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橋の上
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冷たい風が吹いている。
街灯に照らされた橋の上に、男が一人立っていた。
彼が寄りかかる手すりは、酒に酔っていれば簡単に身を投げ出せてしまいそうな高さだ。だが、彼はそんなことを気にも留めていない。
「推し」になるはずだった女性が、ある日突然、自分の手の届く場所にいることに気づいてしまった。
その人は、アイドルでも芸能人でもない。ただの普通の女性だった。
どうして人は、ただの憧れだと思っていたものが、実は手に入ると知った瞬間、ここまで自分を、そして今ある幸せを見失ってしまうのだろう。
あの女性と過ごした、たった一晩の夜。
それが、これまで築き上げてきた幸せを、静かに否定し続けている。
⸻
橋の下に広がるのは、ただの暗闇だ。
そこに何かがあるわけではない。
それでも彼の目には、確かに「現世より意味のある何か」が映っていた。
自分の彼女の顔。「推し」の隣にいる、彼氏の姿。
自分は、勝手に自分の中で引いた線を、勝手に越えた気になっていただけなのかもしれない。
「推し」は、ただ笑っていただけだった。酒とタバコの勢いで、距離が縮まっただけだ。
今ごろ彼女は、何事もなかったかのように、彼氏と時間を共にしているのだろう。
思い出ですらない、ほんの一瞬。
だが、その一瞬は、罪悪感と、それを引き立たせる異様な高揚となって、確かに彼の脳を支配した。
あの日を境に、彼は変わった。
生きている世界も、それを見る目も、ひどく歪んでしまった。
「……飛んでしまおうか」
口に出してみると、ひどく軽い言葉に聞こえた。
飛んでしまったあとのこの世を勝手に想像して、センチメンタルな気分になる。
頬を伝う涙にも、どこかで辟易していた。
落ちる理由は、無数にあった。
彼女が不満を打ち明けるたび、改善しようとした。不安になった彼女を窘める役は、いつも自分だった。
それなのに、自分の不安は、論理で片付けられて終わる。
もう、うんざりだった。
それでも最後の一歩を踏み出せないまま、彼は橋の上に立ち尽くしている。
⸻
携帯が鳴った。
その音と同時に、思考とは別の光景が滲み出す。
さっきまでしていた喧嘩の理由は、本当になんでもないことだった。
バイトの帰りが遅くなることを連絡しなかったとか、
一日十時間も働くなんてあり得るのかとか。
浮気の話も、信頼の話も、一言も出なかった。
それでも彼女の態度には、はっきりとした棘があった。
いつもなら、反射的に「ごめん」と言って終わっていたはずだ。
ただ、その日は少し疲れていた。
それに、少なからず二人の幸せのために働いているという自負もあった。
それなのに、どうしてなんだろう。
「……なんなの?」
溢れるように言葉が漏れた。
言ってしまった直後に、やめておけばよかったと後悔する。
「は?」
彼女の空気が、一瞬で変わったのがわかった。
そこから先は、自分の言葉を訂正するために、残りの体力すべてを使った。
攻撃されるたびに、彼女を嫌いになった。
そして、あの一晩の出来事が、何度も頭をよぎった。
別れるべきだ。 頭ではわかっているのに、どうしてもできない。
何度繰り返しただろう。
「……ごめん」
「そもそも、信用されない原因作ったのそっちでしょ?」
「ごめんなさい」
謝ることしかできなかった。
それが、彼女の求めている答えなのだから。
別れたほうがいいと分かっている自分。
寂しさに耐えられない自分。
どちらも、ひどく嫌いだった。
気づくと、涙がこぼれていた。
「なんで被害者みたいな顔するの?
泣きたいの、こっちなんだけど」
その言葉で、もう自分は愛されていないのだと、はっきり突きつけられた。
彼は逃げ出した。
走って、彼女のいない場所へ。
そして今も、この橋の上で立ち尽くしている。
⸻
電話が鳴り止む。
少しして、また鳴る。それが三回ほど続いたあと、静かになった。
ポケットの中で、LINEの通知音が二度鳴る。
雪が舞い始めていた。
探しに外へ出ていたら危ないな。
でも――少しだけ、嬉しいな。
「……そんなわけないか」
ひとりで、そうつぶやいた。
街灯に照らされた橋の上に、男が一人立っていた。
彼が寄りかかる手すりは、酒に酔っていれば簡単に身を投げ出せてしまいそうな高さだ。だが、彼はそんなことを気にも留めていない。
「推し」になるはずだった女性が、ある日突然、自分の手の届く場所にいることに気づいてしまった。
その人は、アイドルでも芸能人でもない。ただの普通の女性だった。
どうして人は、ただの憧れだと思っていたものが、実は手に入ると知った瞬間、ここまで自分を、そして今ある幸せを見失ってしまうのだろう。
あの女性と過ごした、たった一晩の夜。
それが、これまで築き上げてきた幸せを、静かに否定し続けている。
⸻
橋の下に広がるのは、ただの暗闇だ。
そこに何かがあるわけではない。
それでも彼の目には、確かに「現世より意味のある何か」が映っていた。
自分の彼女の顔。「推し」の隣にいる、彼氏の姿。
自分は、勝手に自分の中で引いた線を、勝手に越えた気になっていただけなのかもしれない。
「推し」は、ただ笑っていただけだった。酒とタバコの勢いで、距離が縮まっただけだ。
今ごろ彼女は、何事もなかったかのように、彼氏と時間を共にしているのだろう。
思い出ですらない、ほんの一瞬。
だが、その一瞬は、罪悪感と、それを引き立たせる異様な高揚となって、確かに彼の脳を支配した。
あの日を境に、彼は変わった。
生きている世界も、それを見る目も、ひどく歪んでしまった。
「……飛んでしまおうか」
口に出してみると、ひどく軽い言葉に聞こえた。
飛んでしまったあとのこの世を勝手に想像して、センチメンタルな気分になる。
頬を伝う涙にも、どこかで辟易していた。
落ちる理由は、無数にあった。
彼女が不満を打ち明けるたび、改善しようとした。不安になった彼女を窘める役は、いつも自分だった。
それなのに、自分の不安は、論理で片付けられて終わる。
もう、うんざりだった。
それでも最後の一歩を踏み出せないまま、彼は橋の上に立ち尽くしている。
⸻
携帯が鳴った。
その音と同時に、思考とは別の光景が滲み出す。
さっきまでしていた喧嘩の理由は、本当になんでもないことだった。
バイトの帰りが遅くなることを連絡しなかったとか、
一日十時間も働くなんてあり得るのかとか。
浮気の話も、信頼の話も、一言も出なかった。
それでも彼女の態度には、はっきりとした棘があった。
いつもなら、反射的に「ごめん」と言って終わっていたはずだ。
ただ、その日は少し疲れていた。
それに、少なからず二人の幸せのために働いているという自負もあった。
それなのに、どうしてなんだろう。
「……なんなの?」
溢れるように言葉が漏れた。
言ってしまった直後に、やめておけばよかったと後悔する。
「は?」
彼女の空気が、一瞬で変わったのがわかった。
そこから先は、自分の言葉を訂正するために、残りの体力すべてを使った。
攻撃されるたびに、彼女を嫌いになった。
そして、あの一晩の出来事が、何度も頭をよぎった。
別れるべきだ。 頭ではわかっているのに、どうしてもできない。
何度繰り返しただろう。
「……ごめん」
「そもそも、信用されない原因作ったのそっちでしょ?」
「ごめんなさい」
謝ることしかできなかった。
それが、彼女の求めている答えなのだから。
別れたほうがいいと分かっている自分。
寂しさに耐えられない自分。
どちらも、ひどく嫌いだった。
気づくと、涙がこぼれていた。
「なんで被害者みたいな顔するの?
泣きたいの、こっちなんだけど」
その言葉で、もう自分は愛されていないのだと、はっきり突きつけられた。
彼は逃げ出した。
走って、彼女のいない場所へ。
そして今も、この橋の上で立ち尽くしている。
⸻
電話が鳴り止む。
少しして、また鳴る。それが三回ほど続いたあと、静かになった。
ポケットの中で、LINEの通知音が二度鳴る。
雪が舞い始めていた。
探しに外へ出ていたら危ないな。
でも――少しだけ、嬉しいな。
「……そんなわけないか」
ひとりで、そうつぶやいた。
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