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第3章 離れてはいけないし、離れたくない
#40
しおりを挟む平和すぎて逆に怖くなってしまうくらい穏やかに過ごした病院を出てから、私と佳苗は店に戻ってきてからコーヒーを飲んだ。ここへ働き始めてから早くも8ヶ月くらいが経った。資格も少しずつ増えていき、優子さんやニケさんが作るコーヒーにはまだまだ程遠い出来栄えだけれど、自分でも美味しいと思えるものが作れるようになった。そんな私の作るコーヒーを佳苗はいつも美味しいと言って飲んでくれる。1時間ほど佳苗と話してから佳苗は店を出た。駅まで送ると言ったけれど、スマホでタクシーを予約していたらしく、店の前には既にそのタクシーが停まっていた。そういうことをするあたり、佳苗らしいなと思って笑えた。
「佳苗ちゃん、いつもより元気そうだったね」
皿を撫でるように拭きながら優子さんが私を見て微笑んだ。
「うん。晴樹さんと会った日はね、いつもより声が高くなるの。可愛いよね、そういうところも」
「ふふ。日菜ちゃんも可愛いけどね。晴樹くんと佳苗ちゃんも仲良さそうでよかったよ」
「あの2人は安定してるよ。時期が来たらSNSに指輪と婚約届の写真がアップされるんじゃないかなって勝手に思ってる」
「あぁ、それ見ちゃったら私も泣けてきちゃうかもなぁ。でも今は晴樹くんのケガを治すのが第一優先だもんね」
「あー。達月くんも晴樹さんぐらい私のことを好きーってアピールしてくれてもいいのにって思うんだけどな」
幸せそうな2人を見たからか、私もつい心の声が漏れてしまった。そんな声を優子さんはすかさず拾い上げるように笑った。
「あはは。まぁ人それぞれ性格があるからね。それに、達月くんは完全にニケさんっぽい性格だからね。あの人も昔はね、人の顔も見れないまま会話していたからね。だから日菜ちゃんも多めに見てあげて」
「うーん。うん、そうだね。まぁしょうがないか」
「ふふ。日菜ちゃんのそういうところ、私は好きだな」
ハープの音色を聞いているような優子さんの声は、いつも私の心に安らぎをくれる。
「優子さんの好きなところ、ちょっと変わってるね。相変わらず」
「うん、よく言われるよ。特にキミと達月くんにね」
顔がとろけてしまいそうにくしゃっと笑う優子さんを見ていると、私もつられて顔が緩んだ。手元にあったスコーンを口に入れて再び優子さんを見た。
「そういえばニケさん、そろそろここに帰ってくるの?」
「うん。帰って来るよ。来週の木曜日ぐらいって言ってたからあと2週間かな」
「そっか。早く帰ってきてほしいね、優子さん」
「うん、本当に。今回は10ヶ月くらい会ってないからね」
優子さんはニケさんを思い浮かべているのか、心を抱きしめるように目を閉じて微笑んでいる。私の心の中もそれに呼応するように温かくなった。
「……ふふ」
「何? 日菜ちゃん」
「うん? 私は優子さんのそういうところが好きだなって思った」
今度はビー玉みたいに目を丸くして私の方を見た。こんなに綺麗な人が私の師匠で私の友達で私の家族みたいな人なんだ。そう思うだけで私は何故か泣きそうになって慌てて堪えた。何だ今の一瞬は。
「お姉さんをからかっても何も出ないよ。あ、おやつのマドレーヌくらいなら出せるかな」
「あはは。じゃあそれ食べようよ。優子さん」
今日はお酒が飲みたいと言う優子さんは、冷蔵庫から珍しくビールを取り出してきた。普段はカクテルやサワーを飲んでいるのに。私にはジンジャーエールを注いでくれた。
「達月くん、今日もアトリエには戻らないの?」
「いや、今日は遅くなるかもだけど帰るって言ってた。それに、さっき終わったってメッセージが来てたよ。あまり遅くならなかったみたいでよかった」
「お、ちょうどいいじゃん。ここに呼んじゃおうよ」
アニメのキャラクターみたいに口角を上げて笑う優子さん。彼女には様々な魅力的な笑顔があり、それを見ているとまるで魔法がかかったみたいに、こっちもつられて笑顔になってしまう。
「いいね。ちょっとした飲み会みたいになるね。メッセージ送ってみる」
優子さんの提案に乗った私は、スマホを開いて達月くんのアカウントへ飛んだ。最近変えたプロフィールの写真は、私が彼を後ろから撮った写真だ。顔は写っていないけれど、彼がその写真を選んでくれたということを思うと、つい笑顔になってしまう。
『お疲れ様。今から達月くん呼んで飲もうって優子さんと話してたんだけど来れそうかな?』
『お疲れ様。うん、行けるよ』
『良かった。じゃあ待ってるね。気をつけて来てね』
『了解』
相変わらず普段からドライな彼は、メッセージでやりとりをすると一層淡々とした様子の文章を私に返す。まぁそこが何とも彼らしいけれど。
「優子さん、達月くん、来れるって」
「オッケー。じゃあもうちょっと乾杯はお預けしとこう」
「いいの? 目の前にビール注いであるけど」
「もちろん。泡が無くなってもいける口だから」
「あはは。その時は多分、達月くんが謝るだろうね。遅くなりましたって言って」
「ふふ、違いない」
手元にあるマドレーヌを食べながらバラエティ番組を見ていると、店のドアに3回、控えめな音でコンコンとそれを叩く音が聞こえた。はいはいー、と私が足早にそこへ向かい鍵を開けると、大雨に濡れた子犬みたいな顔をしている達月くんがそこにいた。
「お、お疲れ様。だいぶ疲れてそうだね」
「うん。ちょっと出先でストレス溜まっちゃった。遅くなってごめんね」
「ううん。私たちは大丈夫。あ、荷物持つよ」
「ありがとう。でも大丈夫。あ、優子さん、お邪魔します」
「達月くん久しぶりだね。今日もお疲れ様。何飲む?」
「うーん、今日はビール飲みたいかなぁ」
「あはは、私と一緒じゃん。オッケー、じゃあゆっくりしてて」
「うん。ありがとう」
彼のいつもの特等席、フカフカの黒いソファに彼が腰を下ろすと、そこに吸い込まれていきそうなほどクッションが彼の体を包み込んだ。体に溜まったストレスを吐き出すように彼は大きく息を吐いた。
「達月くん、今日は特に頑張った顔してるよ」
「うん。ちょっと色々あったからね」
「まぁそういう時は思いっきりリラックスしちゃおうよ」
「そうだね。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
「ぜひぜひ。私も今日はビール飲みたい気分だったし」
達月くんの手元に優子さんが音を立てずにゆっくりとビールを置いた。彼は無言のまま少しだけ頭を下げてからそれを手に取った。
「佳苗もいたら良かったんだけど、明日から実家帰って家族で旅行に行くんだってさ。早めに帰っちゃった。てかさ、家族と旅行ってパワーワードだと思わない?」
「確かに。その後、何も言えなくなっちゃいそう」
「うん。だから今日は3人でパーっとやっちゃいましょう!」
「かんぱーい! 今日もみんな、お疲れ様でしたぁ!」
「お疲れ様です」
2つのジョッキと私の持つグラスがぶつかり、かちんと高い音が響き渡ると、私は勢いよくジンジャーエールを口の中へ注いだ。口から伝っていく全身を駆けぬけるシュワシュワとした感覚がたまらなく心地よかった。優子さんはごくこくと喉を鳴らしてから、「あー!」と雄叫びに思えた声を出してジョッキをダンクシュートするみたいにテーブルにダダンと音を立てて豪快に置いた。それを横目で見る達月くんはふぅとひと息ついてから静かにジョッキをテーブルに置いた。
「いやぁ美味い! 久しぶりにビール飲んだけどやっぱり最高だね」
「うん。美味い。ここで飲むと、一際美味く思える」
「いいなぁ。2人とも。お酒がどんな味なのかどんどん興味持っちゃうよ」
「体質ってつらいね。ノンアルでも体が反応しちゃう日菜ちゃんには申し訳ないけど、この時間に飲むビールまじで美味いよ」
「大丈夫。日菜さん。ジンジャーエールだって美味いから」
「まぁそうだけどさ」
達月くんにもようやく穏やかな表情が見え始めて少し安心した。私たちは自分たちの近況をそれぞれ報告し合いながら笑い合った。私がコーヒーを淹れられるようになったことを知った彼は、本心なのかは分からないけれどビールの横にコーヒーを置いてほしいと懇願してきた。後でデザートと一緒に出すということにして私はその場を切り抜けた。さすがに達月くんにコーヒーを出す時はもう少し自分に自信がついてからにしたいと心の中で思った。
「早乙女達月、どんどん名前が知れ渡っていくね」
「うん。小説が映画化すると本当に知名度が上がっていくんだって初めて知った。まぁ内心、あんまり有名になるのは少し抵抗があるんだけどね」
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