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夜刀編『蛇神の御子と誓いの剣』
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都から北西に山を五つほど越えた山間に、ヤマタノオロチを神と崇める村がひっそりと存在していた。
ヤマタノオロチは八つの頭を持つ山のように大きな蛇で、生贄を要求する恐ろしい神であったが、一方で、山や川を司る農耕の守り神でもあった。
ヤマタノオロチそのものは、ずいぶん昔にスサノオという神によって退治されてしまったのだが、その際に砕け散った、神の力の源である「神核」の欠片が、オロチを崇めるいくつかの村に落ちた。
そのうちの一つが、この村だった。
以降、この村を治める一族の長は代々、この欠片を身に宿す資格を持つ者が継ぐ習わしとなった。
族長に選ばれたものは神の依代たる「オロチ様」としてこの地を治めるのだ。
今代で族長候補に挙がったのは、夜刀という青年だった。
彼は、その右目にヤトノカミという蛇神の神核を宿して生まれた、神の転生体だった。
ヤトノカミはそもそもヤマタノオロチの眷属。
彼が生まれたとき、人々は、彼こそが次期族長に相応しい、これで村も安泰だと、その誕生を心から喜んだ。
夜刀は見た目も美しかった。
漆黒の髪と白磁のような肌。
神核の宿った右目は紅に染まり、神聖な輝きを放っていた。
その姿も相まって、夜刀は「蛇神の御子」として大切に育てられた。
そして、物心ついた頃には、彼も自然と自分を特別な存在だと思うようになった。
その傲慢さが、やがて大きな悲劇を引き起こすことになるとも知らずに──。
***
その日、村は朝から異様な高揚感に包まれていた。
現族長の霊力が衰え始め、ついに、新たな族長を選出するための神聖な儀式が行われることになったのだ。
族長は、神の依代とも言える存在だ。
粗相があってはいけない。
村人たちは、数日前から総出で村中を清めて廻り、氏神であるヤマタノオロチを祀る神社を綺麗に飾りつけた。
山のようなご馳走に、八塩折の酒という特別な酒も用意された。
日が地平線に沈めば、儀式開始の合図。
その時を、村人は今か今かと待ちわびていた。
そんな村人の様子を、夜刀はどこか冷めた眼差しで見つめていた。
齢は二十三を数え、今や彼は、剣術で鍛えた逞しい体と精悍で端正な面差しを持つ立派な青年になっていた。
美丈夫と呼ぶに相応しいその姿に、儀式用の白装束がよく映えている。
「夜刀様、なんて麗しいのかしら!」
「きゃあ! こっちをご覧になったわ!」
のどかな田園風景の中、村娘たちが黄色い声を上げるのを横目に見て、夜刀はあくびをかみ殺した。
代り映えのしない反応に、何の変哲もない景色。
生まれながらの特別扱いは都合よくもあったが、ひどく窮屈でもあった。
立場から対等な友人もできず、常に孤独だった。
夜刀はこの生活に、心底嫌気がさしていた。
特別な自分がオロチ様を継承し、族長となるのを当然と思う一方で、それを厭う自分が居る。
オロチ様になれば何か変わるのだろうか。
いや、今のオロチ様を見る限り、何も変わらないのだろう。
より重い責任を負わされ、古い慣習に縛られて、つまらない生涯を終えるのだ。
村を捨ててしまおうかと思ったこともあった。
だが、外に出れば、自由を得る代わりに苦労も多くなる。
この特別待遇に慣れてしまった自分には、きっと耐えられない。
文句を言いながらも、結局はこの環境に甘んじたまま、そこから抜け出す気概もないのだ。
諦めと共に、夜刀は深いため息をこぼした。
「どうせ、俺が選ばれるんだ。儀式なんて適当でいいのに。一日がかりなど面倒な……」
族長候補には、一族からもう一人、夜刀の異母兄弟が選ばれていた。
しかし、それはあくまでも選出の儀式の体裁を保つため。
「蛇神の御子」である夜刀が選ばれることは、もう決まったようなものだった。
「そう申すな、夜刀。これはお前が神の加護を受けるための大事な儀式なのだ」
「そうですよ。権威付けの意味でも、神聖な儀式は必要なの」
両親に窘められ、夜刀は顔を歪めながらぶっきらぼうに答えた。
「……わかっているさ。務めはきちんと果たす。ただ、宴会は早々に退出するよ」
夜刀が村人との交流を嫌っていることを知っている両親は、渋々これを認めた。
正直なところ、夜刀は神の加護を感じたことなどほとんど無かった。
村中で神を熱心に崇めても、不作の時はあったし、そのたびに若い娘が生贄に捧げられるのも、気分の良いものではなかった。
(ヤマタノオロチ様、か……)
右目に刻まれたヤトノカミの記憶に、眷属だった頃の記憶はほとんど残っていない。
恐らく、その程度の忠誠心だったのだろう。
それもあってか、夜刀は族長候補でありながら、信仰心が薄かった。
すでにひとつ神核を持ち、不本意ながらも特別な人間として好待遇を受けている。
ヤマタノオロチの神核の欠片の継承は、夜刀にとっては名誉でも何でもなかった。
単なる力の底上げのようなものでしかなかったし、より強固に自分を縛り付ける鎖ですらあった。
(悪として退治されたヤマタノオロチの、それもただの欠片に、どれだけの力があるっていうんだ)
バチが当たりそうなことを考えながら物思いにふけっていると、父親が思い出したように話し出した。
「それにしても、お前の晴れ舞台だというのに、天叢雲剣を奉納できないのが口惜しいな」
「そうねえ。鍛冶師たちが複製に失敗するなんて……」
ヤマタノオロチの尻尾から出てきたという神剣──天叢雲剣。
荒神スサノオが持ち去ったそれを、夜刀の一族は盗み出した。
より強い加護を得るため、本物をヤマタノオロチの御霊に献上する一方で、複製を族長の守り刀にしようと企てたのだ。
神剣の複製という禁忌に、年老いた鍛冶師たちは猛反対した。
しかし、若い鍛冶師たちが反対を押し切って複製に挑んだ結果、神力の暴走により鍛冶師の里は壊滅的な被害を受けてしまった。
その中には夜刀の唯一の友人も混じっており、重傷を負って生死の境をさ迷っているという。
それもまた、夜刀の心を憂鬱にさせていた。
(まったく、人の欲には限りがない……)
再びため息をついたとき、ふっと太陽の光が消えた。
澄んだ鈴の音が鳴り響き、儀式の始まりを告げる。
「仕方ない、これも運命だ」
夜刀は覚悟を決め、儀式の間へ向かった。
***
外の異様な興奮と熱気から隔絶されたように、儀式の間は神聖な静寂に包まれていた。
白木で作られた社殿は、それだけで、一切の穢れを許さぬ清廉さを漂わせている。
その最奥にある祭壇の中央には大きな丸い鏡が据えられており、左右には神に捧げるご馳走が並ぶ。
床には八つの酒樽が、左右四つずつに分けられて、横一列にきれいに並べて置かれていた。
祭壇の前にはオロチ様が御神体のごとく鎮座しており、その脇に、神社の責任者であり、儀式を進行する宮司が威厳を漂わせて佇んでいる。
左右の壁際には神職の者たちと、音楽を奏でる雅楽師たちが厳かな顔つきで控え、儀式の始まりを静かに待っていた。
後方には、夜刀の一族の他、村の代表が数名、儀式の見届け役として参列している。
彼らもまた一様に緊張した面持ちで、固唾を呑んで儀式の行く末を見守っていた。
その中を、夜刀ともう一人の候補者が静かに歩み出る。
祭壇の前で止まり、頭を垂れると、それを合図に笙の音が鳴り響いた。
雅楽の調べが室内を満たし、人々の高揚感を否応なく高めていく。
宮司により祝詞が奏上され、次いで夜刀たちの剣舞の奉納が始まった。
夜刀の美しい舞姿に、その場に居合わせた人々は息を呑んだ。
黒髪をなびかせ、白装束の裾を翻しながら剣を振るうたび、刃先から銀光が閃く。
力強くも優雅な足運びに、緩急をつけたキレのある動き。
激しい動きにも関わらず、息一つ乱れていない。
端正な表情を一切崩すことなく、夜刀は一心不乱に舞った。
もう一人の候補者も相当な実力者だったが、彼の役目は夜刀の舞を邪魔しないようにすることだった。
感嘆の声を上げることすら忘れ、人々はその舞に魅了された。
これからは、この御方が我らを守り、導いてくださるんだ──。
そう信じて疑わず、ある者は感涙に声を詰まらせ、ある者は神々しいその姿を無言で拝んだ。
静かな興奮の中、滞りなく舞を終えた夜刀は、一瞬人々を見やったが、その瞳には何の感情も映っていなかった。
儀式はいよいよ「継承の儀」へと移った。
オロチ様が祭壇の前から夜刀たちの前に歩み出て、自分の胸のあたりに両手をかざす。
すると、そこから赤い光が放たれ、掌に紅色の小さな石が現われた。
八つに砕けた神核の欠片のひとつであり、この神社の御神体だ。
それは光を放ちながらオロチ様の掌を離れ、ゆっくりと浮遊しながら、夜刀たちの周囲を旋回する。
何度も何度も、候補者の二人の前を行ったり来たりしては、また旋回する。
依代を決めかねているようなその様子に、人々は首をかしげた。
今まで欠片は、迷うことなく依代を選んできた。
神社に伝わる文献を見る限り、このようなことは初めてだった。
(何が起こっているんだ?)
さすがの夜刀も戸惑いを隠せなかった。
人々の間に不安が広がっていく。
その時、ようやく欠片が夜刀の前で止まり、その胸に吸い込まれていった。
その途端、夜刀の髪が銀色に変化し、黒かった左目も紅に染まった。
右目にヤトノカミ、左目にヤマタノオロチを宿す、前代未聞のオロチ様の誕生に、人々は一転して沸きに沸いた。
「新たなオロチ様の誕生じゃ!」
「オロチ様! 夜刀様!」
「なんと神々しい!」
そこかしこで歓声が上がり、人々の顔に笑顔が戻った。
(まったく、冷や冷やさせてくれる……)
夜刀は胸を撫で下ろした。
望んだ役目ではないが、自分の代で何か障りがあるのも困る。
ほうと安堵の息を漏らしたその時、夜刀の体に突如異変が起きた。
「ぐっ……」
体の中で、何かが暴れ回っているような感覚。
体がブルブルと震え、額から冷や汗が滴り落ちる。
(こ、これは、まさか……ヤトノカミの神核が、ヤマタノオロチを拒絶しているのか?)
ヤトノカミがヤマタノオロチの眷属になったのは、明らかに力の差があったから。
決して、納得して下ったわけではない。
それを思い出し、夜刀の血の気が引いていく。
今、ヤトノカミの神核は完全な状態であり、一方のヤマタノオロチの神核は欠片の状態だ。
その所為で、夜刀の中で覇権争いが起きているのだ。
このまま力を制御できなければ、暴走して大惨事になることは目に見えている──。
何とか力を押さえようとするが、荒れ狂う力に翻弄されるばかりだった。
助けを求めて声を上げようにも、息が詰まってハクハクと細い息が漏れるだけ。
その異変に、すぐ隣に居た候補者がいち早く気付き、慌てて叫び声を上げた。
「や、夜刀様!?」
その声に、歓喜に沸いていた人々が一斉に振り返る。
「これは、どうしたことじゃ!?」
「夜刀様、いかがなさった!?」
人々は慌てふためき、夜刀に駆け寄ろうとした。
しかし、その時だった。
夜刀の体から赤い閃光が迸り、社殿を吹き飛ばしながら真っ白な大蛇が姿を現した。
社殿に居た人々は瓦礫の下敷きとなり、境内に集まった村人は恐怖に包まれた。
「これは、どうなっているんだ!?」
「だ、大蛇が!」
みなが混乱する中、誰かが言い出した。
「これはもしや、ヤマタノオロチ様の眷属やもしれぬ」
もともとヤマタノオロチを信仰する人々にとって、蛇は神の化身。
村人は恐怖に震えながらも、その場に跪き、大蛇に祈りを捧げた。
だが、祈りも空しく、大蛇はしめ縄のように太い尻尾で、村人ごと地面を薙ぎ払った。
血のように赤く染まった両目で辺りを睨み、先の割れた舌をチラつかせながら威嚇音を響かせる。
なす術もなく逃げ惑う人を咥えては空に放り投げ、地面に叩きつけた。
老若男女構わず片っ端から襲い掛かり、家々を壊し、田畑を荒した。
「神よ、なぜ……」
やがて、最後の村人の目から光が消えた。
この日、永きに渡りヤマタノオロチを信仰してきた村は、一夜にして滅んだ。
皮肉にも、信じてきた神の眷属によって──。
***
大蛇の怒りはそれでも収まらず、周囲の山や川を破壊し、周辺の村にも甚大な被害をもたらした。
困り果てた人々は、都で「稀代の陰陽師」と名高い、安部清旺に助けを求めた。
陰陽師は妖魔を始めとした怪異退治の専門家。
しかも、清旺はつい最近、この現世で暴れ回っていた荒神スサノオを封印したという。
神をも制するその力。
彼ならきっと何とかしてくれる。
人々は祈るような想いで、清旺に命運を委ねたのだった。
「なんと、これほどまでとは……」
依頼を受けて村にやって来た清旺は、その惨状に言葉を失った。
周辺の山は削られ、大規模な地震でも起きた後のように、山肌がむき出しになっている。
川は決壊し、田畑であったであろう場所は沼地のようになっていた。
村であった場所は瓦礫の散乱する廃墟と化し、生き物の気配もない。
鼻を突く腐臭は、被害にあった村人たちのものだろう。
ひとりひとり丁重に弔ってやりたいところだが、今は大蛇退治が先だ。
とりあえず怨霊化を防ぐため、応急措置として香を焚き、鎮魂の呪文を唱えた。
最後に静かに手を合わせていると、遠くから轟音が響いた。
「現れたか……」
清旺は音のする方を睨み、足早に歩き出した。
土埃を目印に進むと、目の前に山一つありそうな大蛇が現われた。
真っ白な体は神々しいが、漆黒の瘴気に包まれ、血のような赤い目で清旺を睨み据えている。
「……やはり、祟り神か」
清旺は頭を垂れ、慎重に語りかけた。
「……大蛇様、ワシは安部清旺と申す陰陽師にございます。何ゆえ、そのようにお怒りなさるか」
「……」
その問いかけを、大蛇に変化した夜刀は遠い意識の内でぼんやりと聞いていた。
夜刀は自分の身に起きていることも、自分が何をしているのかも、理解していなかった。
(怒りなど、ない。もはや、何も感じない)
「意思疎通はできぬか……ならば、封じるしかあるまい」
清旺が術を展開すると、数十枚の符が宙を舞い、光を放った。
符は夜刀を縛り付け、球体を形作るように囲んでいく。
体が圧縮されていく感覚に、夜刀は本能のままに暴れ出した。
大地が脈打ち、大気が震える。
祟り神と稀代の陰陽師の攻防は、半日近くに及んだ。
結局、根比べは経験の差で、清旺の勝利に終わった。
力尽きた夜刀の姿が、大蛇から人の姿へと戻っていく。
「なんと、元は人であったか……」
清旺は驚きつつも術を止めず、夜刀を封印球に封じ込めた。
「やれやれ、何とかなったか」
清旺は額に浮いた汗を拭うと、封印球を懐にしまい込んだ。
ふと衣を見ると、あちこち裂けて泥にまみれている。
「こりゃ、また、清耀にどやされるなあ……」
息子の小言を想像して盛大なため息をつくと、清旺は飄々とした足取りでその場を去った。
***
夜刀を封じた球は、幾重にも結界を張り巡らせた上で、いつでも監視できるように清旺の屋敷の床の間に置かれた。
暴走していた二つの力が鎮まるにつれ、夜刀は理性を取り戻していった。
同時に、自分が犯した罪の重さも認識し、恐怖と絶望に苛まれた。
転生体である以上、ヤトノカミの力を完全に制御できていると思い込んでいた。
ましてや、ヤマタノオロチの神核は欠片でしかない。
制御など容易いと、高を括っていた。
しかし、実際はどうだ。
欠片を取り込んだ時、それに反発するようにヤトノカミの力が暴走し、制御不能に陥った。
理性を失い、大蛇に変化し、村人を一人残らず虐殺した。
祟り神となって土地を荒し、近隣の村人の命をも脅かした。
(こんな大罪人、封じるなど生ぬるい。いっそ殺してくれ……!)
夜刀は封印球の中から清旺に訴えかけた。
しかし、清旺はその願いに応じなかった。
「人の心を取り戻したならば、頼みがある」
『頼み……?』
「新しい弟子ができてな。朔夜と言うんだが。ほれ、昨日ここに連れてきた……」
そう言われて、夜刀は記憶を辿った。
そういえば、幼子が居たような気がする。
「いつか式神となって、あの子を守ってやってくれないか」
『俺が、守る……? 祟り神の俺が?』
「力は使い方次第よ。過ちを心から悔いる気持ちがあるのなら、やり直せるだろうよ」
『……』
黙り込んだ夜刀に、清旺は続けて言った。
「ワシと息子があの子の成長を見守ってやれるのは、恐らく数年。長くても十年には届くまい」
『なぜだ?』
「卜占の結果だ」
『たかが占いだろう』
「ワシの占術はそうそう外れん。だからこそ、自分を占うことは避けてきたが……」
『その子の行く末が心配になったか?』
その問いに清旺は無言で頷いた。
「もしもの時は、あの子を頼む」
封印球に向かって頭を下げる清旺の姿は、端から見ればひどく奇妙に映っただろう。
しかし、その顔は真剣そのものだった。
夜刀はしばらく逡巡したが、その姿に思うところがあったのか、最後は『わかった』と静かに頷いた。
封印されていても、屋敷内であれば意識を飛ばして様子を窺うことはできる。
その力を使い、その日から夜刀は朔夜を観察するようになった。
両親を失い、この家の養子となった幼い少年は、少女と見紛うほどに可愛らしい風貌をしていたが、とても賢く真面目であった。
健気に修行に励み、兄弟子の清耀によく懐いていた。
(式神として仕える際は、彼を真似ればいい。きっと安心させてやれる)
夜刀は清耀の言動を学び始めた。
俺ではなく「私」。
丁寧で穏やかな語り口に、気品の漂う立ち居振る舞い。
そして優しげな笑顔。
さらには、料理まで覚えた。
すべては、いずれ来る日のために。
***
そんな風に過ごすうちに、数年が経っていた。
その日は朝から季節外れの雪が舞っていた。
封印球の中から不穏な気配を感じ、夜刀は屋敷内に意識を飛ばした。
どうやら、朔夜は遣いに出て、不在らしい。
夜刀はざわざわと落ち着かない気持ちで、朔夜の無事を祈った。
(無事であればいいのだが……)
そう思った瞬間、屋敷の結界が何者かに破られた感覚があった。
すかさず、清旺と清耀が臨戦態勢で庭に飛び出していく。
庭に瘴気が満ち、ギャアギャアと不快な鳴き声が聞こえてくる。
(これは、妖魔か!?)
どうやら妖魔の襲撃に遭っているらしい。
だが、清旺は稀代の陰陽師。
息子の清耀もかなりの実力者だ。
(きっと大丈夫だろう)
夜刀は何の心配もせず、清旺たちが戻るのを待った。
しかし、いつまで経っても妖魔の気配が消えない。
母屋に張られた結界のせいで、庭まで意識が届かず、状況が分からない。
封印された身では助けにも行けず、苛立ちが募った。
(清旺殿、無事ですか!? 私を封印から解いてください!)
思念を飛ばしたその時、夜刀の耳に清旺のかすれた声が響いた。
あの子を、頼む──。
同時に、二人の気配が弱くなっていくのを感じた。
(そんな……まさか!)
嫌な予感は的中し、この日、清旺と清耀は妖魔に殺され、帰らぬ人となった。
何も知らず、ひとり帰宅した朔夜は、惨状を目撃して泣き崩れた。
その慟哭が、夜刀の胸を抉った。
震えているであろう体を抱きしめてやりたかったが、封印された身ではそれすらも叶わない。
夜刀は人知れず唇を噛みしめた。
血が滲み、鉄の味が口の中に広がったが、朔夜の痛みを想えば、どうということはなかった。
一晩中泣き明かした後、朔夜はふらふらとした足取りで居間へやって来た。
それから、夜刀の前に力なく腰を下ろすと、おもむろに封印球に手をかざし、小さく呪文を唱え始めた。
『自分たちにもしものことがあれば、この球の封印を解き、式神とせよ──』
清旺の遺言に従い、朔夜は夜刀の封印を解こうとしているのだ。
しかし──。
夜刀は悩んだ。
未だ拭えぬ後悔が、夜刀に本来の力を発現させることを拒ませている。
正体を明かすことも、まだできそうにない。
そんな状態で、朔夜を守れるのか。
迷いを抱えたまま、封印が解かれる。
朔夜の目の前に、長い銀髪をなびかせた白装束の美青年が現われた。
閉じられた目がゆっくりと開き、深紅の双眸が朔夜を捉える。
「封印を、解いてしまわれたのですね……」
美しさに見惚れていた朔夜は、その声にはっとして慌てて名乗った。
「僕は、安部朔夜。陰陽師で、君を封印した師匠、安部清旺の、弟子で……」
清旺の名を口にした途端、再び涙が込み上げてきたのか、朔夜は言葉に詰まって俯いた。
その姿を、夜刀もまた辛そうに見つめていた。
あの二人の代わりなど、誰もなれない。
ましてや、罪人の自分になど──。
沈む気持ちのまま呟いた。
「……申し訳ございませんが、私では、きっと、お力になれません」
それを聞いて、朔夜が弾かれたように顔を上げた。
「どうか、このまま滅してください」
「なんで、そんなことを……?」
「……」
「……言いたくないなら、いいよ。でも、名前くらい教えてよ」
何か事情があるのだろうと察した朔夜は、詮索する代わりに、そう言って力なく微笑んだ。
愛する義父と義兄を殺され、ただ一人残された少年が気丈に振舞う姿は、ひどく痛々しく、同時に眩しく見えた。
夜刀は堪らず目を逸らした。
「……夜刀と、申します」
「夜刀か。なんかカッコいい名前だね」
どう反応していいかわからず、夜刀はただ黙って足元視線を落とした。
そんな夜刀の端正な横顔をじっと目を見つめ、朔夜は祈るように訴えた。
「ねえ、そんな悲しいこと言わないで。僕の家族になってよ、夜刀……」
泣きはらした目で縋るように見つめてくる朔夜に、夜刀の心が揺れた。
何年も見守るうちに、いつの間にか兄のような気持ちになっていた。
式神として仕えることは、清旺との約束を守ることであり、彼への恩返しでもある。
それに、朔夜を通じて人助けをすることで、少しは贖罪になるかもしれない。
しかし、それ以上に、純粋に朔夜の力になってやりたいという想いが、夜刀の中に芽生えていた。
家族を失った朔夜を、新たな家族として、支えていくこと。
それが朔夜の望みなら、己の迷いなど二の次だ。
「私で、よろしいのであれば。永遠にお仕えいたしましょう」
「……永遠にって、重くない? 嬉しいけどさ」
クスッと笑う朔夜に微笑み返し、夜刀は式神として朔夜を守ることを誓った。
それからの夜刀は、甲斐甲斐しく朔夜の世話を焼き、剣術の腕を生かして朔夜をよく助けた。
初めこそ、贖罪と庇護の気持ちが強かったが、朔夜の人柄に触れるうちに、その想いはやがて別の形へと昇華していくことになる。
「主、朝ですよ。起きてください」
「……ん、夜刀……もう少し、寝かせて……」
「仕方ないですね。あと少しだけですよ」
朝が弱い主に苦笑しつつ、今日も穏やかに朝が始まる。
いつか自分の過去と罪に向き合い、すべてを打ち明けなければならない。
(でも、今だけは。このまま穏やかな日々を……)
そんな想いを胸に、夜刀は朔夜の無防備な寝顔を優しく見守るのだった。
ヤマタノオロチは八つの頭を持つ山のように大きな蛇で、生贄を要求する恐ろしい神であったが、一方で、山や川を司る農耕の守り神でもあった。
ヤマタノオロチそのものは、ずいぶん昔にスサノオという神によって退治されてしまったのだが、その際に砕け散った、神の力の源である「神核」の欠片が、オロチを崇めるいくつかの村に落ちた。
そのうちの一つが、この村だった。
以降、この村を治める一族の長は代々、この欠片を身に宿す資格を持つ者が継ぐ習わしとなった。
族長に選ばれたものは神の依代たる「オロチ様」としてこの地を治めるのだ。
今代で族長候補に挙がったのは、夜刀という青年だった。
彼は、その右目にヤトノカミという蛇神の神核を宿して生まれた、神の転生体だった。
ヤトノカミはそもそもヤマタノオロチの眷属。
彼が生まれたとき、人々は、彼こそが次期族長に相応しい、これで村も安泰だと、その誕生を心から喜んだ。
夜刀は見た目も美しかった。
漆黒の髪と白磁のような肌。
神核の宿った右目は紅に染まり、神聖な輝きを放っていた。
その姿も相まって、夜刀は「蛇神の御子」として大切に育てられた。
そして、物心ついた頃には、彼も自然と自分を特別な存在だと思うようになった。
その傲慢さが、やがて大きな悲劇を引き起こすことになるとも知らずに──。
***
その日、村は朝から異様な高揚感に包まれていた。
現族長の霊力が衰え始め、ついに、新たな族長を選出するための神聖な儀式が行われることになったのだ。
族長は、神の依代とも言える存在だ。
粗相があってはいけない。
村人たちは、数日前から総出で村中を清めて廻り、氏神であるヤマタノオロチを祀る神社を綺麗に飾りつけた。
山のようなご馳走に、八塩折の酒という特別な酒も用意された。
日が地平線に沈めば、儀式開始の合図。
その時を、村人は今か今かと待ちわびていた。
そんな村人の様子を、夜刀はどこか冷めた眼差しで見つめていた。
齢は二十三を数え、今や彼は、剣術で鍛えた逞しい体と精悍で端正な面差しを持つ立派な青年になっていた。
美丈夫と呼ぶに相応しいその姿に、儀式用の白装束がよく映えている。
「夜刀様、なんて麗しいのかしら!」
「きゃあ! こっちをご覧になったわ!」
のどかな田園風景の中、村娘たちが黄色い声を上げるのを横目に見て、夜刀はあくびをかみ殺した。
代り映えのしない反応に、何の変哲もない景色。
生まれながらの特別扱いは都合よくもあったが、ひどく窮屈でもあった。
立場から対等な友人もできず、常に孤独だった。
夜刀はこの生活に、心底嫌気がさしていた。
特別な自分がオロチ様を継承し、族長となるのを当然と思う一方で、それを厭う自分が居る。
オロチ様になれば何か変わるのだろうか。
いや、今のオロチ様を見る限り、何も変わらないのだろう。
より重い責任を負わされ、古い慣習に縛られて、つまらない生涯を終えるのだ。
村を捨ててしまおうかと思ったこともあった。
だが、外に出れば、自由を得る代わりに苦労も多くなる。
この特別待遇に慣れてしまった自分には、きっと耐えられない。
文句を言いながらも、結局はこの環境に甘んじたまま、そこから抜け出す気概もないのだ。
諦めと共に、夜刀は深いため息をこぼした。
「どうせ、俺が選ばれるんだ。儀式なんて適当でいいのに。一日がかりなど面倒な……」
族長候補には、一族からもう一人、夜刀の異母兄弟が選ばれていた。
しかし、それはあくまでも選出の儀式の体裁を保つため。
「蛇神の御子」である夜刀が選ばれることは、もう決まったようなものだった。
「そう申すな、夜刀。これはお前が神の加護を受けるための大事な儀式なのだ」
「そうですよ。権威付けの意味でも、神聖な儀式は必要なの」
両親に窘められ、夜刀は顔を歪めながらぶっきらぼうに答えた。
「……わかっているさ。務めはきちんと果たす。ただ、宴会は早々に退出するよ」
夜刀が村人との交流を嫌っていることを知っている両親は、渋々これを認めた。
正直なところ、夜刀は神の加護を感じたことなどほとんど無かった。
村中で神を熱心に崇めても、不作の時はあったし、そのたびに若い娘が生贄に捧げられるのも、気分の良いものではなかった。
(ヤマタノオロチ様、か……)
右目に刻まれたヤトノカミの記憶に、眷属だった頃の記憶はほとんど残っていない。
恐らく、その程度の忠誠心だったのだろう。
それもあってか、夜刀は族長候補でありながら、信仰心が薄かった。
すでにひとつ神核を持ち、不本意ながらも特別な人間として好待遇を受けている。
ヤマタノオロチの神核の欠片の継承は、夜刀にとっては名誉でも何でもなかった。
単なる力の底上げのようなものでしかなかったし、より強固に自分を縛り付ける鎖ですらあった。
(悪として退治されたヤマタノオロチの、それもただの欠片に、どれだけの力があるっていうんだ)
バチが当たりそうなことを考えながら物思いにふけっていると、父親が思い出したように話し出した。
「それにしても、お前の晴れ舞台だというのに、天叢雲剣を奉納できないのが口惜しいな」
「そうねえ。鍛冶師たちが複製に失敗するなんて……」
ヤマタノオロチの尻尾から出てきたという神剣──天叢雲剣。
荒神スサノオが持ち去ったそれを、夜刀の一族は盗み出した。
より強い加護を得るため、本物をヤマタノオロチの御霊に献上する一方で、複製を族長の守り刀にしようと企てたのだ。
神剣の複製という禁忌に、年老いた鍛冶師たちは猛反対した。
しかし、若い鍛冶師たちが反対を押し切って複製に挑んだ結果、神力の暴走により鍛冶師の里は壊滅的な被害を受けてしまった。
その中には夜刀の唯一の友人も混じっており、重傷を負って生死の境をさ迷っているという。
それもまた、夜刀の心を憂鬱にさせていた。
(まったく、人の欲には限りがない……)
再びため息をついたとき、ふっと太陽の光が消えた。
澄んだ鈴の音が鳴り響き、儀式の始まりを告げる。
「仕方ない、これも運命だ」
夜刀は覚悟を決め、儀式の間へ向かった。
***
外の異様な興奮と熱気から隔絶されたように、儀式の間は神聖な静寂に包まれていた。
白木で作られた社殿は、それだけで、一切の穢れを許さぬ清廉さを漂わせている。
その最奥にある祭壇の中央には大きな丸い鏡が据えられており、左右には神に捧げるご馳走が並ぶ。
床には八つの酒樽が、左右四つずつに分けられて、横一列にきれいに並べて置かれていた。
祭壇の前にはオロチ様が御神体のごとく鎮座しており、その脇に、神社の責任者であり、儀式を進行する宮司が威厳を漂わせて佇んでいる。
左右の壁際には神職の者たちと、音楽を奏でる雅楽師たちが厳かな顔つきで控え、儀式の始まりを静かに待っていた。
後方には、夜刀の一族の他、村の代表が数名、儀式の見届け役として参列している。
彼らもまた一様に緊張した面持ちで、固唾を呑んで儀式の行く末を見守っていた。
その中を、夜刀ともう一人の候補者が静かに歩み出る。
祭壇の前で止まり、頭を垂れると、それを合図に笙の音が鳴り響いた。
雅楽の調べが室内を満たし、人々の高揚感を否応なく高めていく。
宮司により祝詞が奏上され、次いで夜刀たちの剣舞の奉納が始まった。
夜刀の美しい舞姿に、その場に居合わせた人々は息を呑んだ。
黒髪をなびかせ、白装束の裾を翻しながら剣を振るうたび、刃先から銀光が閃く。
力強くも優雅な足運びに、緩急をつけたキレのある動き。
激しい動きにも関わらず、息一つ乱れていない。
端正な表情を一切崩すことなく、夜刀は一心不乱に舞った。
もう一人の候補者も相当な実力者だったが、彼の役目は夜刀の舞を邪魔しないようにすることだった。
感嘆の声を上げることすら忘れ、人々はその舞に魅了された。
これからは、この御方が我らを守り、導いてくださるんだ──。
そう信じて疑わず、ある者は感涙に声を詰まらせ、ある者は神々しいその姿を無言で拝んだ。
静かな興奮の中、滞りなく舞を終えた夜刀は、一瞬人々を見やったが、その瞳には何の感情も映っていなかった。
儀式はいよいよ「継承の儀」へと移った。
オロチ様が祭壇の前から夜刀たちの前に歩み出て、自分の胸のあたりに両手をかざす。
すると、そこから赤い光が放たれ、掌に紅色の小さな石が現われた。
八つに砕けた神核の欠片のひとつであり、この神社の御神体だ。
それは光を放ちながらオロチ様の掌を離れ、ゆっくりと浮遊しながら、夜刀たちの周囲を旋回する。
何度も何度も、候補者の二人の前を行ったり来たりしては、また旋回する。
依代を決めかねているようなその様子に、人々は首をかしげた。
今まで欠片は、迷うことなく依代を選んできた。
神社に伝わる文献を見る限り、このようなことは初めてだった。
(何が起こっているんだ?)
さすがの夜刀も戸惑いを隠せなかった。
人々の間に不安が広がっていく。
その時、ようやく欠片が夜刀の前で止まり、その胸に吸い込まれていった。
その途端、夜刀の髪が銀色に変化し、黒かった左目も紅に染まった。
右目にヤトノカミ、左目にヤマタノオロチを宿す、前代未聞のオロチ様の誕生に、人々は一転して沸きに沸いた。
「新たなオロチ様の誕生じゃ!」
「オロチ様! 夜刀様!」
「なんと神々しい!」
そこかしこで歓声が上がり、人々の顔に笑顔が戻った。
(まったく、冷や冷やさせてくれる……)
夜刀は胸を撫で下ろした。
望んだ役目ではないが、自分の代で何か障りがあるのも困る。
ほうと安堵の息を漏らしたその時、夜刀の体に突如異変が起きた。
「ぐっ……」
体の中で、何かが暴れ回っているような感覚。
体がブルブルと震え、額から冷や汗が滴り落ちる。
(こ、これは、まさか……ヤトノカミの神核が、ヤマタノオロチを拒絶しているのか?)
ヤトノカミがヤマタノオロチの眷属になったのは、明らかに力の差があったから。
決して、納得して下ったわけではない。
それを思い出し、夜刀の血の気が引いていく。
今、ヤトノカミの神核は完全な状態であり、一方のヤマタノオロチの神核は欠片の状態だ。
その所為で、夜刀の中で覇権争いが起きているのだ。
このまま力を制御できなければ、暴走して大惨事になることは目に見えている──。
何とか力を押さえようとするが、荒れ狂う力に翻弄されるばかりだった。
助けを求めて声を上げようにも、息が詰まってハクハクと細い息が漏れるだけ。
その異変に、すぐ隣に居た候補者がいち早く気付き、慌てて叫び声を上げた。
「や、夜刀様!?」
その声に、歓喜に沸いていた人々が一斉に振り返る。
「これは、どうしたことじゃ!?」
「夜刀様、いかがなさった!?」
人々は慌てふためき、夜刀に駆け寄ろうとした。
しかし、その時だった。
夜刀の体から赤い閃光が迸り、社殿を吹き飛ばしながら真っ白な大蛇が姿を現した。
社殿に居た人々は瓦礫の下敷きとなり、境内に集まった村人は恐怖に包まれた。
「これは、どうなっているんだ!?」
「だ、大蛇が!」
みなが混乱する中、誰かが言い出した。
「これはもしや、ヤマタノオロチ様の眷属やもしれぬ」
もともとヤマタノオロチを信仰する人々にとって、蛇は神の化身。
村人は恐怖に震えながらも、その場に跪き、大蛇に祈りを捧げた。
だが、祈りも空しく、大蛇はしめ縄のように太い尻尾で、村人ごと地面を薙ぎ払った。
血のように赤く染まった両目で辺りを睨み、先の割れた舌をチラつかせながら威嚇音を響かせる。
なす術もなく逃げ惑う人を咥えては空に放り投げ、地面に叩きつけた。
老若男女構わず片っ端から襲い掛かり、家々を壊し、田畑を荒した。
「神よ、なぜ……」
やがて、最後の村人の目から光が消えた。
この日、永きに渡りヤマタノオロチを信仰してきた村は、一夜にして滅んだ。
皮肉にも、信じてきた神の眷属によって──。
***
大蛇の怒りはそれでも収まらず、周囲の山や川を破壊し、周辺の村にも甚大な被害をもたらした。
困り果てた人々は、都で「稀代の陰陽師」と名高い、安部清旺に助けを求めた。
陰陽師は妖魔を始めとした怪異退治の専門家。
しかも、清旺はつい最近、この現世で暴れ回っていた荒神スサノオを封印したという。
神をも制するその力。
彼ならきっと何とかしてくれる。
人々は祈るような想いで、清旺に命運を委ねたのだった。
「なんと、これほどまでとは……」
依頼を受けて村にやって来た清旺は、その惨状に言葉を失った。
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村であった場所は瓦礫の散乱する廃墟と化し、生き物の気配もない。
鼻を突く腐臭は、被害にあった村人たちのものだろう。
ひとりひとり丁重に弔ってやりたいところだが、今は大蛇退治が先だ。
とりあえず怨霊化を防ぐため、応急措置として香を焚き、鎮魂の呪文を唱えた。
最後に静かに手を合わせていると、遠くから轟音が響いた。
「現れたか……」
清旺は音のする方を睨み、足早に歩き出した。
土埃を目印に進むと、目の前に山一つありそうな大蛇が現われた。
真っ白な体は神々しいが、漆黒の瘴気に包まれ、血のような赤い目で清旺を睨み据えている。
「……やはり、祟り神か」
清旺は頭を垂れ、慎重に語りかけた。
「……大蛇様、ワシは安部清旺と申す陰陽師にございます。何ゆえ、そのようにお怒りなさるか」
「……」
その問いかけを、大蛇に変化した夜刀は遠い意識の内でぼんやりと聞いていた。
夜刀は自分の身に起きていることも、自分が何をしているのかも、理解していなかった。
(怒りなど、ない。もはや、何も感じない)
「意思疎通はできぬか……ならば、封じるしかあるまい」
清旺が術を展開すると、数十枚の符が宙を舞い、光を放った。
符は夜刀を縛り付け、球体を形作るように囲んでいく。
体が圧縮されていく感覚に、夜刀は本能のままに暴れ出した。
大地が脈打ち、大気が震える。
祟り神と稀代の陰陽師の攻防は、半日近くに及んだ。
結局、根比べは経験の差で、清旺の勝利に終わった。
力尽きた夜刀の姿が、大蛇から人の姿へと戻っていく。
「なんと、元は人であったか……」
清旺は驚きつつも術を止めず、夜刀を封印球に封じ込めた。
「やれやれ、何とかなったか」
清旺は額に浮いた汗を拭うと、封印球を懐にしまい込んだ。
ふと衣を見ると、あちこち裂けて泥にまみれている。
「こりゃ、また、清耀にどやされるなあ……」
息子の小言を想像して盛大なため息をつくと、清旺は飄々とした足取りでその場を去った。
***
夜刀を封じた球は、幾重にも結界を張り巡らせた上で、いつでも監視できるように清旺の屋敷の床の間に置かれた。
暴走していた二つの力が鎮まるにつれ、夜刀は理性を取り戻していった。
同時に、自分が犯した罪の重さも認識し、恐怖と絶望に苛まれた。
転生体である以上、ヤトノカミの力を完全に制御できていると思い込んでいた。
ましてや、ヤマタノオロチの神核は欠片でしかない。
制御など容易いと、高を括っていた。
しかし、実際はどうだ。
欠片を取り込んだ時、それに反発するようにヤトノカミの力が暴走し、制御不能に陥った。
理性を失い、大蛇に変化し、村人を一人残らず虐殺した。
祟り神となって土地を荒し、近隣の村人の命をも脅かした。
(こんな大罪人、封じるなど生ぬるい。いっそ殺してくれ……!)
夜刀は封印球の中から清旺に訴えかけた。
しかし、清旺はその願いに応じなかった。
「人の心を取り戻したならば、頼みがある」
『頼み……?』
「新しい弟子ができてな。朔夜と言うんだが。ほれ、昨日ここに連れてきた……」
そう言われて、夜刀は記憶を辿った。
そういえば、幼子が居たような気がする。
「いつか式神となって、あの子を守ってやってくれないか」
『俺が、守る……? 祟り神の俺が?』
「力は使い方次第よ。過ちを心から悔いる気持ちがあるのなら、やり直せるだろうよ」
『……』
黙り込んだ夜刀に、清旺は続けて言った。
「ワシと息子があの子の成長を見守ってやれるのは、恐らく数年。長くても十年には届くまい」
『なぜだ?』
「卜占の結果だ」
『たかが占いだろう』
「ワシの占術はそうそう外れん。だからこそ、自分を占うことは避けてきたが……」
『その子の行く末が心配になったか?』
その問いに清旺は無言で頷いた。
「もしもの時は、あの子を頼む」
封印球に向かって頭を下げる清旺の姿は、端から見ればひどく奇妙に映っただろう。
しかし、その顔は真剣そのものだった。
夜刀はしばらく逡巡したが、その姿に思うところがあったのか、最後は『わかった』と静かに頷いた。
封印されていても、屋敷内であれば意識を飛ばして様子を窺うことはできる。
その力を使い、その日から夜刀は朔夜を観察するようになった。
両親を失い、この家の養子となった幼い少年は、少女と見紛うほどに可愛らしい風貌をしていたが、とても賢く真面目であった。
健気に修行に励み、兄弟子の清耀によく懐いていた。
(式神として仕える際は、彼を真似ればいい。きっと安心させてやれる)
夜刀は清耀の言動を学び始めた。
俺ではなく「私」。
丁寧で穏やかな語り口に、気品の漂う立ち居振る舞い。
そして優しげな笑顔。
さらには、料理まで覚えた。
すべては、いずれ来る日のために。
***
そんな風に過ごすうちに、数年が経っていた。
その日は朝から季節外れの雪が舞っていた。
封印球の中から不穏な気配を感じ、夜刀は屋敷内に意識を飛ばした。
どうやら、朔夜は遣いに出て、不在らしい。
夜刀はざわざわと落ち着かない気持ちで、朔夜の無事を祈った。
(無事であればいいのだが……)
そう思った瞬間、屋敷の結界が何者かに破られた感覚があった。
すかさず、清旺と清耀が臨戦態勢で庭に飛び出していく。
庭に瘴気が満ち、ギャアギャアと不快な鳴き声が聞こえてくる。
(これは、妖魔か!?)
どうやら妖魔の襲撃に遭っているらしい。
だが、清旺は稀代の陰陽師。
息子の清耀もかなりの実力者だ。
(きっと大丈夫だろう)
夜刀は何の心配もせず、清旺たちが戻るのを待った。
しかし、いつまで経っても妖魔の気配が消えない。
母屋に張られた結界のせいで、庭まで意識が届かず、状況が分からない。
封印された身では助けにも行けず、苛立ちが募った。
(清旺殿、無事ですか!? 私を封印から解いてください!)
思念を飛ばしたその時、夜刀の耳に清旺のかすれた声が響いた。
あの子を、頼む──。
同時に、二人の気配が弱くなっていくのを感じた。
(そんな……まさか!)
嫌な予感は的中し、この日、清旺と清耀は妖魔に殺され、帰らぬ人となった。
何も知らず、ひとり帰宅した朔夜は、惨状を目撃して泣き崩れた。
その慟哭が、夜刀の胸を抉った。
震えているであろう体を抱きしめてやりたかったが、封印された身ではそれすらも叶わない。
夜刀は人知れず唇を噛みしめた。
血が滲み、鉄の味が口の中に広がったが、朔夜の痛みを想えば、どうということはなかった。
一晩中泣き明かした後、朔夜はふらふらとした足取りで居間へやって来た。
それから、夜刀の前に力なく腰を下ろすと、おもむろに封印球に手をかざし、小さく呪文を唱え始めた。
『自分たちにもしものことがあれば、この球の封印を解き、式神とせよ──』
清旺の遺言に従い、朔夜は夜刀の封印を解こうとしているのだ。
しかし──。
夜刀は悩んだ。
未だ拭えぬ後悔が、夜刀に本来の力を発現させることを拒ませている。
正体を明かすことも、まだできそうにない。
そんな状態で、朔夜を守れるのか。
迷いを抱えたまま、封印が解かれる。
朔夜の目の前に、長い銀髪をなびかせた白装束の美青年が現われた。
閉じられた目がゆっくりと開き、深紅の双眸が朔夜を捉える。
「封印を、解いてしまわれたのですね……」
美しさに見惚れていた朔夜は、その声にはっとして慌てて名乗った。
「僕は、安部朔夜。陰陽師で、君を封印した師匠、安部清旺の、弟子で……」
清旺の名を口にした途端、再び涙が込み上げてきたのか、朔夜は言葉に詰まって俯いた。
その姿を、夜刀もまた辛そうに見つめていた。
あの二人の代わりなど、誰もなれない。
ましてや、罪人の自分になど──。
沈む気持ちのまま呟いた。
「……申し訳ございませんが、私では、きっと、お力になれません」
それを聞いて、朔夜が弾かれたように顔を上げた。
「どうか、このまま滅してください」
「なんで、そんなことを……?」
「……」
「……言いたくないなら、いいよ。でも、名前くらい教えてよ」
何か事情があるのだろうと察した朔夜は、詮索する代わりに、そう言って力なく微笑んだ。
愛する義父と義兄を殺され、ただ一人残された少年が気丈に振舞う姿は、ひどく痛々しく、同時に眩しく見えた。
夜刀は堪らず目を逸らした。
「……夜刀と、申します」
「夜刀か。なんかカッコいい名前だね」
どう反応していいかわからず、夜刀はただ黙って足元視線を落とした。
そんな夜刀の端正な横顔をじっと目を見つめ、朔夜は祈るように訴えた。
「ねえ、そんな悲しいこと言わないで。僕の家族になってよ、夜刀……」
泣きはらした目で縋るように見つめてくる朔夜に、夜刀の心が揺れた。
何年も見守るうちに、いつの間にか兄のような気持ちになっていた。
式神として仕えることは、清旺との約束を守ることであり、彼への恩返しでもある。
それに、朔夜を通じて人助けをすることで、少しは贖罪になるかもしれない。
しかし、それ以上に、純粋に朔夜の力になってやりたいという想いが、夜刀の中に芽生えていた。
家族を失った朔夜を、新たな家族として、支えていくこと。
それが朔夜の望みなら、己の迷いなど二の次だ。
「私で、よろしいのであれば。永遠にお仕えいたしましょう」
「……永遠にって、重くない? 嬉しいけどさ」
クスッと笑う朔夜に微笑み返し、夜刀は式神として朔夜を守ることを誓った。
それからの夜刀は、甲斐甲斐しく朔夜の世話を焼き、剣術の腕を生かして朔夜をよく助けた。
初めこそ、贖罪と庇護の気持ちが強かったが、朔夜の人柄に触れるうちに、その想いはやがて別の形へと昇華していくことになる。
「主、朝ですよ。起きてください」
「……ん、夜刀……もう少し、寝かせて……」
「仕方ないですね。あと少しだけですよ」
朝が弱い主に苦笑しつつ、今日も穏やかに朝が始まる。
いつか自分の過去と罪に向き合い、すべてを打ち明けなければならない。
(でも、今だけは。このまま穏やかな日々を……)
そんな想いを胸に、夜刀は朔夜の無防備な寝顔を優しく見守るのだった。
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