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第22章 裏切りの帳簿 ― 資産差し押さえの罠
しおりを挟む夜更け。
二階堂商会の会計室だけが、まだ眠りに落ちていなかった。分厚い石壁に囲まれた室内には、魔力灯の白光が一つ。揺らぎのない光が、机いっぱいに積み上げられた帳簿の背表紙と、開かれた紙面の数字を冷やかに照らしている。金属製の羽ペンが走るたび、――しゃり、しゃり、と乾いた音が空間を切った。
――そこへ。
重いはずの扉が、叩き壊されるように開かれた。木が軋む音が、会計室の静寂を真っ二つに裂く。
「社長!」
飛び込んできた事務員は、肩で息をし、顔色を失っていた。声は裏返り、喉の奥で引きつっている。
「市の……徴税官が、来ています!」
一瞬の間。誰も言葉を挟まなかった。
「それも――正式な命令書を持って……」
言い切る前に、事務員は唾を飲み込む。
「……資産の差し押さえ命令です!」
その言葉が落ちた瞬間、会計室の空気が、音を立てずに凍りついた。
「差し押さえ……?」
ミナが椅子をきしませ、半歩だけ立ち上がった。反射的に吊り上がった眉に、怒気が滲む。
「ちょっと待ってよ、それ本気?
まだ税の支払い期限、来てないでしょ!」
帳簿の山を挟んだ向こうで、ガロウが低く唸った。
「冗談じゃねェ。俺たチ、滞納なんざ一度もしてねェ」
その声は荒れているが、理性は保たれている。感情ではなく、事実を盾にしている声だ。
――ぱら。
紙の音が、そこで止まった。帳簿をめくっていたリュシアの指が、紙面に伏せられたまま静止する。次の瞬間、氷を削るような鋭さで顔を上げた。
「……差し押さえを、市が単独で行使できるのは例外的状況のみです」
淡々とした声。だが、言葉一つ一つが刃のように研がれている。
「市議会の正式決議が存在しない限り、徴税官の裁量で踏み込める権限はありません。手続き上――明らかに不自然です」
冷気が、言葉として室内に広がった。
「つまり――」
ロイが、ごくりと喉を鳴らす。
「誰かが、裏から議会を動かした……?」
その問いに、即答はなかった。沈黙の中心で、漣司がゆっくりと腕を組む。積み上がった帳簿、揺れない魔力灯、張りつめた仲間たちの表情。すべてを一度、静かに見渡してから――低く、断定する。
「……ギルドだな」
視線が鋭く細まる。
「資金戦だけじゃ足りないと見たか。今度は市の権限を使って、こちらの足元を掬いにきた」
「政治にまで手を突っ込んできたってわけね」
ミナが歯を噛みしめる。怒りよりも、嫌悪が強い。
「ほんっと、やり口が汚い」
「だが――」
漣司は、そこで怯まなかった。
「――差し押さえは、数字で殴る戦争だ」
静かに帳簿の山へ視線を落とす。
「税も、資産評価も、手続きも――全部、紙と印と数字で組み立てられてる」
口角が、わずかに上がった。
「なら話は早い。数字で来るなら、こっちはもっと正確な数字を叩き返すだけだ」
指先が、帳簿の背を軽く叩く。その声音には、焦りはない。むしろ、次の一手を楽しむかのような冷えた光が宿っていた。
嵐は、もう扉の外まで来ている。
◇
それから数刻後。
夜と朝の境目、空がまだ灰色のうちに、倉庫街がざわりと波打った。石畳を打つ硬い足音。金属が擦れ合う乾いた響き。通りの奥から現れたのは、市の役人たちだった。
胸と肩を覆う簡易鎧は磨かれ、鈍い光を放っている。腰には警棒と封印具。隊列は崩れず、訓練された足並みで倉庫街の中心へと進んでくる。その先頭に立つ男が、高く布告状を掲げた。赤い市印が、朝霞の中でもはっきりと見える。
「――二階堂商会!」
張り上げられた声が、倉庫の壁に反響した。
「違法な資産隠匿の疑いあり!よって本日より、銀貨庫および一部倉庫を差し押さえる!」
布告状が風に揺れ、紙の音が命令そのもののように響く。
広場を満たしていた日常が、音を立てて崩れた。
「……資産隠匿?」
「本当なのか、あの商会が?」
荷運びの手が止まり、商人たちが顔を見合わせる。露店の主人は無意識に売上袋を抱き寄せ、御者は手綱を引いたまま動けなくなる。
「二階堂商会が潰れたら……手形は?」
「支払い、滞るんじゃ……」
不安は言葉となり、言葉は連なり、瞬く間に倉庫街を駆け巡った。
封印具が取り出され、役人が銀貨庫の扉へ向かう。金属が触れ合う乾いた音が、胸の奥を打つ。
誰もが理解していた。これは、ただの差し押さえではない。噂と疑念を先に流し、市民の信用ごと締め上げるやり方だ。倉庫街の空気は、朝霞よりも重く沈み込んでいった。
◇
漣司は前に進み出た。
「証拠はあるのか?」
役人は無言で一枚の帳簿を突き出した。そこには、商会の銀貨残高が水増しされ、実際には存在しない資産が記載されていた。
「……偽造ですね」
リュシアが即座に断じた。
「これは本物の帳簿を模倣した偽物。印章も筆跡も精巧ですが、数値の矛盾が大量に」
しかし、役人たちは耳を貸さなかった。
「我らは命令に従うだけだ。差し押さえは決定事項だ!」
その時、群衆の中から一人の男が現れた。商会の古参職員で、倉庫管理を任されていたはずの男――オルド。
「……社長、すまない。俺が……俺が帳簿を流した」
場が凍りつく。ロイが叫んだ。
「なにを言ってるんだ!
お前、村の麦の管理を一緒にしてたじゃないか!」
オルドは目を伏せ、苦々しい声を絞り出した。
「家族を人質に取られたんだ……。ギルドに逆らえば、妻も子も殺される。だから……」
群衆がざわめく。市民の目に動揺が広がった。
◇
ガロウが一歩踏み出し、斧を構えた。
「裏切り者は処刑だァ!信用を売ったヤツは許さねェ!」
「待て」
漣司が制した。
「彼を罰すれば、民は恐怖する。恐怖で縛る組織は脆い。俺たちは契約で結ばれた法人だ。……裏切りさえも、契約で処理する」
リュシアがうなずき、即座に羊皮紙を広げた。
「オルド。あなたは確かに裏切った。ですが、家族を人質にされた状況は強制契約です。本契約法では無効と扱われます」
オルドが驚いた顔を上げる。
「……無効?」
「そうだ」
漣司は静かに告げる。
「お前の行為は法的に無効だ。だから罰しない。だが、その代わり――家族は必ず取り戻す。ギルドの手からな」
群衆がざわめき、市民の目が再び二階堂商会に集まった。
「……本当に守ってくれるのか」
「裏切り者さえ救うのか……」
と市民たちがつぶやく声が聞こえたが、信用が崩れるどころか、逆に結束を強める結果となった。
◇
だが、役人たちはなおも動かなかった。
「しかし命令は命令。我らは差し押さえを実行せねばならぬ」
その瞬間、漣司は低く告げた。
「――ならば、公開裁判だ」
役人たちが動揺する。
「な、何だと?」
「市民の前で、この帳簿が本物かどうかを検証する。
公開の場で数字を突きつければ、偽造は暴かれる」
リュシアがすぐに応じる。
「すでに正規の帳簿は用意してあります。矛盾点を百箇所以上指摘できます」
ロイが拳を握った。
「俺が市民を集める! 庶民にこそ真実を見せつけてやる!」
◇
その夜。広場には数百人の市民が集まった。
舞台の上で、リュシアが冷徹に数字を突きつける。
「こちらが正規帳簿です。残高は銀貨二千百八枚。対して偽造帳簿では二千二百枚。わずか百枚の差ですが、この数字では利子計算が合いません」
市民の間にざわめきが走る。
「確かに……利子の数字が合わない!」
「こんな小細工を……」
役人たちは言葉を失い、群衆の非難の声が高まる。漣司は一歩前に出て、高らかに宣言した。
「見たか、市民たちよ!ギルドは数字すら偽造し、我らを陥れようとした!だが、数字は嘘をつかない!信用は我らの側にある!」
群衆が歓声を上げた。
「二階堂商会だ! 商会が真実を示した!」
差し押さえは無効となり、役人たちは撤退した。しかし、漣司はその場で静かに呟いた。
「これは序章にすぎない。ギルドはこれからも裏切りと謀略で攻めてくる。……だが、そのたびに俺たちは法人として契約で対抗する」
旗が夜風に揺れ、仲間たちの決意を照らした。会議室に戻ると、リュシアが冷ややかに告げた。
「社長。公開裁判で信用は守れました。しかしギルドの攻撃は今後も続きます。次は資産ではなく、さらに人心を狙ってくるでしょう」
ロイが拳を握り、真剣な声を上げる。
「では、庶民の声は俺がまとめます。社長が数字で戦うのなら――私は声で応えましょう」
漣司は一度、静かにうなずいた。
「いいだろう」
そして、低く呟く。
「孫子曰く、――衆を治むること、寡を治むるがごとし」
視線を上げ、仲間たちを見渡す。
「大勢を動かすのは、声を張ることじゃない。仕組みと筋道を一本、通してやることだ」
指先で、机の縁を軽く叩いた。
「理屈が見えれば、人は勝手に動く。その一本を示せば、百人でも千人でも、同じ方向に揃う」
わずかに口角が上がる。
「お前の声は、その原理を広げる役だ。十分すぎるほど、適任だろう」
短く言い切り、漣司は背を向けた。
次の戦いに備え、二階堂商会は――
静かに、だが確実に結束を強めていった。
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