10億人に1人の彼女

やまとゆう

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第2章 唯一の宝物

#11.

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            ✳︎

 「西島」
 「はい」

ナイフのように鋭い声が僕の背後から不意につきつけられた。脊髄反射のように返事をして振り返ると、そこには眉間を削り取ったのかと思えるほど皺を寄せて山中さんが僕を睨んでいた。

 「お前、これ何回目だよ」

山中さんの手に持っている紙は、僕が夜勤の時に作っていた生産表だ。今月はどの製造品が多く成形されたのか、どの製造品がどれだけ廃棄処分されたのか、来月はどの製造品の発注が増えそうか。僕らの職場の全てがそこに記されていると言っても過言ではない書類だ。

 「な、何がですか?」
 「生産数。ここ、書かれてねえじゃねえか」
 「それは……」

山中さんの指差すところには明らかに一箇所だけ空欄がある。そこは確かに僕がその日の生産数を入力するべき箇所だった。

 「……すみません。抜けていました」
 「お前さ、同じミス何回繰り返すんだよ」
 「……すみませんでした」
 「いつまでも謝って済むと思ってんのか?」
 「……いえ」
 「もういい。俺がやっておく。早く仕事に戻れ」
 「……はい」

今日も動物園のように騒がしい工場の中。なのに、山中さんの声はこの工場の騒音をすり抜けるように耳に入ってくる。悪いのは僕だから何も反論は出来ない。ただ、僕は今日の業務を終える前にその表を完成させるために今出来ることをやっていた。山中さんだって自分の業務があるはずなのに。どうして注視しないと分からないミスの場所を探り当てられたのだろう。モヤモヤとした感情が心の中に生まれたけれど、僕が反論したところで状況が悪化するだけだ。悪いのは僕だから尚更だ。胸の辺りにズキズキとした痛みを抱えながら僕は今日も山中さんに怒られて1日を終えた。

             ✳︎

 仕事を終え職場のドアを開けた。既に日は沈んでいて、まん丸の月が僕を労ってくれているように明るく光っている。いつものようにずっしりと重い足を動かして倒れるように車へ乗り込んだ。騒音から解放されたこともあり、車の中は驚くほど静かで目を閉じればこのまま眠れそうな気がした。毎日疲労はあるけれど、精神的に参った日は本当に色んなことをやめたくなる。そう、生きていることさえも。ストレスと一緒にため息を吐き、気を紛らわせるためにスマホを除いた。

 『カケルー! 今日、仕事何時までだ?』

ダイキからメッセージが届いていた。確認するとメッセージはほんの5分ほど前に届いていた。

 『ちょうど今、仕事終わったよ』
 『お! じゃあさ! スナック行かね?緋色!』

ダイキの返信は驚くほどに早かった。僕の返事を今か今かと待ち構えているようだった。僕はその文字を見ただけでそこへ行きたくなったのだから、相当疲れが溜まっているのだと思う。そして反射的にチハルさんの顔が頭に浮かんだ。

 「めっちゃ行きたい」
 『めっちゃ行きたい』

心の声を漏らしながら僕は再びメッセージを送った。すると、ダイキからその返事をやっぱり待ち構えているのではと思いそうになるほど素早い返信が来た。

 『そうこなくちゃな! じゃあ今日はタクシー呼んで迎えに来てもらおうぜ。カケルの家に向かってもらうように手配するからさ』
 『ありがとう。じゃあそうさせてもらうよ』

僕はダイキに返信し、思いきり深呼吸をしてから車を動かした。三途の川を渡ろうとする僕を引き戻すようにダイキのメッセージが僕の中でとても大きく響いていた。ありがとう。ダイキ。ずっしりと体にのしかかっていたストレスや疲労感が軽くなったのがすぐに分かった。

 部屋の時計を見るとまだ20時。今日は19時過ぎに仕事を終えられたのが不幸中の幸いだ。僕は以前と同じ、ダイキに選んでもらったあの紺色のセットアップに着替えてからダイキの乗ったタクシーの到着を待った。すると、僕がアパートの駐車場に立って5分もしないうちにタクシーが僕の目の前に来た。後部座席のドアが自動でゆっくりと開き、奥の席には相変わらず座っていても大きなダイキが笑って手を上げた。

 「よっ! 待たせたな!」
 「ううん。おれもちょっと前に待ってただけ。あ、お願いします」

再びゆっくりと自動でドアが閉じると、運転手さんの性格がわかりそうなほどタクシーもゆっくりと動き出した。

 「ちょっと久しぶりだなぁ、カケル!」
 「そうだね。しばらく忙しい時期が続いてさ。3ヶ月ぶりぐらいかな?」
 「仕事ならしょうがないさ」
 「出来ることなら、おれもダイキに会ったりあのスナックへ行ったりしたかったよ」
 「お、マジか? カケルから直接そうやって言われると何か照れくせえな。てかさ、ハルカもチハルも顔覚えてるか?」

ダイキは終始笑いながら僕と話す。僕の身の回りは、笑顔で話す人が多い。そしてもちろん、2人とも顔を覚えている。特にチハルさんには早く会いたくなっている。

 「もちろん覚えてるよ。てか、チハルさんに関しては先月ぐらいに公園で会ってるしね」
 「マジかカケル! 衝撃発言だぞ、それ!」
 「うん。ダイキに直接会ったら話そうと思ってた」
 「詳しく聞かせろよな!」
 「ふふ。あとでね」
 「あー! 焦らしやがってー!」

車内とは思えないほど大きな声で話すダイキ。運転手のおじさんは表情ひとつ変えずに例の街の方へ車を進める。関係はないと思うけれど、他人が聞く空間で話す気にはなれなかった。ダイキはその後、大きな体をもじもじと動かしていた。僕の話が気になっているのか、2人に会えるのを楽しみにしているのかは分からないけれど、僕自身も久々にチハルさんに会えると思うと普段よりも体が動いている気がした。

            ✳︎

 「いらっしゃいー! 待ってたよ、お2人さんっ!」

 以前と同じく、ジャングルのような演出を意識されているような通用口を通り、階段を登り、辿り着いたドラキュラがいる屋敷のような空間。そこには今日は薄いピンク色のドレスを着たチハルさんと、淡い青色のドレスを着たハルカさんが手を振って出迎えてくれた。同じように手を振るチハルさんの笑顔を見た瞬間に、僕は体の奥が熱くなる感覚がした。

 「おー、今日も2人とも仕上がってんなぁ! 久しぶり!」
 「ダイキくんももうお酒入ってるみたい。さては、どこかで2人先に飲んできたな?」

チハルさんは頬を軽く膨らませながら僕らの分のグラスを用意してくれた。その仕草ひとつだけで僕は体温が上がる。

 「いやいや! オレたち、ここへ来るつもりしかないなら! な、カケル」
 「うん。さっきタクシーで近くまで降ろしてもらってそこから5分ぐらい歩いてて」
 「すごい詳しく説明してくれるね」

チハルさんとハルカさんが同じタイミングで手を叩いて笑った。そしてタイミングが合ったからか、お互い目線を合わせて笑いながらハイタッチをしていた。僕の発言で2人が楽しそうにしているものだから、何だか妙に嬉しくなった。

 「カケルもここへ来たがってたもんな!」
 「うん。仕事が落ち着かなくてごめんなさい。やっと来れました」
 「カケルくん久しぶりだね! チハルとね、あの2人はいつ来るんだろうねーって話してたんだ! チハルね、いつもカケルくんのこと...」
 「ハルカっ! その話はいいから」

おっと失礼!って笑いながらハルカさんは、チハルさんの用意したグラスへ透明な液体を注ぐ。ハルカさんのニヤニヤしている顔は、どこかダイキに似ているような気がした。

 「お! 2人もいい感じなのか?そういえばさっき、カケルから聞いたけど、カケルとチハルの2人、公園で会ったんだってな! その話、今度は詳しく聞かせろよ! カケル!」
 「わかったよ。とりあえずさ、座ろう。椅子に」
 「あはは。何その文法みたいな言い方。でもカケルくん、正論」

店に入ってからずっと立ちっぱなしだった僕とダイキは、2人に案内されて今日は4人掛けのテーブル席へ座った。カウンターの方を見ると、以前僕らがここへ来た時にも居た男の人が座っていた。確かヒデさんといっただろうか。その人の前で腕を組みながら笑う女性は初めて見た。貫禄のある体型、貫禄のある顔、貫禄のあるオールバックヘア。貫禄しかない屈強な女性が、黒いドレスを着てがははと口を大きく開けて笑っていた。その人は僕らに気がつくと、いらっしゃい!と部屋中に響き渡る大きな声で右手を振って僕らを迎えてくれた。僕はその迫力に押され、目線を逸らしながら会釈をして応えた。ダイキはお邪魔しまーすと右手を上げてへらへらと笑っていた。昔からだけれど、ダイキは誰とでもフレンドリーに接することが出来るところが素直にすごいと僕はいつも思っているし、尊敬もしている。

 「あの人ね、優子さん。ここのオーナー。見た目は怖そうだけど、すごくいい人なんだ。今はヒデさんがいるから紹介できないけど、またタイミングが合ったら2人のこと紹介するね」
 「私もチハルもあの人の一番弟子なんだ!」
 「へぇー! いかつい人だけど、すごい良くしてくれてんだ」
 「うん。すごく前からお世話になってるんだ」
 「ん? どうしたの? カケルくん。お姉さん2人が近くにいて緊張するか!?」

テーブルの向かい側にいるハルカさんがチハルさんをチラッと見ながら楽しそうに笑う。

 「い、いや、緊張もしてますけど、一番弟子が2人いたらどっちが一番なんだろうなって思って」

僕の言葉を汲み取ったチハルさんがハルカさんの隣で吹き出して笑っていた。
 
 「確かにね。ハルカも私も同率1位の一番弟子だよ。それで、3位にいるのが今日はいないけど、前ヒデさんと話してたミクね。あのハーフっぽい女の子。覚えてるかな」
 「あぁ、覚えてるよ! あの子も可愛かったな!」
 「...あの子も?」

ハルカさんはグラフの中にある氷をガチャンと鳴らしながらマドラーを回してハルカスペシャル(?)を作っている。ダイキは動揺したように鼻を摩りながら笑った。

 「まぁハルカが一番可愛いけどな!」
 「ふふ。ダイキくん、ハルカを怒らせたら怖いよ」 
 「はい、出来たよ! ハルカスペシャル! ダイキくんの方には少しイタズラを施しました! どうぞご賞味あれ!」
 「あれ? チハルさんとハルカさんは飲まないんですか?」
 「え? 飲んでもいいの?」
 「当たり前だろ? 今日はオレたちそのつもりで来たのに! お金はオレもカケルもがっぽり持ってるから!好きなだけ飲もうぜ!」
 「がっぽりも持ってないから。でも、みんなで楽しみたいです」
 「ふふふ。ありがとう。じゃあハルカ。私たちもお言葉に甘えよっか」
 「待ってました! その言葉! じゃあ音頭は私に任せて! んー? どうしよっかな! 久々の出会いを祝してぇー! 乾杯いぃっ!!」
 「シンプルだなぁ! 乾杯!」
 「ふふ。乾杯」
 「か、乾杯」

4人のグラスが再開を喜び合うようにガチンと音を立てた。カウンターにいるヒデさんと優子さんも手に持っているグラスを上げて乾杯!と言ってくれた。口に入れたハルカスペシャルは、やっぱりとても美味しくて僕は一気に飲み干した。
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