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第3章 離れてはいけないし、離れたくない
#41
しおりを挟むそう言った達月くんの声が何となく冷たく聞こえて、私の心の中にも少し身震いをしそうな冷えた風が吹いた気がした。彼が続けて口を開いた。
「今日さ、担当のマネージャーに賃貸マンションを紹介するからそこに住んでほしいって言われたんだよね。執筆活動に専念できるようにだって。売れている作家はそうやって作品が書きやすい環境を作ってもらってるんだってさ。正直、僕はここで日菜さんや優子さん、ニケさんたちのいる空間で居たいってのが本音だけどね」
「そっか……」
「うん。まぁまだ決定ではないけどね」
「ここに来れなくなったりするの?」
「来れなくはないけど、回数は減っちゃうかも」
「私は会えるタイミングがあれば達月くんと会いたいけどな」
「僕だって会えるから日菜さんに会いたいよ」
「うん。キミたちは定期的に会った方がいいと私は思う」
早いテンポで話す私たちを見ている優子さんは、うんうんと首を縦に振りながらビールに手を伸ばす。空き缶を4本ほど潰してそれなりに飲んでいるけれど、優子さんは顔色ひとつ変わらず達月くんの方を見て話している。
「仕事を取るか、日菜ちゃんを取るかだね。どうするの? 達月くん」
「もちろん、日菜さんを取りたいよ。けどさ……」
「けど、何?」
ちらっと隣に座る達月くんの顔を覗くと、彼は目を潤ませ、今にも泣き出しそうな顔で私を見ている。必死に涙を流さないように堪えているように見える彼は、急に立ち上がった。
「ごめん、急に出版社から仕事関係の連絡が来たからちょっと今日はここまでにするね。誘ってくれてありがとう。嬉しかった。久々に晩酌出来たし嬉しかったよ」
「あ、達月くん!」
明らかに無理をした笑顔を私たちに向けて彼はそう言うと、足早に店を出ていった。まるで、現実から逃げるように帰っていった気がした。少なくとも彼は、本当のことを言っているような感じではなかった。
「……多分、何かあるね。仕事じゃない何かが」
「うん。優子さん、私もそう思った」
「日菜ちゃんも少しずつ達月くんのこと、分かってきてるね」
「…….うん」
「……」
「達月くん、私に話してくれるかな」
「うん。あの子はきっと話してくれると思う。日菜ちゃんには話してくれるはずだと思う。だって日菜ちゃんのこと、心の底から好きだって顔してるもん。私、あの子のそういう顔が見られるのが本当に嬉しいんだ。昔の抜け殻みたいになってたあの子を見てるからさ」
「優子さんも達月くんのこと、とても大切にしてるもんね」
彼がいなくなった空間で、彼の話題ばかりを話し合う私と優子さん。寂しくないと言ったらもちろん嘘になるけれど、優子さんと達月くんについて話し合っていると、時間は驚くほどあっという間に過ぎていった。その後、1人で入るには寂しく思った私は初めて優子さんと一緒にお風呂に入った。あまりにも綺麗だった優子さんの肌を見ていると、たちまち顔と体が熱くなった。私には少し早いものを見たのかもしれない。それでも心の中は春の穏やかな風が吹いているような穏やかな気分になっていた。そんな優子さんの体を昔から見ているだろうニケさんを素直に羨ましく思った。窓から見える満月の周りには、それを食べようとしているように見えるおぞましい形をした雲が漂っていた。それを見た私の心臓が、違和感のあるリズムで動いていた。
✳︎
優子さんが食器を片付けている無機質な音だけが部屋に聞こえていた。体に上手く力が入らない状態でマットレスに寝そべる私の手元にあるスマホに1通のメッセージが届いた。
『さっき、急に帰っちゃってごめんね』
送り主は達月くんだった。私はスイッチが入ったように手に力が戻り、スマホに手を伸ばしてメッセージ画面を開いた。
『大丈夫だよ。仕事が入ったんでしょ? 気にしないでそっちを優先してね』
『違うんだ。さっき言ってたの、あれウソなんだ』
10秒くらいでメッセージが返ってくる。彼はよっぽど伝えたいことがあるのだろう。言われなくても分かるぐらいには彼のことを知ったつもりでいる。私も落ち着きながらスマホに指を滑らせる。
『達月くんが嘘をつくなら、そうする理由があったんでしよ?』
やっぱりそうだった。彼は嘘をついていた。すぐに届くメッセージを見つめていると、さっき彼が帰る直前に見せていた表情がとても鮮明に頭の中に浮かぶ。すぐに返信が来た。
『うん。理由はある。ただ、勇気が出なかったんだ。今なら大丈夫かも』
『話そうと思ってくれているから。達月くんがそれを私に伝えようって思ってくれた時でいいからね』
『ありがとう。じゃあ今でもいい?』
「うん。もちろん』
私が返信してからすぐにはメッセージが来なくなり、スマホをテーブルの上に置いた。永遠にも思えたその時間を待っていると、電話の着信音が高らかに部屋中に鳴り響いた。画面を見ると、そこには達月くんの名前が書いてあった。私は勢いよくスマホを手に取って通話ボタンを押した。
「あ、もしもし?」
『もしもし。声聞こえてる?』
「うん、すごく聞こえてる」
『それなら良かった。ごめんね、さっきは急に帰っちゃうし、今は急に電話をかけちゃうし』
彼の声はさっきと同じくらい落ち着いていて、特に慌てているようには聞こえなかった。むしろ、私の方が何を言われるかドキドキしている。
「大丈夫。達月くんが意を決したことを私に言おうとしてくれるのが私は嬉しいから」
『うん、そう言ってくれてありがとう』
「ううん」
少しの間、2人のスマホには沈黙が訪れてから彼が深呼吸をする息遣いがスマホ越しに届く。何かを言う決心がついたのか、彼は『あのさ』と言い出した。
『すごく重くなる話になるんだけど、いい?』
彼の真剣な声が私の心臓を大きく動かす。以前とは明らかに違う動揺を自分でも感じる。彼がどんなことを話してもそれを受け入れよう。私は自分にそう言い聞かせた。私も彼と同じように深呼吸をした。
「……うん。いいよ」
『ありがとう。あのね……』
「……うん」
『僕、死ぬかもしれないんだ』
「……どうして?」
彼の声を聞いた私は血の気が引いたのか、一瞬にして全身が冷たくなった。彼がこんなことを冗談で言うはずがない。私は必死に感情を抑えながら彼に声を返した。
『僕ね、ちょっと特殊な病気にかかってたんだ。実は結構前からね。今日も実は出版社じゃなくて病院に定期検診に行ってきたんだ。そこで診断された。以前より病状がちょっと進んじゃってるみたいで』
「……うん」
『このまま悪化していく可能性が高いみたいでさ。最悪の場合、持ってあと5年くらいしか生きられないって言われちゃったんだよね』
「あと5年……」
絶望的な壁が、現実的な数字を持って私の目の前に立ちはだかっているように聞こえた。いや、私じゃない。彼の目の前にはこんな壁よりも恐ろしい死の恐怖が迫っているのだ。どうしよう、涙を止めることが出来ない。せめて、彼には気付かれないようにしよう。
『違和感はあったんだ。最近は特に。体の真ん中あたりがずっしり重くなったりする日があったり、キリキリ痛むような感覚があったり。忙しくて病院に行くのをサボってたらこんなことになっちゃってさ。何やってんだよって話だよね』
「……」
彼の乾いた笑い声がスマホから聞こえてきた。何か言わないとと思うと、私は何も話せなくなってしまった。まず第一に、やっぱりどうしても信じられない。彼があと5年しか生きられないなんて。
「……しゅ」
『うん?』
「しゅ、手術とかしてもどうにもならないの?」
自然と声が荒くなる私をあやしてくれるように彼は優しく『そうだね』と言った。その声を聞くと、ますます涙が止まらなくなる。
『世界的にも珍しい病気なんだって。だから手術をした記録がほとんど無いらしい。実際、僕もその病気の正式名称を未だに知らないんだよね。』
「どんな病気なの? その病気って」
『……説明するのは難しいんだけど、簡単に言うと、人間としての機能が無くなっていく病気、かな。原因は本当に分からないらしい。徐々に思考機能や身体機能が低下していくのが主な症状でね、認知症とかに似た病気なんだけど、それよりもきつい。声に出して話すことも出来なくなれば、体も動かせなくなっていくらしい。だから実質、死んでしまう病気ってことだね』
「な、何それ。本当に聞いたことないんだけど……」
『そうだよね、世界にもこの病気になった人は指で数えるぐらいしかいないんだって。笑っちゃうよね、何でそんな珍しい病気になっちゃうんだろうって。どうせならその確率で宝くじとか当たってほしいよ』
はははと笑う達月くんの声が明らかに無理をしているように力が入っている。私も彼が説明してくれている病気のことが一切頭に入ってこない。
『前の僕は、いつ死んでもしょうがないって思ってた。僕は昔から体が強くなかったし、ニケさんと優子さんは僕が死んだらきっと悲しんでくれるし、2人を泣かせることにはなってしまうだろうけど、僕はそれでも幸せだって思えたと思ってたから。それこそ、病気が進行したら、その時はその時だって思ってた』
スマホから聞こえてくる彼の声が震えていることに気づいた私は、つられるように鼻水も出てきた。私はもうどうにでもなれと、半ば開き直りながら涙を拭いて鼻水をすすった。
『でも、今は嫌だと思う。死にたくない。日菜さんの元から離れたくない。もっと長く生きて日菜さんと一緒に生きていきたいって思ってるのに。いつ、自分の体に病魔が襲いかかってくるか分からないのが苦しいし、辛いし、怖い』
私と同じように鼻をすすりながら話す彼の声は、優しさに満ち溢れたような声に聞こえた。彼の声を聞いた私も、堰を切ったように感情と涙が激しく溢れ出した。
「達月くん、私もキミと全く同じ気持ちだよ。ずっと一緒にいたいと思ってるし、これから先も一緒に生きていきたいよ」
『……』
「助かる可能性は無いの?」
『これから治療法が見つかれば、それに基づいて治療をしていくことが出来るかもしれないけど、その可能性が極端に低いんだ』
彼のか細い声を聞いた私は、自分を奮い立たせるようにそして彼を強く抱きしめるように大きな声で「あるじゃん!」とスマホに向けて言い放った。
『……え?』
「達月くんが助かる可能性があるんじゃん! じゃあ私がそれを見つける!」
『見つけるって世界中の病院を見て回るの?』
「やりようはいくらでもあるでしょ? それに、まだ助かる可能性が0%になったわけじゃないんでしょ」
『……』
「今はインターネットだって普及してるんだし、絶対、それを治せる日が来る! 私はそう信じて今から行動する!」
泣きながら彼に決意表明をするように言い切ると、彼がふふっと優しい声で笑ったのが聞こえてきた。
『……日菜さんの声ってさ』
私とは対照的な、まるでバラードの歌い始めみたいに繊細で落ち着いた彼の声がスマホから聞こえてきた。
「うん?」
『日菜さんの声ってさ、やっぱり活力をくれるね。僕に』
へらっと彼が笑っているのが電話越しでも分かった。つられるように私も涙を流しながらへらっと笑った。
「当たり前じゃん。病気、治してほしいんだから」
『……ありがとう。日菜さんが側にいてくれるとやっぱり心強いな』
「私だけじゃないよ」
『え?』
「達月くんの周りにはキミを大切に想ってる人がたくさんいる。優子さんとニケさんはもちろん、晴樹さんや佳苗だっている。みんな、キミのことを絶対大切に思ってるよ。それで、私はその中の誰よりもキミのことを大切に想ってる自信があるから」
『……へへ』
彼が笑顔でいてくれると、私もすごく嬉しい。彼の嬉しそうな声を聞いていると、私もすごく嬉しくなる。止まらない涙を手で拭いながら彼の声を待つ。
『僕、幸せ者だね。うん、決めた。日菜さん、僕、決めた』
「うん?」
『治療に専念するよ』
「……うん! 一緒に戦おう! 大丈夫。キミは1人じゃないから」
『なんか今の言葉、歌のタイトルみたい』
「ほんと? じゃあそのタイトルでオリジナルの曲作ろうかな」
『お、じゃあそれを誰よりも早く聞かせてよ』
「うん。もちろん。じゃあ絶対喜んでもらおう」
『今の時点でとても嬉しいけどね』
「ねぇ、達月くん」
『ん? 何?』
「今どこにいる?」
『今? いつものアトリエから電話かけてるよ?』
「私、今から向かっていい?」
『今から? いいけど、この辺知ってるでしょ? 物騒だから。時間もだいぶいい時間になってるし』
「大丈夫。タクシーで行くから」
『えぇ!? 日菜さんも今、優子さんの店でしょ? どれだけお金かかると思ってんの?』
「達月くん、こういうのはね。お金じゃないんだよ。それにね」
『うん?』
「多分、優子さんも今、達月くんと会って話をしたいと思ってるだろうから」
私はそれからしばらく彼と話してから電話を切り、優子さんを誘ってから急いで準備を整えてから家を出てすぐにタクシーを拾った。この数十分の間に聞いたことは、本当は夢なのかもしれないと疑いたくなるぐらい衝撃的な話だったけれど、それよりも彼を支えて生きていくという気持ちが強くなって、私は一層彼に会いたくなった。これからは、彼の病気が治るまで絶対に泣かないと決めた私は、口元に力を入れて彼の元へ向かった。
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