10億人に1人の彼女

やまとゆう

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10年後……

#33.

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 夕食を食べ終え、使い終わった食器を洗う。リッカは本当にしっかりしている娘で、使い終わった食器はちゃんとキッチンの方へ運んで行くし、僕の使った食器も含めて洗うと言ってくれる。それが好きだからと言い張るものだから僕は頻繁にリッカに食器を洗ってもらっている。

 「リッカ。今日は父さんがするよ」
 「だめ! 今日も私がする! 父さんは疲れてるだろうから!」
 「今日は休みだったから疲れてないよ」
 「出かけたりしてたでしょ? だから私に任せて!」
 「そう? じゃあお言葉に甘えようかな。いつもありがとう、リッカ」

いいのよ! と言ってリッカは乳歯が3本ほど抜けているその歯並びを僕に見せつけるように口を開けて笑った。両手が泡まみれで、鼻の頭や左目の下なんかに小さな泡がついているリッカは、童話に出てくる無邪気な妖精みたいに可愛く見えた。我が家の妖精が食器を洗ってくれている間に僕はリビングへ戻り、いざという時に必要なものだけがその中に入っている、黒い色がその存在感を放つ化粧台の上から2番目の引き出しを開けた。そこから僕は1枚のDVDディスクを取り出した。テレビの下にあるDVDレコーダーにそのディスクを入れると、それは正常に起動してテレビの画面にディスクの内容の映像が映った。
 
『私のかけがえのない人たちへ』

というタイトルの書かれた動画ファイルのページが画面に映り、ボタンを押すと今にも動画が始まりそうだった。実をいうと僕もこの映像を見るのが今日が初めてだ。だから、この動画の内容は僕にも分からない。ただ、本人からは娘が10歳になった時に見て。と強くそこを押されたので、僕はその約束を守ってこのDVDを一度も見たことはない。早く見たくてしょうがないけれど、そこを堪えて僕もリッカに渡すプレゼントを用意しよう。万全の状態のままテレビの電源を消して僕は再び腰を上げた。

 「リッカ、父さんな、車に財布忘れてしまったからちょっと取ってくるな」
 「うん! 行ってらっしゃい!」

疑う様子は微塵もないようで、リッカは残っている食器をシャカシャカと洗っている。僕はその隙にいそいそと車の元へ行き、トランクから僕の身長の半分くらいの大きさはありそうな段ボールを取り出し、それを落とさないように丁寧に両手で抱えゆっくりと運んだ。決して重くはないけれど、長くは持っていたくはない重量のそれを徐々に、確実に運んでいく。玄関のドアを開ける頃には額に少し汗が滲んでいた。キッチンの方から水の出る音が聞こえている。まだリッカが食器を洗っていることを確認して安堵した僕はそのままリッカが食器を洗い終えるまで待った。それから5分ほどが過ぎて水の音が止まった。

 「リッカ、食器ありがとうな」
 「どういたしまして! 父さん、おかえり!」
 「あぁ、ただいま」

今みたいに少し家を出ただけでも僕が戻ってくると、おかえりと言ってくれる娘の言葉に僕は一瞬で嬉しさが込み上げる。そして、その優しさはやっぱりチハルさんに似たものを感じる。さすが僕らの娘だ。

 「やっぱり今日は洗い物が多かったね! え? ……父さん、何それ!?」
 「リッカ。誕生日おめでとう」

僕の後ろにある段ボールを見つめるリッカの目が面白いぐらいに丸くなっていた。ピンポン球よりも大きそうな目になったリッカの元へ行き、ゆっくりと髪を撫でた。リッカの髪の毛はピンク色でないものの、チハルさんのような絹みたいにサラサラな髪が僕の指の間をするすると通り抜けて行く。

 「あの箱、開けていいの?」
 「もちろん。開けていいよ」

リッカは全速力で段ボールに駆け寄り、食らいつくようにそれを両手で掴んだ。ラッピングをしてもらった紙袋をビリビリに破るのかと思いきや、テープが貼られていた箇所を丁寧に剥がしながら少しずつ中身を確認していく。
そういう丁寧さも完全に母親譲りだ。破れる音が一度もしないまま紙袋が剥がされ、リッカが段ボールの入り口を徐に開けた。中を見たリッカは驚いているのか喜んでいるのか、今までに聞いたことのないような叫び声を上げた。

 「父さん! これ、抱きマクラクマじゃん!?」
 
 そう言って僕の方にキラキラと夜に見る星空のように目を光らせるリッカは興奮した様子で僕を見つめている。毎日リッカを見てはいるけれど、リッカの笑顔を見ているといつだって何でもしてやりたくなる。それに、チハルさんに似てきたリッカの笑顔を見ると、一層感情が動かされる。愛嬌のある垂れ目のこのクマの顔にリッカがこうもテンションが上がっていると、嫉妬心みたいなものがじわじわと込み上げそうだった。

 「そうだよ。リッカ、いつもスマホでそれを欲しそうに見てただろ?」
 「うん! すっごい欲しいと思ってた。でもよく買えたね! この抱き枕、いつも売り切れて全然買えないってクラスの子たちが言ってるのに」
 「そうなんだよ。だから今日はリッカだけの、世界でたった1つの抱き枕にしてよらったんだよ。ほら、後ろ足の所に何か書いてあるだろ?」

僕が寝る時に使っている枕よりも大きそうなそのクマの左側の後ろ足をリッカが覗き込む。そこには、オーダーメイドで文字の刺繍を入れてもらった。達筆すぎて、僕が頼んだように書いてあるのか一瞬不安になった。

 「これ、英語で書いてあるの?」
 「あぁ、そうだよ」
 「なんて書いてあるの?」
 「『リッカへ。月はいつまでも綺麗だからね。ずっとずっと。カケルとチハルより』って書いてもらった」
 「ん? どういう意味?」
 「リッカが大人になったら分かるさ。とにかく、リッカ。10歳の誕生日、おめでとう!」

ズボンのポケットに忍ばせておいたクラッカーを取り出し、僕は紐を勢いよく引っ張った。パンッと乾いた音が響き、それに周りの音が吸い込まれたように部屋が静かになった。リッカは口をぱっくりと開けている。すると、遠くで鳴る花火のようにリッカの顔に遅れて笑顔がやってきた。

 「ありがとう! 父さん! 母さん!」

僕の体に勢いよくリッカが駆け寄ってきて抱きしめられた。僕はそれに応えるように優しく包み込むように抱きしめてサラサラの髪をゆっくり撫でた。クマよりも先に抱きしめてもらったものだから、優越感に浸りながらクマの顔を見つめる。クマの顔が僕に嫉妬心を抱いているように見えなくもない気がした。

            ✳︎

 「実はまだプレゼントがあるんだ」
 「え? まだあるの? 私、このクマちゃんで十分だよ? 父さん」
 「ふふ。おれもまだ見たことのないものだけどね」
 「どういうこと?」

クマに覆い被さられるように体全身を包み込まれているリッカが不思議そうな顔で僕の方を見た。その無邪気な顔が愛おしくていつまでも見ていたくなる。僕はリッカに笑顔を返し、テレビの電源を再び入れ、その流れで再生ボタンを押した。映像が動き始めた。そこには10年前、生前のチハルさんの姿がそこにあった。何やら準備をしている段階のようで、映像の中でガサゴソと物音を立てながら彼女が映像に映るポジションを入念にチェックしている。僕はもうすでに涙が左目から溢れた。

 『あ、もう始まってるじゃん。コホン、改めまして』

控えめな咳払いをした彼女が、これまでに何回も僕を救ってくれたあの柔らかい笑顔を見せた。動いている彼女がそこにいる。ずっと変わらない鮮やかなピンク色の髪の毛の彼女がそこにいる。そして、風鈴のように透き通った声の彼女がそこにいた。

 『リッカ、10歳の誕生日おめでとう。私が誰か分かるかな?』

ビデオに映る母親を、実際に動いている母親をリッカは初めて見ている。

 「父さん……」
 「うん?」
 「母さんだよね? この人」
 「うん、そうだよ」
 「すっごく綺麗……」
 「あぁ、おれもずっとそう思ってる」

リッカは口をぱっくりと開けたままビデオに映る彼女を見つめている。僕はこれ以上涙を流さないように必死に心の中の感情を堰き止めるように歯を食いしばった。

 『今、こっちの世界は20XX年7月26日、夜中の3時を少し回ったところです。父さん、ううん。カケルくんも久しぶりだよね。私が言った約束を守ってくれてるのなら、私に会うのは10年振りだろうからね。10年経ったそっちの映像が、私は見たくてたまりません。リッカは初めましてになるね? 初めまして。あなたの母さんのチハルです。ちなみにこっちの世界にいるカケルくんとリッカは今、気持ちよさそうに眠っています』

10年前、奇跡的に桜命症の症状が1つ判明した。それは、命が尽きる1ヶ月以内に瞳孔が髪の色と同じピンク色になっていく、ということだった。症例があまりにも少ないことで信憑性が極端に少なかったようだけれど、日本に住む桜命症の研究をしている学者がそのような論文を出したということを優子さんから聞いた。優子さんがどこからその情報を聞いたのかは分からないけれど、優子さんからその情報を聞いた時点で彼女の瞳孔はピンクになりかけている灰色のような色になっていた。明らかに今までとは違う色になっていたその目を見て、僕もチハルさんもその時が来たかと覚悟を決めた。この映像は、覚悟を決めた彼女が最期に残したいと言ったビデオだ。映像は驚くほど綺麗に残っていて、彼女の瞳孔がほんのり赤みがかったピンク色に見えている。

 『5日前にさ、優子さんから聞いた話。本当だったら、私の命は持ってあと1ヶ月です。まぁ我ながらよく生きた方だと思ってる。世界で最も長く生きた桜命症患者として半年前にギネス記録を受賞したんだからね。長生きはするもんだ。私自身も34歳まで生きられるとは思ってもなかったです。だから、もうすぐ死ぬって言われてる今も、これと言って体の状態も何も悪くないから実感が何もありません。なんならこのピンク色の目も結構綺麗でしょ?』

ふふふと笑う彼女の顔。10年振りに彼女の笑顔を見た僕だけれど、この時の笑顔は明らかに無理をしている。優しく温もりのある笑顔とは違い、死ぬことに恐怖している表情にしか見えない。長年一緒にいるだけあって、彼女の心の中は手にとるように分かってしまう。

 『今日だってリッカと一緒に笑って、カケルくんと一緒にカレーを作ったのにさ。明日も明後日も、その次の日も2人と一緒にいるつもりなのにさ。そういえば8月の終わりにハルカとダイキくんと、私たちで花火大会に行く予定もしてたのにね。残念だなぁ』

彼女は不意に顔を上に上げた。涙を流さないように慌てて上を向いたように見えた。それに声も少し震え出した。こんなのが耐えられるわけがない。僕の目から涙が溢れ出したのを僕は諦めて映像を見つめた。というよりも、この涙を拭きたくはなかった。上手く説明は出来ないけれど、この感情で涙が出ていることによって僕らの側に彼女が近くにやってきてくれたような気さえした。

 『もし私がそっちの画面越しで生きているのなら、10歳になったリッカとカケルくんとダイキくん、ハルカと20歳になったチナツちゃんとで花火大会に行けているといいな。ふふ、そうなったら私は44歳。すっかりオバさんだ。ま、カケルくんもオジさんだけどね。イケオジになったカケルくんも見てみたいし、大きくなったリッカも見てみたい。抱きしめてみたい。やりたいこといっぱいなんだよね』

 「父さん……私、母さんに会いたい」
 「あぁ、おれもだよ」

いつもの元気なリッカの声ではなく、とてもか弱く細い声が僕の耳に届く。その声はまるであの頃の、僕のプロポーズを断った時のチハルさんの声に似ていた。僕の鼻からは鼻水が流れ出した。僕は躊躇わず全てを受け止める覚悟で画面を見つめる。

 『まぁそれでも終わりが来る可能性の方が高いだろうから、私はカケルくんとリッカに言葉を遺そうと思います!』

そう言ったチハルさんの表情は突然明るく変わり、リッカのように歯をむき出しにして笑顔になった。

 『まずはカケルくんから!』

僕の名前を呼ぶ彼女と画面越しに目が合った。約10年ぶりに彼女と目が合うと、話しかけられていないのに照れくさくなって目線を右上に逸らした。

 『今、画面越しで私と目が合って照れて目線を逸らしたでしょ?』

僕はもう、なんか色々とこの人には敵わない。いつだってそう思う。今もそう思った。

 『ふふ。そんなカケルくんはずっと前から私の命です。キミと一緒にいることを決めた時から、キミと1秒でも長く同じ時間を共に過ごすことに決めました。楽しい時や面白い時はもちろん、しんどかったり辛い時間も全ての時間を過ごしました。現に、今日も、今もキミと一緒の家で寝ています。最近、イビキをかくキミを見ていると、キミも歳をとったなぁと微笑ましい気持ちになります。知ってた? キミ、一緒に寝た時、びっくりするぐらい静かに寝てたんだよ。歯軋りもなければ、それこそイビキもかかないし寝言も言わない。スースー聞こえる鼻息だけしか聞こえなかったんだよ』

初耳だった。彼女しか知らない僕がそこにはいたんだ。僕はその事実がたまらなく嬉しく思えて、画面越しの彼女の世界にいてイビキをかいて寝ているらしい僕をとても羨ましく思えた。

 『もしね、私がこんな病気を持っていなくて、これから先も何十年と一緒に過ごせていけたらどれだけ幸せなんだろうなって私は何回も考えた。世界のどこかにはこの病気の治し方を知っている人がいるかもしれないって思って本気で調べた。キミといられる時間が1秒でも長くなればって思ってた。でも現実は甘くないことを知った。私がどれほど足掻いても、どれだけ努力をしてもこの命に終わりは来る。それだけはどうしても避けられなかった。現に目の色も変わってきたし。私自身は案外、この色気に入ってるんだけどね。髪の毛とも色が合ってるでしょ?』

胸元まで伸びているピンク色の長い髪を両手で掴んだ彼女は、それを胸の前で交差させてえへへと笑っている。元々髪の毛の長い彼女だったけれど、この映像の時の彼女は一段と髪の毛が長く見えた。それでも、手入れされているその髪の毛は相変わらず美しくて本当に人間離れしているようだった。ただ、そんな髪の毛よりも彼女の笑顔は圧倒的に人間離れした可愛さがあった。

 「父さん、ニヤニヤしすきだよ!」
 「え? あ、あぁ、ちょっと見惚れてしまってさ……!」

画面に集中しすきていたのか、リッカが僕の方を振り向いているのに全く気づかなかった。そんな僕を見てリッカもしししと笑った。

 『だから私はね、この世からいなくなってカケルくんやリッカの元からいなくなってもキミたちの近くに居られるように神様にお願いしてるんだ。これだけ辛い試練を乗り越えて旅立ったのなら私の願いも聞いてくださいってね。カケルくんもリッカも、私がいなくなってもずうっとキミたちの側にいることを忘れないで。心はずっと繋がっているから。悲しくても泣いてばっかりいちゃダメだよ。私も頑張るからさ』

映像に映る一番辛いはずの本人は、いつの間にか顔から涙は消えていて、まるで桜がそこに咲いたのかと思えるほど優しい笑顔に変わっていた。僕は彼女につられて口角が上がった。

 『次はリッカ! あなたには伝えたいことがありすぎるので本当に言いたいことを3つだけ伝えます。まずは1つ目』

人差し指を立てて僕らを見ている彼女を、リッカも負けじとじっと見つめている。
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