スコウキャッタ・ターミナル

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第23章 太古のものたち

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 アムンセン所長に別れを告げて、エレンたちはひとまず動物たちの棲む北の湖周辺に向かうことにしました。所長がくれたのは、十秒もあれば書けるごく簡単なマルとバツだけの地図でしたが、ほとんどが雪と氷で覆われた北極の大地ではたいした問題ではありません。四人はしっかり防寒すると出発しました。
  天文所から見えた白樺林を抜けると、やがて大きな湖が木々の合間に見えるようになってきました。ほんの少し前まで前人未到の地だった北極では、巨大な科学施設のような人工物のすぐそばに野生生物の生息域があるのです。エレンはむしろ、人間の生活している部分の方が、動物たちのものよりずっと危険なのではないかと思いました。

  ほとんど海といっても過言ではない大きな湖に、一同は圧倒されました。対岸は遥か遠く、水平方向からではその輪郭がまんまるなのか楕円なのか、はたまたギザギザしているのかさえ分かりません。水辺に立ったリンは両手を広げて深呼吸しました。
「空気が痛いくらいに澄んでいる。天文台からさほど離れていないのに不思議だなぁ」
いつもはリンばかり見ているキルステンも湖に興味津々です。
「こんなに大きなもの、初めて。これは絶対に近くで見るべきよ。飛行船からではなく」
キルステンの話を、普段は適当に受け流すエレンとフラッフィも、この発言にはいたく共感しました。
「でも動物たちはどこ? まったく姿が見えないけれど」
黒い水面に映った自分の姿を見ながら、フラッフィがこう言いました。たしかに動物たちの姿はまったくありません。みんな南下してしまって、ここにはもう一匹もいないのでしょうか。 

  誰からともなく、それぞれに散策をしていると、どこからか地響きがしてきました。それは、最初は気のせいかと思うくらい微かなものでしたが、遠くの方で舞い上がる雪が目の端に入ったときには、振動を膝で感じるほどになっていました。
 湖を臨む雪原に突如現われたのは、立派な樹木から切りとった、ひとふりの枝と見まごう角の生えたトナカイの一群でした。
 トナカイたちは先を急いでいるようで、自分たちが蹴り上げた雪のスクリーンから次々飛び出していきます。しかしエレンたちからそう遠くない場所で群れはふと止まりました。そして先頭にいた、森を思わせる立派な角を持った雌トナカイは、利発的な低い声で冷えた空気を震わせ、こう言いました。ヌーク、まだいたの、と。
「お母さんとはぐれたのかい。北極熊たちは三日も前に南へ向かっただろうに」
どうやらトナカイのリーダーは、フラッフィのことを北極熊の子どもと勘違いしているようです。
「彼らは私たちほど足が早くないから、長のウパシは、極夜までになるべく遠くへ逃げるべく、早い決断を下したの」
フラッフィがぽかんとしていると、鼻面が横に広い雄トナカイが女隊長に囁きました。
「ニタイ、この子はきっとお母さんの背中から落ちてなにもかも忘れちまったんだろうよ」
すると女隊長はなるほどといった表情を浮かべ、ハポのところに送り届けてあげましょうと言いました。しかしフラッフィは、慌ててエレンの後ろに隠れました。
「ま、まってよ。人違いだ。だって僕はフラッフィなんだ」
しかしトナカイたちは信じません。そこでエレンは、慌ててフラッフィを援護しました。フラッフィがヌークという名前でもなければ、北極熊でもないこと、それに熊にそっくりでもまったく別の生き物がいるということを。トナカイたちが納得するまで、エレンは何度も説明してやりました(可哀想なフラッフィは、人形であることを示すために、耳の縫い目を少し広げて、中綿を披露しなければなりませんでした)。
 先ほどフラッフィを記憶喪失だと言った雄トナカイ、エトゥはいまだ不服なようでしたが、女隊長ニタイはすぐに切り替えました。
「あなたがヌークじゃないのは分かったわ。だけど、それにしても早く南へ行った方がいい」
「どうしてみなさん、南に向かうんです」
リンがこう言うと、エトゥは口にするのもおぞましいといった様子で口をつぐんでしまいましたが、ニタイは毅然とその質問に答えました。
「ランプ星が消えたのは知っているでしょう。あれは地下のものたちを閉じ込めていたの」

 ニタイによれば、一年の半分は月のないこの世界の地下には、大地が冷えて固まる前に生まれた魔物たちが住んでいました。太陽の光を嫌う彼らは、普段は地底の奥底にいて、夜でも地表に近づくことはありません。しかし太陽の昇らない極夜だけは別で、魔物はそのあいだ自由に地上を歩き回りましたし、そのことで畏れおののいても、疑問を感じる生き物はありませんでした。むしろ極夜とはそういうものでした。
 しかし人間だけは違いました。以前はほかの生き物と同じく、夜のものたちに敬意を払っていた人間は、いつからか地下のものたちに不満を漏らすようになり、彼らの頭が大きくなるにつれ、それはほとんど呪いといっていいほど熾烈を極めました。なんとか太古のものたちを地上に出てこさせない方法はないかと彼らは日々考えあぐね、ついにある日、それは現実のものとなりました。
 「ランプ星」と呼ばれる擬似的な太陽を作り上げることに、人間は成功したのです。彼らはそれを死なない小さな太陽と褒めそやし、それを宙へ放つにあたって、盛大な送りを催しました。そしてそれ以来、地下のものたちの姿が地上で見られることはなくなりました。

「ランプ星がないまま極夜になったら、彼らは地上に出てくるんですか」
エレンが息を飲むと、ニタイは静かに頷きました。
「かつては自分たちのものだった地から、彼らは追い出された。彼らは外に出たくてうずうずしている」
「そのものたちは怒っているの」
がたがた震えながら、キルステンが尋ねました。
「それは誰にも分からないわ。ランプ星がなぜ消え、どこに行ったかもね。でも動物たちの中にはそう考えて南に向かうものもいる。私たちのように。時間を使いすぎたわ。もう行かないと」
ニタイは、喉から胸にかけて立派な銀色の毛に覆われた体を南に向けました。
「あの、猫を見ませんでしたか」
エレンの唐突な発言に、トナカイたちは首を傾げました。どうやら猫というものを知らないようです。
「ウサギくらいの大きさの、三角のぴんとした耳をした生き物で、ふさふさと長い毛が生えています。目はあなたたちと違って、顔の中心についているんだけど、見ていませんか」
エレンが必死に説明しても、トナカイたちは首を横に振るばかりでした。

  朽葉色のトナカイの群が、灰色の空と溶けあうくらい遠くになると、エレンはいよいよこれからのことを考えなくてはいけなくなりました。これまで探さずともエレンのすぐ鼻先をちらついていたのに、王都ソール・ヌール・ヴァスト・アウストのパレードで見かけて以来、レネの姿を見ていません。
 エレンが小さく溜息をつくと、突然エレンを呼ぶ声がありました。それは群を離れてこちらへやってくる一頭のトナカイでした。
「あのさあ・・・それには長いしっぽがあるかい。二本か、三本!」
おしゃべりなエトゥは途切れとぎれ言いました。呼吸は荒く、吐いた息からは朦々と湯気が上がっています。
「しっぽはあるけど一本だけ。馬みたいに毛を分けて結べるなら別だけど」
キルステンのことばに、エレンははっとしました。
「そのしっぽのひとつは青くなかった?」
「ああそうだ。それはもう美しい寒い夜か、深い水底みたいな青だった」
エレンはトナカイに抱きつきました。エトゥは、レネのしっぽに結ばれたリボンを見たのです。人間のポニーテールを結んでいたリボンは、蝶のようなその結び目がほどけて、二本の長いしっぽのようになっているのでしょう。エトゥは本物のしっぽとそのリボンを合わせた、二本か三本のしっぽを見たのです。
「もっと早く思い出せればよかったんだけど、ほかのことで頭がいっぱいだったんだ。あの子と北極熊の違いが僕にはまだ分からなくて」
黒い鼻面の中で一際人なつっこい黒い目をフラッフィに向けると、レネが北極熊の群れと一緒だったこと、それにまだそう遠くには行っていないだろうことをエトゥは話しました。

  おしゃべりで親切なトナカイに、エレンたちはいつまでも手を振り続けました。しかし彼が仲間に合流して、やがてその群れも見えなくなってしまうと、一同は飛行船へ急ぎました。
 大きく腿を上げて、まだ誰にも踏まれていない雪の上を走ると、冬のにおいが立ちこめます。しかしエレンは全然寒くありませんでした。重装備した手も足も冷えきって、髪の毛にいたっては少し凍っているのに、頬は上気しているくらいです。どこまでも積もった雪を思いっきり蹴り上げると、エレンは抜け駆けして、誰もいない真っ白な景色を少しだけ独り占めしました。
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