoko』です」
トートバッグから透明のクリアファイルを取り出し、中に入っている紙の1枚をマスターに差し出す。こうやって直接広告を人に手渡すのはかなり久しぶりだ。先生と店を立ち上げる時、よくやってたなぁと頭の中に当時の光景が不意に浮かぶ。
「……ありがとうございます。今は昔と違い、様々な職種があります。斗和さんと雫さんも今の時代に合った働き方をされているのでしょう。分かりました。お邪魔でなければ来月の休日にでもこちらへ伺わせていただきます」
「ほんと? マスター! ありがとう! ちなみに僕、仕事中でもこの喋り方だから、あんまり気にしないでくれると嬉しいんだ」
「何を今さら。私も歳の離れた素敵な友人としてあなたたちを見ているつもりですから。何も気にしません。強いて言えば、ここに書いてある『創作癒しの料理』というものがとても気になりました」
「ふふ。ありがとうマスター。これはね、僕と雫さんだけが作ることのできる料理や飲み物を振る舞うんだ。一人一人クライアントによって、あ、クライアントはお客さんのことね。一人一人クライアントによって提供する料理を決めてるんだ。この人にはこういう料理が今は適切だ。体が休まる、癒される。色んなことを考えてね」
マスターの鋭い目つきがさらに細くなり、そのまま口角がにやりと上がり、自然と凛々しい笑顔がそこにあった。マスターはその笑顔のまま、うんうんと首を大きく縦に振り先生に笑いかけている。時折、私の方を見てうんうんと頷いている。
「素敵な友人の作ってくださる、素敵な創作料理、楽しみにしています」
「うん。楽しみにしててね、マスター」
「私も楽しみにしています。マスター」
「ちなみに私は、鍋焼きうどんが大好物です」
不意に放たれた鍋焼きうどんというワード。ぐつぐつになっている鍋。火傷に気をつけながらおそるおそる麺をすするマスターの姿を想像すると、何ともギャップのある姿がそこに浮かんだ。私は笑いをこらえるように唇に力を入れてふんばった。
「あぁ、いいね。鍋焼きうどん。冬に食べるのが定番だろうけど、夏に食べるそれもすっごく美味しいんだよね。暑いけどね。夏には夏の旬の食材をいっぱい入れられるし」
「はい。かぼちゃと茄子を天ぷらにしてダシに漬けながら食べ、そのお供に日本酒があれば、あっという間に顔が真っ赤になってしまいますね」
「あー、いいね。それ。夏にあえて冬っぽいことをするの、めっちゃエモいね」
「先生の口からエモいって言葉聞くの、久々です」
「え? だってエモいでしょ。あと、僕は逆に冬に見る花火が大好きなんだ。それもめちゃくちゃエモい。何回も言うから雫さんは知ってると思うけどね」
「はい。もう何十回と聞いている気がします」
「冬に花火を見ることが出来るのですか?」
「うん。僕の地元でね、恒例になってるんだ。屋台も出ててさ、それこそうどんも売っててね。びっくりするぐらい美味しいんだ。そこのうどんが……。あぁ、なんかうどん食べたくなってきちゃった」
「それはまた、良い景色が頭の中に浮かびますね」
「すっごく良い場所だよ。マスターもいつか来てほしいな」
「はい。もう少し歳を取りましたら、一人旅で斗和さんの故郷へお邪魔させていただこうかと思います」
えへへと笑う斗和さんのふにゃふにゃとした笑顔につられ、マスターも目をさらに細くさせて笑った。それを見ていると、何だか私もつられて頬が緩んでしまう。デートプランの大半をここで過ごしてしまうのではないかと思えるほど長い時間滞在した喫茶店を出る頃には、もうすぐおやつの時間になるところだった。マスターに手を振りながら車に乗り込むと、先生はここで過ごした余韻を楽しむように、へらへら笑いながら車のエンジンをつけた。
「いやー、楽しかったね。やっぱりここは予想以上に長い時間、滞在しちゃうね」
「あのマスターとの会話がいつも盛り上がっちゃうからね。いやぁ、今日の夜ご飯は鍋焼きうどんがいいなって思っちゃった」
「はい。私も今日は、うどんがいいなと触発されちゃいました」
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