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城と垢
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なにもかもが冷たい白。その上を穂積は歩いている。明日哥のスノーウェアの赤が映えていた。穂積の背中で明日哥は眠っている。高山病なのか低体温症なのかずっと明日哥は昏睡状態。暖は取れているだろうが、もう目を覚まさないかもしれない。遠目からは藍色のスノーウェアが赤色のスノーウェアを背負って運んでいる状況だ。
氷点下二十度。深刻なしもやけを起こした彼の手には最早感覚がなかった。ひと踏みひと踏み白い地面が深く沈む。睫毛すら凍るほどの寒さ。明日哥に二、三着着ているものと貼っていたカイロを譲った分、穂積は余計に寒さを感じていた。
誰もいない冬山。猛吹雪。昨日張ったテントは結局一夜城だった。自分の家に帰って風呂に入りたかったが「実家から逃げ出すようにここまできたというのになにを考えているのか」と我に帰って己を鼓舞した。
穂積と明日哥は中学時代からの同級生である。当時からずっと付き合い続けている。大学一年生のときに同じ登山部に入部した。いまは卒業旅行の真っ最中。穂積が登山がしたいと言い出したが、まさか何度も登った初心者向けの山で遭難するとは思ってはいなかった。
「なんでこんなことになったんだろうなぁ……」
穂積は自身が歪んだ性格であるという自覚があった。いつも明日哥を振り回してばかりで、自分と付き合ってくれていることに申し訳なさを感じていた。しかし今回このような目に遭ってしまい、そのような過去を振り返るうち、彼の気持ちはいま狂ってしまいそうなほどの罪悪感へと波及している。
「あーもう明日哥置いてっちゃおうかなー……」
穂積がひとり言をいうも、誰からも返事はない。
「実はさー……俺、明日哥に高校生のとき借りたゲームまだ返してないんだけど、あれ無くしちゃったんだよねー……」
返事がないことをわかっていても、穂積は、明日哥に語りかけることをやめられなかった。
たどたどしくも言わざるを得ないのは彼の自責の念。
「あと、中学の期末テストのときさぁ……」
そして彼が寂しさを感じていたからだ。
穂積は空腹だった。山に登ろうとする前、麓で買って食べたパンの味を思い出した。チャンピオンロードという、いかにも登山家向けの飲食店だった。焼きたてで、白くふっくらとしていて、うさぎの形をしていた。火傷するほど熱かったが、いいにおいがして、ほうばると口いっぱいに甘酸っぱいケチャップとチーズの味がひろがった。
明日哥が熱いパンを食べようとするのを見越した穂積が明日哥のコップの水をすべて飲み干しておくと、明日哥は思い切り舌を火傷していた。悪戯の代償に穂積は、さらにふたつ水なしで熱いパンを食べさせられた。
そのような賑々しい場面とは裏腹に、穂積は今朝からなにも食べていなかった。昨晩の風でテントが吹き飛ばされた際、食糧や道具が詰まったリュックが一緒に崖から落ちたのだ。なにもかも万全であったはずだが、最早生きて帰ることすら難しい。
ひょっとすると、明日哥を見放せば無事に帰ることができるかもしれない。携帯電話の電波は繋がらないが、道と方角はわかる。道のりは険しいが、一度麓まで全速力で駆け、助けを求めて明日哥のもとへ戻るということもできるかもしれない。
「サイテーだな俺」
しかし穂積は自分の命よりも明日哥の命を重要視していたため、そうすることは選びたくなかった。なにより、自分から言い出した登山でこのようなことになってしまい、明日哥に迷惑をかけ、自身のことを最低だと思っていた。
「……」
穂積は親に虐待されて育った。穂積の親は息子を天才に育てたかったが、その為には暴力を振るうことを厭わなかった。しかし結局、穂積は両親の求める天才になることはできなかった。
対して清水明日哥は本当に天才だ。小学生時代、神童と呼ばれた穂積であったが、明日哥の頭脳にはまるで追いつくことができなかった。いつも「二位、穂積楊」というテストの結果を家に持ち帰るのが怖かった。そしてそれを見た親にいつも殴られていた。両親への怖さのあまり明日哥へ嫌がらせをしたこともあった。
大学も卒業間近ないま、もう穂積が殴られることはないが、実家での立場は変わっていない。いまなお強すぎる責任感を押し付けられ、脅迫され、失敗を許されない。
親に求められるがままに上場企業への内定を取り、内定先での活躍を強制されている。親からの期待や、望まぬ未来から、彼はいつも逃げ出したかった。
穂積が登山をするようになったのは、そのような現実から逃避したい気持ちがあったからだ。自暴自棄な登山なので、ひとりなら帰ることができなくてもよかった。死にたいとすら思っていたかもしれない。
ただ、登山に興味のない明日哥を登山の道へ引き入れたのは穂積自身だ。明日哥はいつも穂積の無事を願っていた。だからこそ明日哥だけでも生き延びてほしいと強く望んでいた。
「ソリにくくり付けたら、明日哥滑っていってくれないかなー」
しかし虚栄心や強がりなのか、心ないひとり言をいってしまう。もちろんソリなどはないし、そのようなものがあればとっくに乗っている。
さらに休み休み二時間は歩いた。吹雪はまったくおさまる気配がない。穂積の身体は痛いくらいに冷えて、至るところ感覚がなかった。
木陰に入り風を凌ぐ。座ることすら苦痛なほど身体はかじかんでしまっていて、なんとか身体を折って尻もちをつくと、彼はポケットに入れておいたナイフで自らの手を切り、明日哥にその血を飲ませた。
昏睡状態の彼女に栄養を与える方法はこれしか思いつかなかった。先ほどから休むたびにこのようにしている。明日哥の火傷した舌のうえに指を乗せて無理やり飲み込ませた。
傷の痛みがしもやけでわからないし、血が出ている感触すら乏しいので、絞りだすように血を分けた。
その行為が明日哥の命を救うことにどれだけ貢献できることなのか、彼にはわからなかったが、仮に自己満足だとしてもよかった。なにもしないよりかは心境としてはマシだった。
命の駆け引きをしている現状、ひとつの選択ミスが命取りとなる。休憩をするタイミング、場所、時間帯、体力や食糧の使いどころ……今回の登山はどれを取っても最良であったとは思えない。
選択ミスを繰り返している。いつも頭を使うことは明日哥が率先してやってくれていたのだと思った。
選択ミスの後悔があるからだろうか、明日哥に血を飲ませているこの瞬間だけ、彼は救われるような気持ちだった。もっとも、ただのひとりよがりなのではないかとも思っていたが。
「ごめんな。綺麗な血じゃないかもしれない」
虚しくなって涙が出た。寒すぎてずっと泣いているが、いま流している涙は明日哥を想って流しているものだと実感できた。
嬉しいかどうかはわからないが、明日哥を助けなければならないと一層思うことはできた。
穂積は実験的に明日哥がいない未来について考えてみた。彼は仮に明日哥を置いて下山することがうまくいったなら、麓で逮捕されてしまうかもしれないと思っていた。明日哥を見殺しにして帰ることになるのだから。
明日哥が死んだとわかったならそれもいいかもしれない。後日、誰かが明日哥の亡骸を探しに来てくれるだろう。明日哥が死ねばすべて諦められる。生きる理由はなくなるが、逮捕されたって構わないし、明日哥を殺した業を背負うことになるなら、むしろ彼にとっては救いだった。
いずれにせよ、穂積は親に敷かれたレールで生きるしかないのだから、道を踏み外すことになるのであれば、それは望ましいことなのではないかと思っていた。
もちろん明日哥が死んでしまうのならそれは本意ではないが、既にそれほどまでに親に対する気持ちが限界で、徹底的に親を嫌悪していたから、そのような狂気に踏み出すことすら怖くなかった。
「明日哥……」
とはいえ、そのように思うのだから、やはり自分は明日哥が好きなのだろう。穂積はそう思考をまとめた。虐待の痛みや苦しみから救ってくれた明日哥のことがどうしても必要だったし、それであればそもそも登山の道に彼女を招いたことすら後悔しなくてはならない。
穂積は目にかかる髪をかきあげて、明日哥の唇にキスをした。考えてはみたものの、やはり明日哥のいない未来は嫌だったし、想像しているうちに気が付いた。どうやら彼ひとり生きて帰ったとしても、王様のように振る舞う穂積の両親の呪縛から解放されることはなさそうだ。
恐らく穂積の両親は、道を踏み外した穂積に救いの道を提示、それを強制し、そのうえで一層恩着せがましく付きまとってきて一生人を愛することすら許してくれないか、あるいは明日哥が死んだからと、自分たちにとって都合のいい人物を紹介してくるかのいずれかだろう。
穂積が明日哥を好きな理由など無視してそのような図式に到達する未来が見えた。
穂積の親はそのように極端に強いる親だ。いずれにしても死にたくなるほど嫌な未来が待ち受けていることが目に見える。
「明日哥……生きてくれ」
穂積は明日哥に甘えていた。もっと甘えていたかった。登山よりもなによりも、明日哥といることが穂積にとってはなによりの現実逃避で、むしろそれだけが現実だった。
穂積は、虐待されている自分のことを、他人事ではなく、まるで自分自身のことのように考えてくれる彼女が好きだった。
「あ」
そのように思っていると、ふとスマホの振動に気が付いた。
圏外ではなくなったようだ。
穂積は千切れそうなほどかじかむ指で、必死にスマホを操作した。
「……」
……十数分そうして、操作を終えたとき、安心したのか、急に穂積は動けなくなった。
彼の救難の届けに応じたヘリコプターの音を聞く間もなく、意識を失った。
明日哥が目を覚ますと、目の前には病院の天井が広がっていた。周囲はカーテンで仕切られている。点滴を打たれていた。最後の記憶は雪山で意識を失ったところで途絶えている。
病院のベッドは暖かく、どれだけ眠っていたのか、身体は寝汗まみれであった。いつの間にかパジャマを着ている。
「……?」
近くに手紙が置かれていた。明日哥の親の筆跡。どうやら彼女が目を覚ましたときに読むようにと置いてくれていたようだ。
それを読むと、自身が雪山で遭難し、ヘリコプターで救助されたことがわかった。もう登山はやめなさいとも書かれていたが、明日哥にとってはどうでもよかった。
スマホは椅子のうえに置かれていた。電源が切れていた。
振動とともに電源が点いて、通知が届いた。自分のことを心配する膨大な数のLINE。
「……え」
「……」
「……穂積くん……?」
怖くなって穂積のLINEを開く。
まだ未読だった、たった二件の通知。
二枚の画像。
一枚目は、山の麓、チャンピオンロードで食べた、うさぎのパンの写真。
二枚目は、むかし穂積に貸したゲームの購入履歴。明日哥の家に届くそうだ。
「……ゲーム、なくしてたんだ……」
「もう……とっくに本体のアカウント消しちゃったよ……」
ゲームは返って来るようだが、遊ぶ相手がいない。
カーテンを開く明日哥。
しかし病室には誰もいない。
舌の火傷が治った明日哥の口のなかには、血の味があった。その理由が彼女にはわからなかった。
氷点下二十度。深刻なしもやけを起こした彼の手には最早感覚がなかった。ひと踏みひと踏み白い地面が深く沈む。睫毛すら凍るほどの寒さ。明日哥に二、三着着ているものと貼っていたカイロを譲った分、穂積は余計に寒さを感じていた。
誰もいない冬山。猛吹雪。昨日張ったテントは結局一夜城だった。自分の家に帰って風呂に入りたかったが「実家から逃げ出すようにここまできたというのになにを考えているのか」と我に帰って己を鼓舞した。
穂積と明日哥は中学時代からの同級生である。当時からずっと付き合い続けている。大学一年生のときに同じ登山部に入部した。いまは卒業旅行の真っ最中。穂積が登山がしたいと言い出したが、まさか何度も登った初心者向けの山で遭難するとは思ってはいなかった。
「なんでこんなことになったんだろうなぁ……」
穂積は自身が歪んだ性格であるという自覚があった。いつも明日哥を振り回してばかりで、自分と付き合ってくれていることに申し訳なさを感じていた。しかし今回このような目に遭ってしまい、そのような過去を振り返るうち、彼の気持ちはいま狂ってしまいそうなほどの罪悪感へと波及している。
「あーもう明日哥置いてっちゃおうかなー……」
穂積がひとり言をいうも、誰からも返事はない。
「実はさー……俺、明日哥に高校生のとき借りたゲームまだ返してないんだけど、あれ無くしちゃったんだよねー……」
返事がないことをわかっていても、穂積は、明日哥に語りかけることをやめられなかった。
たどたどしくも言わざるを得ないのは彼の自責の念。
「あと、中学の期末テストのときさぁ……」
そして彼が寂しさを感じていたからだ。
穂積は空腹だった。山に登ろうとする前、麓で買って食べたパンの味を思い出した。チャンピオンロードという、いかにも登山家向けの飲食店だった。焼きたてで、白くふっくらとしていて、うさぎの形をしていた。火傷するほど熱かったが、いいにおいがして、ほうばると口いっぱいに甘酸っぱいケチャップとチーズの味がひろがった。
明日哥が熱いパンを食べようとするのを見越した穂積が明日哥のコップの水をすべて飲み干しておくと、明日哥は思い切り舌を火傷していた。悪戯の代償に穂積は、さらにふたつ水なしで熱いパンを食べさせられた。
そのような賑々しい場面とは裏腹に、穂積は今朝からなにも食べていなかった。昨晩の風でテントが吹き飛ばされた際、食糧や道具が詰まったリュックが一緒に崖から落ちたのだ。なにもかも万全であったはずだが、最早生きて帰ることすら難しい。
ひょっとすると、明日哥を見放せば無事に帰ることができるかもしれない。携帯電話の電波は繋がらないが、道と方角はわかる。道のりは険しいが、一度麓まで全速力で駆け、助けを求めて明日哥のもとへ戻るということもできるかもしれない。
「サイテーだな俺」
しかし穂積は自分の命よりも明日哥の命を重要視していたため、そうすることは選びたくなかった。なにより、自分から言い出した登山でこのようなことになってしまい、明日哥に迷惑をかけ、自身のことを最低だと思っていた。
「……」
穂積は親に虐待されて育った。穂積の親は息子を天才に育てたかったが、その為には暴力を振るうことを厭わなかった。しかし結局、穂積は両親の求める天才になることはできなかった。
対して清水明日哥は本当に天才だ。小学生時代、神童と呼ばれた穂積であったが、明日哥の頭脳にはまるで追いつくことができなかった。いつも「二位、穂積楊」というテストの結果を家に持ち帰るのが怖かった。そしてそれを見た親にいつも殴られていた。両親への怖さのあまり明日哥へ嫌がらせをしたこともあった。
大学も卒業間近ないま、もう穂積が殴られることはないが、実家での立場は変わっていない。いまなお強すぎる責任感を押し付けられ、脅迫され、失敗を許されない。
親に求められるがままに上場企業への内定を取り、内定先での活躍を強制されている。親からの期待や、望まぬ未来から、彼はいつも逃げ出したかった。
穂積が登山をするようになったのは、そのような現実から逃避したい気持ちがあったからだ。自暴自棄な登山なので、ひとりなら帰ることができなくてもよかった。死にたいとすら思っていたかもしれない。
ただ、登山に興味のない明日哥を登山の道へ引き入れたのは穂積自身だ。明日哥はいつも穂積の無事を願っていた。だからこそ明日哥だけでも生き延びてほしいと強く望んでいた。
「ソリにくくり付けたら、明日哥滑っていってくれないかなー」
しかし虚栄心や強がりなのか、心ないひとり言をいってしまう。もちろんソリなどはないし、そのようなものがあればとっくに乗っている。
さらに休み休み二時間は歩いた。吹雪はまったくおさまる気配がない。穂積の身体は痛いくらいに冷えて、至るところ感覚がなかった。
木陰に入り風を凌ぐ。座ることすら苦痛なほど身体はかじかんでしまっていて、なんとか身体を折って尻もちをつくと、彼はポケットに入れておいたナイフで自らの手を切り、明日哥にその血を飲ませた。
昏睡状態の彼女に栄養を与える方法はこれしか思いつかなかった。先ほどから休むたびにこのようにしている。明日哥の火傷した舌のうえに指を乗せて無理やり飲み込ませた。
傷の痛みがしもやけでわからないし、血が出ている感触すら乏しいので、絞りだすように血を分けた。
その行為が明日哥の命を救うことにどれだけ貢献できることなのか、彼にはわからなかったが、仮に自己満足だとしてもよかった。なにもしないよりかは心境としてはマシだった。
命の駆け引きをしている現状、ひとつの選択ミスが命取りとなる。休憩をするタイミング、場所、時間帯、体力や食糧の使いどころ……今回の登山はどれを取っても最良であったとは思えない。
選択ミスを繰り返している。いつも頭を使うことは明日哥が率先してやってくれていたのだと思った。
選択ミスの後悔があるからだろうか、明日哥に血を飲ませているこの瞬間だけ、彼は救われるような気持ちだった。もっとも、ただのひとりよがりなのではないかとも思っていたが。
「ごめんな。綺麗な血じゃないかもしれない」
虚しくなって涙が出た。寒すぎてずっと泣いているが、いま流している涙は明日哥を想って流しているものだと実感できた。
嬉しいかどうかはわからないが、明日哥を助けなければならないと一層思うことはできた。
穂積は実験的に明日哥がいない未来について考えてみた。彼は仮に明日哥を置いて下山することがうまくいったなら、麓で逮捕されてしまうかもしれないと思っていた。明日哥を見殺しにして帰ることになるのだから。
明日哥が死んだとわかったならそれもいいかもしれない。後日、誰かが明日哥の亡骸を探しに来てくれるだろう。明日哥が死ねばすべて諦められる。生きる理由はなくなるが、逮捕されたって構わないし、明日哥を殺した業を背負うことになるなら、むしろ彼にとっては救いだった。
いずれにせよ、穂積は親に敷かれたレールで生きるしかないのだから、道を踏み外すことになるのであれば、それは望ましいことなのではないかと思っていた。
もちろん明日哥が死んでしまうのならそれは本意ではないが、既にそれほどまでに親に対する気持ちが限界で、徹底的に親を嫌悪していたから、そのような狂気に踏み出すことすら怖くなかった。
「明日哥……」
とはいえ、そのように思うのだから、やはり自分は明日哥が好きなのだろう。穂積はそう思考をまとめた。虐待の痛みや苦しみから救ってくれた明日哥のことがどうしても必要だったし、それであればそもそも登山の道に彼女を招いたことすら後悔しなくてはならない。
穂積は目にかかる髪をかきあげて、明日哥の唇にキスをした。考えてはみたものの、やはり明日哥のいない未来は嫌だったし、想像しているうちに気が付いた。どうやら彼ひとり生きて帰ったとしても、王様のように振る舞う穂積の両親の呪縛から解放されることはなさそうだ。
恐らく穂積の両親は、道を踏み外した穂積に救いの道を提示、それを強制し、そのうえで一層恩着せがましく付きまとってきて一生人を愛することすら許してくれないか、あるいは明日哥が死んだからと、自分たちにとって都合のいい人物を紹介してくるかのいずれかだろう。
穂積が明日哥を好きな理由など無視してそのような図式に到達する未来が見えた。
穂積の親はそのように極端に強いる親だ。いずれにしても死にたくなるほど嫌な未来が待ち受けていることが目に見える。
「明日哥……生きてくれ」
穂積は明日哥に甘えていた。もっと甘えていたかった。登山よりもなによりも、明日哥といることが穂積にとってはなによりの現実逃避で、むしろそれだけが現実だった。
穂積は、虐待されている自分のことを、他人事ではなく、まるで自分自身のことのように考えてくれる彼女が好きだった。
「あ」
そのように思っていると、ふとスマホの振動に気が付いた。
圏外ではなくなったようだ。
穂積は千切れそうなほどかじかむ指で、必死にスマホを操作した。
「……」
……十数分そうして、操作を終えたとき、安心したのか、急に穂積は動けなくなった。
彼の救難の届けに応じたヘリコプターの音を聞く間もなく、意識を失った。
明日哥が目を覚ますと、目の前には病院の天井が広がっていた。周囲はカーテンで仕切られている。点滴を打たれていた。最後の記憶は雪山で意識を失ったところで途絶えている。
病院のベッドは暖かく、どれだけ眠っていたのか、身体は寝汗まみれであった。いつの間にかパジャマを着ている。
「……?」
近くに手紙が置かれていた。明日哥の親の筆跡。どうやら彼女が目を覚ましたときに読むようにと置いてくれていたようだ。
それを読むと、自身が雪山で遭難し、ヘリコプターで救助されたことがわかった。もう登山はやめなさいとも書かれていたが、明日哥にとってはどうでもよかった。
スマホは椅子のうえに置かれていた。電源が切れていた。
振動とともに電源が点いて、通知が届いた。自分のことを心配する膨大な数のLINE。
「……え」
「……」
「……穂積くん……?」
怖くなって穂積のLINEを開く。
まだ未読だった、たった二件の通知。
二枚の画像。
一枚目は、山の麓、チャンピオンロードで食べた、うさぎのパンの写真。
二枚目は、むかし穂積に貸したゲームの購入履歴。明日哥の家に届くそうだ。
「……ゲーム、なくしてたんだ……」
「もう……とっくに本体のアカウント消しちゃったよ……」
ゲームは返って来るようだが、遊ぶ相手がいない。
カーテンを開く明日哥。
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