秘密のビーフシチュー

やまとゆう

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第3章 離れてはいけないし、離れたくない

#38

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 「達月くん、どうしたの?」
 「お礼にコーヒー、作ろうと思って。日菜さんも飲む?」
 「うん、飲みたい」
 「分かった。ちょっと待ってて」
 「ありがとう」

 彼の歩いていく足が、さっきよりも軽く見えたのは私の気分も上がってきたからだろうか。彼がガスコンロのある方へ歩いて行き、数分もしないうちに挽きたての豆の香ばしいにおいが部屋中を包み込んだ。どことなく優子さんの店で出されるコーヒーのにおいに似ている気がした。少し前の私は、コーヒーは全部同じにおいがした。今の私はそういう違いが分かるくらいには成長していると自分で思っている。

 「なんかあの店のコーヒーに似てるにおいがするな」

 独り言で言ったつもりが達月くんの耳にも届いていたようで、「よく分かったね」と言いながら、見るだけで分かる優しい力加減でカップにコーヒーを注いでいく。不意に顔を上げた彼は、私の目をじっと見つめた。

 「まぁでも、日菜さんなら気づくかなって思った」
 「ふふ。もう少しで私もあそこの店で働くからね。それぐらい分からないと」

 顔に熱がこもっている私は、大袈裟に胸を張ってドヤ顔を彼に決めてみせた。彼は絶妙なタイミングで視線を外していて手元の方に向けていた。いかにも彼らしい反応だと思って少し笑えた。彼が褒めてくれると、より一層体全体が温かくなる気がする。私は嬉しさを隠しながら彼が戻ってくるまでソファに座って気を紛らわせた。

 「お待たせしました。あとこれ、おつまみのお菓子」

 おぼんの上に載せられたコーヒーは、それを見ただけで美味しそうに思えた。そしてその見た目を追い越していくように芳醇な香りが私の鼻に届いた。コーヒーカップの横に置かれている小さなバスケットに入ったお菓子の中には、図ったかのように私の好きなものがいっぱい入っていた。

 「あ、バウムクーヘン。私、めちゃくちゃ好きなんだよね」
 「うん、知ってた」

 おぼんからコーヒーを丁寧に持ち上げて彼は私の手元にそれを置いてくれた。達月くんに私の好きな食べ物、伝えたことあったっけ。

 「あれ? 言ってたっけ?」
 「晴樹の試合見に行った時さ、袋に入ってたバウムクーヘン食べきってたでしょ。その時見てから、ずっと好きなんだろうなって思ってた」

 達月くんの観察眼はやっぱりすごい。私が単純なところもあるかもしれないけれど、そういったところを見て言い当てる鋭さは、誰もが持ち合わせているものではない。はずだ。

 「……さすが。よく見てるね。相変わらず」
 「僕も僕で変な人をやっているので」
 「変な人やってるって何」
 「生まれてこの方、ずっと変な人」
 「ふふ。奇遇だね。私と一緒じゃん」

 私たちは同じタイミングでコーヒーの入ったカップを持って、控えめにそれをかちんと合わせてコーヒーをひと口飲んだ。それは優子さんが淹れてくれたコーヒーのように深い味わいで美味しかった。

 「うわぁ、美味し……。優子さんのコーヒーぐらい美味しい」
 「僕もあの人に作り方教わったからね。けど、それは言いすぎ。優子さんの方が美味しい。レベルが違う」
 「そのレベルの違いに気づけない私はまだまだだね」
 「伸びしろがあるって捉えられる」
 「あはは。良いこと言うね」

 美味しすぎるコーヒーを片手にバウムクーヘンを口に入れると、私の頬はとろけ落ちてしまいそうなほどの幸福感に満ち溢れた。目の前の達月くんが、表情を変えずに「ありがとう」と小さな声で私に言った。

 「ううん、どういたしまして。私の方こそコーヒーありがとうだよ」
 「日菜さんのおかげかもね」
 「私の?」
 「うん。さっきよりも大分気持ち、落ち着いた。もし今、1人でここにいたら、多分僕、壊れてたと思う」
 「……うん」
 「だから、来てくれてありがとう」
 「……ううん。私もここにいたかったから」
 「……」

私の声を聞いた彼は、コーヒーカップを握ったまま固まった。瞬きすらしていなくて、まるで石化したのかと思えるほど動かなくなった。

 「何で達月くんが黙るの?」
 「そういうこと、人に言われたことないからどうしていいか分からない。特に今日、日菜さんからそういうこといっぱい言われるから頭がついていってないんだ」

 彼はコーヒーと会話をしているのか、私とは目線を一向に合わせようとせず話し続ける。前髪が上がっていて、いつもより鮮明に彼の顔を見られる私は嬉しさを感じながら、何だかくすぐったさみたいなものも感じて彼を見つめ続ける。

 「日菜さん、こっち見過ぎ」
 「ふふ、だっていつもよりキミの顔が見えるから」
 「何か今日の日菜さん、開き直ってない?」
 「あ、バレた?」
 「うん。バレバレ」
 「じゃあ開き直りついでに、達月くんに話したいことがあります」
 「な、何ですか?」

 彼の目線がコーヒーから一気に私の方へ向いた。熱いコーヒーを飲んだからか、彼の頬は化粧をしているようにほんのりと赤くなっていた。今の私なら、素直に彼に、いや、今現在自分の抱いている気持ちを伝えられる気がして口を開いた。

 「私もね、キミと同じで自分が変わるのが怖かった。キミと同じで、他の誰かに自分を変えられるのが怖かった。自分の領域に踏み込んでくる人とは一定の距離を保とうとしていた。多分、分かってくれるよね?」
 「……うん。分かる」

彼がゆっくりと首を縦に振った。

 「それでも、他人に嫌われたり嫌悪感を抱かれるのはそれよりも怖かったから、愛想の良い誰からも好かれる桜井日菜を演じた。演じたっていうよりは、もう1人の自分に任せてたって感じかな。自分の体の中に2人いて、その2人が入れ替わって過ごす、みたいな感じかな」
 「うん」

 説明の下手な私の言葉を受け止めるように、私の目を見つめて話を聞く彼の目を見ていると、だいぶ心が落ち着いてきた。

 「そんな自分に疑問を感じながらも、それを肯定してくれるように届いたキミの言葉。早乙女達月の言葉が私のお守りになってた。そんな自分でもこの世界にたった1人しかいない人間。そういう人間がいてもいいんだ。だから気にせず生きよう。少しだけ自分に優しくなってください。そう言われて行動した結果があの喫茶店に行くことだった」
 「……」
 「頑張った自分を労るように親友と美味しいコーヒーを飲む。その時間が味わいたくて、私もあの店に通うことが日課になった。そうしたら、そこにいる優子さんが私を覚えてくれた。そこに常連客で座っていた、見覚えのある優しそうな顔の男の人がいた」

 さすがに恥ずかしくなって彼から目を逸らした。コーヒーを飲むふりしてもう一度彼を見ると、まるで紙芝居を見ている子どものような真っ直ぐな瞳で私を見つめている。彼はずっと何も話さないけれど、私は込み上げてくる恥ずかしさを隠すように再び口を開いた。

 「そんな人たちが私の世界を変えていった。気がつくと、私の周りにはたくさんの優しい人がいて、心の中にいた2人の私は1人になっている気がした」
 「日菜さんの気持ち、僕も分かる気がする」
 「え?」

 私の目をじっと見つめる達月くんの茶色い瞳が私を捉えて離さないまま、達月くんの口が開く。

 「僕も人に助けられたから。優子さん、ニケさん。晴樹。そして、日菜さん。今日もこうして日菜さんに助けてもらったから、僕は潰れることなくキミと話すことができている」
 「……やっぱり、人は1人じゃ生きていけないんだよね」
 「うん、必ずどこかで人は繋がっている。ひとりぼっちの人間はいないんだってニケさんがよく僕に言ってくれた」

 私は久しぶりに、本当に久しぶりに達月くんの心からの笑顔を見ることが出来た。その顔を見た途端、私は鼻がつんとつまり、視界が潤んだ。私は慌てて深く息を吸って彼の笑顔に応えて笑った。

 「日菜さん、今日、来てくれてありがとう」
 「ううん。私も来たかったから」
 「ねぇ、提案があるんだけど。いいかな?」
 「何?」

彼は恥じらいを隠すように小さく微笑んだ。

 「ビーフシチュー、一緒に作らない?」
 「えー? 私はまだ優子さんに作り方教えてもらってないんだよね。何より材料はここに無いんじゃないの?」
 「いや、ある程度の牛肉と野菜のストックはあるんだ。だから、どう? せっかくなら。僕もうろ覚えだし、失敗してもご愛嬌ということで。日菜さんの経験にもいいかなと思って」
 「う、うーん……」

 こんなに楽しそうに話す達月くんを見るのは間違いなく初めてだ。まるで、今にも試合が始まろうとしているスポーツ選手の顔をしているように見えた。その少年のような笑顔につられて私も自然と口角が上がった。

 「分かったよ。一緒に作ろ」
 「やった。じゃあ野菜の皮剥きは任せて」
 「オッケー。じゃあ私は切る係」
 「はは。何か調理実習みたいになってきたね」
 「うん。学生時代に戻った気分」
 「エプロンとかしなくていいの? 三角巾とか」
 「それこそ、このアトリエにあるの?」
 「ないね」
 「ありそうなのに」
 「いや、さすがに無いでしょ」
 「あはは。達月くん、エプロン似合いそう」
 「いやいや。初めて言われた。何なら日菜さんの三角巾を付けてるところ見たいけど」
 「いや、それこそ調理実習になるから」

 このあと、思いの外上手にできたビーフシチューを食べた私たちは、その味に感動しながらお腹がいっぱいになるまで皿にシチューを乗せ続けた。私たちはお互い子どもに戻ったように笑顔を向け合ってそれを食べた。気がつくと、鍋の中にあった5人分以上はありそうだったビーフシチューが綺麗に無くなっていた。それを見て、私たちは同じタイミングで笑い合った。私は、彼の心の中にあったドアを開けることが出来た気がして、つい舞い上がってしまいそうだった。
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