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第3章 今生きているこの時間
#26.
しおりを挟むゾンビのような足取りでフロントに向かった僕は、そこにいたホテルスタッフの顔をあからさまに困惑させながらチェックアウトをして、僕は放心状態のまま昨日まで幸せの思い出しかなかったホテルを出た。心が空っぽになるとか、胸に穴が開いたとか聞いたことがあったけれど、まさに今の自分にぴったりな言葉だと思えた。
彼女の寿命はあと少し。
僕はそのことがずっと頭の中に残っている。さっき読んだ彼女からの手紙や、一心不乱にお互いを求め合ったセックスよりも頭の中に残っている。彼女がもうすぐこの世からいなくなる。二度と会えなくなる。それは今の僕にとっても死を意味するようなものだ。昨日の夜、2人で来た場所へ僕は海を見に来た。昨日の夜に見たあの幻想的で夢のような景色はどこにもなく、ただ目の前に広大な海と真っ青な空が僕の目の前に広がっていた。足元を見ると、ゴツゴツとした岸壁に荒々しい波が激しい音を立てて打ちつけていた。
「ここから飛び降りたらチハルさんと一緒に逝けるのかな」
ふと体の力が抜け、僕は頭から倒れるようにふわりと体が浮きそうになった。まるで空を飛んだような感覚になった。その刹那、
『キミは私の分までいっぱい生きてください』
チハルさんの凛とした声が耳元で聞こえた気がして、僕は我に返って両足を踏ん張った。慌てて岸壁に両手をついて全身を支えた。もう少しで僕は足元の断崖絶壁へ飛び降りるところだった。体中汗だくで乱れる呼吸を整えながら僕は倒れるように座り込んだ。すると、ポケットに入れていたスマホが激しく鳴った。画面を確認すると、それはダイキからの着信だった。
『よう、リア充』
『何だよ、ダイキだってリア充だろ。てかリア充って久々に聞いたよ』
『上手くいってるか? 故郷旅行。オレもそっちに行きたかったよ』
『……』
ダイキの声を聞いていると僕は自然と言葉が詰まり、じんわりと気持ちが込み上げてきた。僕はダイキに気づかれないように必死に自分を落ち着かせた。
『ダイキ』
『ん? 何だ?』
『今日の夜ってさ、空いてる?』
『おう、ちょうどすなっく緋色に行くつもりだったよ』
『フフ、奇遇だね。おれもそこに行かない? って言うつもりだった』
『流石親友だな! オレもお前と行きたいと思ってたよ!』
『ダイキってさ、たまにすごいクサイこと言うよね』
『クサイとか言うなよ! 言いたいことは言いたいだろ!』
『ハハ、おれはダイキのそういうとこ好きだな、昔から』
『まぁ褒めてくれてるなら悪い気はしねえな! てかさ、カケル今はもう帰ってきてんのか?』
『ううん、まだこっちにいるんだ。今から帰ろうとしてた』
『そっか、ってことはこっちに着くのは夕方くらいか?』
『そうだね。なるべく早く帰るように頑張るよ』
『いやいや、そこはチハルと楽しんで帰って来いよ!』
『それがさ、チハルさん、先に帰っちゃったんだよね』
『マジか!? 何で? 怒らせたのか?』
『怒らせてないよ。ただ、ダイキと、あとハルカさんやスナックの人たちにも聞いてほしい話があるんだ』
『……そっか』
電話越しに届いたダイキの声が分かりやすく低くなったのが分かった。まるで僕の聞いてほしいことを悟ったかのように思えたけれど、僕は今は聞くべきではないと思いそれを問おうとはしなかった。電話が切れたのかと思うほどの沈黙が続く。
『まぁ何だ、とりあえずカケル、こっちに着いたら連絡してくれ!』
『うん、分かった』
『気ぃつけて帰って来いよ!』
『ありがとう、じゃあまた後でね』
そう言ってダイキは電話を切った。ダイキは僕の命の恩人になったかもしれない。僕はようやく腰を上げることが出来た気がした。
「ありがとう、ダイキ」
海辺の方から聞こえてくる子どもたちのはしゃぐ声と僕の独り言が混ざり合うように海の方へ溶けていった。僕は目の前に広がる海と空を目に焼きつけるようにじっと見つめてから旅館の駐車場へ戻って車に乗り込んだ。大変な状況は変わらないけれど、僕には繋がりのある人がまだいる。その人たちは絶対、この状況の僕とチハルさんに手を差し伸べてくれる。そう思うと、今すぐにでも帰りたくなった。僕は物事を前向きに考えるようにアクセルペダルを強く踏み込んだ。
✳︎
「久しぶり! カケルくん!」
「カケル! いらっしゃい! 元気そうではないね!」
「優子さん、今日はカケルの話、聞いてやってよ!」
僕の肩を覆うようにダイキの右腕が僕の右肩に乗ったまま店の扉を開けると、久しぶりに見たハルカさんと優子さんが僕を歓迎してくれた。ハルカさんはダイキがショートヘアが好きなのに合わせているのか、初めて会った時よりも随分髪が短くなっていて首に髪がつくかつかないかくらいの所でふんわりとしたウェーブが全体的にかかっていた。初めて見た時よりも幼く見えて、初めて見た時より髪型が似合っていた。隣の優子さんは普段通りで、まるでRPGのラスボスのような黒を基調としたドレスと、相手を威圧するようなオールバックヘアと目元を黒で強調しているアイメイクをしていて相変わらず迫力は相当なものだった。そんな人が満面の笑みで僕を迎え入れてくれるものだから、僕はそれだけで何だか心が暖かくなった。
「任せときな! 今日はアンタら2人貸切で、私とハルカがとことん付き合ってやるよ!」
「貸切!? いいの? 優子さん? オレら今日あんまり持ってきてねえよ!」
「大丈夫だよ! 最近、ありがたいことにちょっと経営に余裕があるんだ! それに、今日はその方が都合が良さそうだしな」
優子さんは僕を見つめると、急に真面目な表情になった。僕はその変わりように動揺しながらも優子さんの方を見つめ返して深く頭を下げた。
「今日は酒を入れない方がよさそうか?」
「そうですね、とりあえず運転で疲れたから何か食べたりはしたいです」
「よしきた! ハルカ! グランドピザのマルゲリータ、8人前頼みな!」
「は、8人前!? 私たち4人しかいないですよ!」
「馬鹿だね! この成長期男子たちが3人前ずつ食べるんだよ!」
「なるほど! それなら納得ですー!」
「ちょっと頼みすぎじゃない? 優子さん?」
「でもダイキも腹減ってるでしょ? おれもペコペコだから多分あったら食べちゃえるよ」
「それならカケルが5人前食ってくれたら大丈夫だな!」
「何か今日はガチで食べられそうな気がするよ」
「ははは! 相当だな! おし、10人前頼もう!」
優子さんの明らかにおかしい計算で結果的に10人前のピザを頼むことになった。流石に同じ味だと飽きが来るということでオーソドックスなミックピザとシーフードピザと、あとハチミツがトッピングされている甘いタイプのピザをそれぞれバランスよく頼んだ。注文したピザが店に届き中身を開けると、まるで外国のファミレスに来たかと錯覚しそうなほどチーズのにおいが店中に広がった。
「こりゃあ明日もチーズのにおいが残りそうだね!」
「楽しい余韻が残っていればいいんです、優子さん!」
「楽しい雰囲気で話すことじゃないと思うぞ、カケルは」
「まぁとりあえずいただきましょう。おれ、もう腹鳴りまくってます」
僕らは一斉に、襲いかかるようにピザに手を伸ばした。乾杯をしなかったのは僕が暗い話題を出すことがみんな分かっていたからかもしれない。あえて明るい空気を作ってくれているのかもしれない。僕はそう考えながらピザを口に入れた。10時間ぶりに食事にありつくと、僕は生きていることをそのピザに実感させられたように美味く感じた。むしろ天にも昇る勢いで美味く感じたかもしれない。
「え、ピザ美味すぎるんですけど」
「いい顔してんな! カケル! ここのピザ、食ってるとすごい幸せな気分になるだろ!」
「私たち、ヘタしたら週1くらいで最近食べてません? 優子さん」
「確かにめっちゃ美味いな、このピザ! もっと早く教えてほしかった!」
「このピザは秘密兵器だからな。悩みを打ち明ける時は美味いものを食べるに限る! さ、カケル! 1から10まで話しな! 全部聞いてやるよ!」
優子さんは、僕の腕よりも明らかに男らしい腕を勇ましく組んで僕を見つめている。僕はそんな優子さんが醸し出す異常な安心感とピザの美味さに誘われるように口を開いた。
「はい、じゃあ話しますね。じゃあまず皆さんに聞きたいんですけど」
✳︎
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