3月19日

カワウソ

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3月19日

彼は結局、私を何も幸せにしなかった。

「信用してないのはお互い様でしょ?」
「大っ嫌い」
「もう出てけば?」

それが最後の喧嘩だった。

彼の亡骸を腕に抱えながら、数週間前の夜の記憶を辿っていた。あの喧嘩は、たった一日で仲直りした。だから、他に原因があるはずだった。彼の仲の良かった友達か、私が大嫌いだった彼の女友達か。けれど、そんなことを考えたところで彼は戻ってこない。無意味な回想に耽る自分にうんざりしながらも、どうしてもあの夜の記憶から逃れられなかった。

彼が死んだのは、3月19日から20日にかけての夜だった。練炭自殺。私たちが普段一緒に暮らしていた私名義のアパートの部屋ではなく、彼のアパートの一室で。

その日は特別な日でもなかった。大切な人が亡くなるときは雨が降るとか雪が降るとかいわれる。でも、その日は空は普通で、雨も降らなければ雪も降らなかった。ただひとつ違っていたのは、私がその日、実家に帰省していたことだった。

いつもどおりの暗黙のルール。お互いが実家に帰った時は、LINEの通話をつないだまま眠る。それが、あの夜も当たり前のように始まっていた。

「やっと明日会えるね」
「……そうだね。二週間ぶりだっけ」
「寂しくさせてごめんね」
「……うん。……いいよ」

やっと会えるのに、なんかおかしかった。

「大丈夫?元気ない?」
「ううん。大丈夫」

その「大丈夫」は全然大丈夫なようにはきこえなかった。彼はいつもそうだ。深く追求しないと本音を教えてくれない。でも、今日は疲れた。

「私、もう眠いから寝る」
少し突き放すように言った。

「わかった。ばいばい」
「おやすみ」
「……うん。おやすみ」

それが最後の会話だった。

私は彼がいなくなったことに対して、悲しみよりも先に、怒りに似た感情を抱いていた。彼という人間が存在しないことよりも、彼との生活がもう戻らないという現実のほうが許せなかった。そして、そんなふうに思ってしまう自分が、私は昔から大嫌いだった。

喧嘩をしたのは久しぶりだった。一年の交際の中で、半年ぶり。

成人式で彼が再会したという女友達の話を、映画を見ながら聞かされた。最初は軽い嫉妬だった。でも、だんだん胸のなかに違和感がうまれた。

——なんでそんなに楽しそうなの?

彼は、私には見せないような顔をしていた。それがたまらなくむかついた。

「その人ってどんな人なの?」
「男っぽいやつでさ。女友達とよく揉めるらしいんだよね。かわいそうって思う」
「ふーん。〇〇のこと、男として見てるかもよ?」
「ないない、あるわけないじゃん」

——は?なにそれ。

「なんでわかんの?相手の気持ちなんてわかんないでしょ?」
「いや、ないから。会ったこともないくせに文句つけないでくれる?」

何言ってんの。こいつは。

いつもならすぐ謝るくせに、その日は全然引かない。それほどまでにその女が大切にされていること、その事実に無性に腹が立った。

「なんでそんなに悪い方に考えるの?」
と、彼が聞いた。

私は一瞬、答えを迷った。

「……勘だよ。なんでそんな女の肩持つの?」
「は?何言ってんの?友達のこと悪く言われたら、そりゃ友達の味方するでしょ。なんでそんなに俺のこと信用してくれないの?」

怒りが、もう抑えられなかった。

私には信じられる友達なんていなかった。唯一信じた人に裏切られた過去があった。それを彼にも話したことがあった。知ってるはずなのに。

——やめよう。今は関係ない。

けれど、あの出来事を境に、彼は私に本音を言わなくなっていった。

あの出来事——
私が、唯一の友達だと思っていた幼なじみの男の子と、一度だけ体の関係を持ってしまった夜のこと。

彼と付き合うすこし前、うまくいかなくて、苦しかった時期だった。私の気持ちを言っても伝わらない気がしていた。それが寂しくて、何かを壊したくて、ただ誰かに受け入れてほしくて。酔った勢いだった。でも、そこに私の弱さが全部あった。

当時、その話を私は自慢げに打ち明けた。「私、モテるから。はやくしないと他の男もいるんだからね。」
あの当時は彼を自分のものにするのに必死だった。だから言い訳だらけ、嘘まみれで彼を脅した。

それ以来、彼は変わった。怒ることも、責めることもなくなって、ただただ「優しく」なった。でもその優しさは、どこか脆くて、寂しそうだった。
彼は、また捨てられることを恐れていたんだ。私に嫌われることが怖くて、本音を言えなくなったんだと思う。

——私がそうさせたんだ。

「信用してないのはお互い様でしょ?」
——違う、信用してるよ
「大っ嫌い」
——ちがう、大好きだよ
「もう出てけば?」
——やだ、行かないで

伝えた言葉のどれも、本心じゃなかった。

でも、私のその言葉が、彼の最後の夜を決めてしまったのかもしれない。




彼は、あの夜何を思っていたんだろう。

私は彼の気持ちを何も知らなかった。知ろうとすらしなかった。どんな顔で彼のアパートへ行き、どんな思いで眠りにつこうと思ったのか。いや、眠ろうなんて思わなかったのかもしれない。

通話を切ったあと、スマホをじっと見つめていたのかもしれない。私の冷たい声を思い出しながら、「やっぱり、もう少し話したいな」なんて思ってくれていたかもしれない。でも、それを口にできなくて、代わりに友達の誰かにLINEでも送ろうとした。でも、言葉が出てこなかった。

——もう誰にも邪魔されたくなかったのかな。

もしかしたら、どこかで最後のSOSを出していたのかな。
もしかしたら、もう全部決めていたのかな。

考えるたびに、胸が締め付けられる。
でも、もしそうなら......

「私が殺したようなもんじゃん」

彼の亡骸を見つめながらひとりで呟いた。

彼の部屋には、使い古されたオイルライターと、燃え残った炭があった。丁寧に目張りされた窓辺が、彼の几帳面な一面を感じさせた。でも、部屋は整頓されているとは言い難かった。

一方で、一緒に暮らしていた部屋は、とてもきれいに整頓されていた。彼は私の機嫌が悪いと、どれだけ疲れていても部屋を掃除して、洗濯物を干しておいてくれた。

なのに、一緒にいた部屋は彼の部屋とは思えないくらい、散らかっていた。

——もう帰らないって決めてたんだ。

私は彼の死を受け入れるより先に、その事実に傷ついた。

私は、彼にとって「戻る場所」じゃなかったんだ。
私は彼を迎える準備をしていたのに、彼は戻る気がなかった。

きっと、それが答えだった。

布団の隣、小さなローテーブルの上に、ノートが一冊置かれていた。彼の字は汚い。でも、そのノートには彼にしてはとても丁寧に文字が書かれていた。

「もう大丈夫だと思ってた。ちゃんと前に進めてるって、思いたかった。でも気づいたら、何も言えなくなってた。君を傷つけたくないって思えば思うほど、自分の気持ちを封じ込めてた。なにも成長してなかった。疲れた。もうがんばれない。でもやっぱり、〇〇のことは嫌いになれなかった。〇〇のこと、大好きでした。幸せになってください。」

私はそのノートを胸に抱えた。
ただ、じっと目を閉じて、声を殺して泣いた。

最後の夜、彼は私の「おやすみ」を聞いて、「……うん」と返した。

あの「うん」に、どんな気持ちが込められていたのか。

安心? 諦め? 感謝? 後悔?

もう、彼の口からそれを聞くことはできない。

でも、私は私の答えを見つけなければならない。
たとえ、それがどんなに苦しくても。

———

私は、彼の死に意味を見出そうとした。

何か理由があったはずだとか、私にできたことがあったはずだとか、後悔や自責の言葉を繰り返して、それで少しだけ安心しようとしていた。

でも、どれだけ考えても、彼が死んだ理由は彼にしかわからなかった。私が想像するどの理由も、私が「知りたいと思っていること」に過ぎなかった。

彼が何を抱えていたのか、本当は何がつらかったのか、私は最後まで気づけなかった。

だけど、あの夜、彼はひとりぼっちじゃなかった。通話の向こうに、私がいた。私は彼の声を聞いたし、彼も私の声を聞いた。ほんの一言だけだったけど、たしかにそこに存在していた。

それだけが、今の私を少しだけ救ってくれる。




四十九日が終わって、ようやく春が来た。

風があたたかくなって、日差しの色も変わった。道ばたの花は小さく咲いて、もうコートは必要なかった。

私は手を合わせるとき、彼の顔を思い浮かべるようになった。最初は、苦しそうな顔しか思い出せなかった。でも今は、ちょっと口角の上がった笑い顔が浮かぶ。

今日も墓前に立って、線香を立てながら彼の顔を思い出す。あの日から何度も見てきた空より、今日の空は少しだけ、やさしく見えた。

何気なくつぶやいた。

「まだ5月なのに、あっついね」

風がすっと吹いて、線香の煙が揺れた。

「真夏になったらどうなっちゃうんだろうね」

——そんなふうに彼が笑って言った気がして、思わず、少しだけ笑い返した。

涙はもう出なかった。ただ、少しだけ寂しくて、でも不思議とあたたかい気持ちだった。

彼の声は、もう届かないけれど。
彼の時間は、もう動かないけれど。

私の中に彼は確かに生きている。

それが今はたまらなく幸せだった。
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