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第28章 腹の内
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エレンは夢を見ていました。そこは自分の手も見えないほど暗いところでしたが、以前見た夢のように、ゼリーのエレンを食べるものがいる不気味なところではなく、もっと温かく懐かしいところでした。それにエレンのそばには、目に見えない誰かが寄り添っていて、その人が自分と同じ成分でできていることがエレンには分かりました。
エレンはまだ目も見えず、耳も聞こえず、声もありませんでしたが、少年が心を許すと、相手も同じように心を許しました。エレンは安心して元いたところに溶け戻りました。しかし深い深いところへ落ちていこうというそのとき、誰かがエレンを呼びました。それは聞いたことのある声で、エレンはそうだ、この声だったと思いました。
「エレン! しっかりして!」
薄暗い闇の中にぼおっと浮き上がったのは、白っぽいくまのぬいぐるみ、フラッフィでした。エレンはだるい体を起こしました。ここは一体どこなのでしょう。
「僕たち、食べられちゃったんだ」
エレンはあたりを見渡しました。目が慣れるまでにしばらくかかりましたが、そこは細いトンネルを進んで突如あらわれたような、広けた空間でした。しかし空間を作っているのは、トンネルのように無機的で冷たい物質ではありません。ここを覆っているのはピンク色の柔らかい筋肉で、一定の間隔で脈打っています。
エレンはそっと壁に触れてみました。想像よりぬるく、さらっとした液体がエレンの手にかかります。食べられてしまったというのに、エレンは妙に感心してしまいました。だって「生きている」というのが目に見えるのです。それに、消化器官の社会科見学なんてめったにあるものではありません。エレンは感情の赴くまま、壁に沿って歩いてみました。しかし途中で何かに躓いたので、感動はその拍子にどこかに飛んでいってしまいした。
「フラッフィ。地下のものたちというのは、やっぱり変わっているよ」
エレンは足元に落ちていた大きな玉を拾い上げました。それは透明感のある深い青に、金や銀の破片が混ざった硬い石で、ずっしりと手にのしかかります。
「こんなものは絶対においしくないし、そもそも歯が欠けてしまうよ。もっともずっとここにあるということは、消化できていないようだけれど」
エレンがこういうと、フラッフィは遠くを見やって、心底深い溜め息をつきました。
「食べたくて食べているわけじゃないんだ。レネだって」
フラッフィの口から思わぬ単語がついて出たので、エレンはことばを失いました。
「いま、なんて言った? レネだって?」
「そうさ。僕たちはレネに食べられた。ここはレネのお腹の中だ」
フラッフィが淡々と語るので、エレンは困惑しました。第一、エレンたちを飲み込むほどレネは大きくないし、仮に何かの間違いで大きくなったとして、お兄さんを食べたりするでしょうか。
「僕を探しているうちに、レネは色々なものを飲み込み、こんなに大きくなってしまった。いま君が持っているのだって、そう。それは子どもたちの都市・アウディの青いフクロウに埋め込まれていた、宇宙の瞳のひとつさ。ここにはほかにも様々なものがある」
にわかに信じ難い話でしたが、エレンは恐る恐る目を凝らしました。すると先ほどはのっぺりと平らかに見えた胃のトンネルが、実は柔毛を媒介として、様々なものを取り込んでいることが分かってきました。エレンがそれを吐かせるために奔走してきたドラゴンの金のたまごはもちろん、子どもたちを戦争へ駆り立てたブーメランみたいなウィデの黄ウサギの千里耳や、光沢のあるモアイ像のようなアルフォンスのオスカーもうっすらと顔を出しています。
エレンはどの物にも秘められている物語に思いを馳せました。どこかしら光るものがあるこれらの品々は、つい最近まで誰かの宝物であったに違いなく、持ち主の落ち込みようを想像すると、胸が痛くなります。
「たしかにここはレネのお腹の中みたい。でもどうして分かったの。レネが君を探しているって」
ケーニヒ・クリーニング店の中庭で最初に会ったとき、フラッフィはレネのことを覚えていませんでしたし、そもそもウォーホランディ以前の記憶を失くしていたはずです。それなのになぜ、レネが考えていることまで分かるのでしょう。
「ここに戻ったらすべてを思い出したんだ。僕とレネがどんなに親密で、またどんなに相反していたかを。それに僕はここで生まれたんだ。僕がいない間にレネに何があったのか、僕には痛いほど分かる。そして君がどう思って、僕を崖から捨てたかも」
フラッフィがこう言ったので、エレンは矢を射られた鳥のように、胸がずきずき痛みました。しかしフラッフィはそのことでエレンを責めてはいません。エレンはむしろ糾弾された方がましだと思いました。
「誰が悪いとかそういうことじゃない。時間の問題だったんだ。でもそのことで招いてしまった混乱については、僕たちがレネの尻拭いをしないといけない。なにせこれは、僕がいなくなってぽっかり空いてしまった穴を埋めるために、レネが引き起こしたことなんだから」
そういうとフラッフィは、トンネルの端までエレンを連れて行きました。そこはたしかにトンネルの終わりらしく、門のようなでっぱりがついています。しかしそれがぎゅっと閉まっているので、先を窺い知ることはできません。
「この先の十二指腸にランプ星がある。僕を探すうちに我を忘れたレネが、アルベルトがいない隙に飲み込んだんだ」
「それもレネだったの!」
エレンは空いた口が閉まりませんでした。だってレネはドラゴンの試練の秘宝や、子どもたちの戦争の火種では飽き足らず、極夜を照らすランプ星まで飲み込んでいたのです。
「ねえ、フラッフィ。さっきレネは、君を探しているうちに、いろんなものを飲み込んでしまったって言ったよね。でもこうしてフラッフィを飲み込んだのに、どうしてレネは元に戻らないんだろう」
フラッフィは見えない主の顔色を伺うように、口蓋につながるスロープを見上げました。
「余計なものが多すぎるんだ。以前のレネは吐くことでバランスを保っていた。でも僕がいなくなってからというもの、レネは入れてばかり。いらないものをすべて吐き出させないといけない。エレン、吐出草は持っているよね?」
エレンはズボンのポケットを手探りしました。指先はすぐにガラス瓶に触れましたが、なんと瓶にはいつからかヒビが入っていたようで、中の草はしなびていました。
「どうしよう! 吐出草が」
エレンは泣きそうになりました。
「大丈夫だよ。成分が変わらなければ起きる化学反応は同じだから」
そういうとフラッフィはきつく締まった弁の門に手をつっこんで、ぐぬぬと何かを露出させました。それは大きいマグカップの持ち手のようなものでした。
「エレン、君はこれを何とか引っ張り出してくれ。僕は門が開いた隙に、吐出草を持って入る」
「そうか。それでレネがうっとなったら、君もランプ星も吐き出されるというわけだ!」
エレンは手を打ち合わせました。しかしフラッフィは黙りこくってしまいました。
「なにか問題があるの。フラッフィ?」
「いや、別に問題はないんだ。ただ・・・」
「ただ・・・?」
エレンは急に心配になってきました。フラッフィとこんな空気になるのは初めてです。
「ただ、君とはここでさよならなんだ」
エレンは耳を疑いました。信じられないようなことが次々と起こっていますが、これ以上のものはありません。
「さよなら? どうしてさ? だって吐出草には問題ないでしょう」
「もちろん。レネは君が手に入れたこの草で、全部吐き出すさ。しかしそれは本来必要のないものだけ。でも僕は違う。僕はここにいなければいけない」
「一緒に戻ろう。またレネを見守ってよ。僕と一緒に」
エレンはなんとなく分かるような気がしましたが、分かりたくありませんでした。
「エレン。僕、嬉しいよ。君がそう言ってくれて。それにこんなに仲良くなれた」
「嫌だよ。そんな言い方。それじゃまるでもう二度と会えないみたいじゃないか」
知らないうちに、エレンの声は震えてしまいます。
「僕だってずっと君といたい。でも僕はもともとレネの一部。何かの拍子に分離してしまったけれど、本来はひとつであるべきなんだ。でも僕はいなくなるわけじゃない。レネの中で生きる。君だってその方がずっといいはずさ。そうすれば行き過ぎた行動は減るし、もちろんリバースだっておさまる。それにレネに両親を独り占めされることもなくなるはずだ。でも時々思い出してよね、僕のこと」
フラッフィが込み上げてくるものを必死に我慢しているのに、エレンはわざとだだをこねました。いまや顔中、涙か鼻水かで、ぐっしょりです。
「それなら僕が行く。フラッフィが戻ってこられない門でも、僕なら戻ってこられるんでしょう」
「エレン、分かってくれ。門は少ししか開かないから僕でないと通れないし、僕ではあれを引っ張り出す力がない。それに何よりあれは君の手で取るべきなんだ」
「あれって何? 君は何がつまっているか、知っているの?」
しかしフラッフィは淋しそうに微笑むだけで、その質問には答えませんでした。
「さあエレン。刺抜きを出して。早くこいつを引っ張り出さなきゃ」
いろいろな感情がうずまくレネのお腹の中で、エレンは無言で「刺抜き」に取り組んでいました。この作業を始めたとき、エレンはまだしゃくりあげていましたが、いざベルト通しから刺抜きを取り出して、鳥の足のような三つ割れの先端部を例の突起部分にかけてしまうと、気持ちは自然と落ち着き、いまでは無心になっていました。
しかし脇目も振らず、しっかり刺抜きを握っているというのに、幽門にひっかかっているものはびくともしません。エレンは運動会の綱引きのように、全体重を後ろにかけてもみましたが、ほんの少し持ち手が傾いただけで、本体はまったく見えません。
エレンは滲む汗を拭うと、刺抜きを逆さまにして輪っかになっている部分を突起に引っかけました。しかし思いっきり引っ張った次の瞬間、それはぽきんと折れてしまいました。
「あっ!」
フラッフィは小さく叫びました。しかしエレンはそのことを気にかけるでもなく、今度は素手で持ち手を握りました。エレンに迷いはありません。フラッフィは、門が開いたらすぐに飛び込めるように、吐出草をしっかり握り直しました。
「うー!!」
胃の底と体がほとんど平行になるくらい、門に両足を踏ん張ったその瞬間、エレンは後ろにすっ飛ばされました。しかしその瞬間、彼は「やった」と叫ぶでもなく、ただただ無言で大粒の涙を流しました。けれどもそれは、どこかを怪我したからではありません。もちろんフラッフィがいなくなったことはとても悲しいことです。しかしエレンは別のことで気持ちがいっぱいでした。
エレンが引き出したもの。たっぷりと注ぐことのできるたおやかな本体に、しなやかなアーチを描く一対の持ち手。
後ろに転がるときに本体に触って、エレンはすべてを悟りましたが、歪んだ自分の顔が映る、滑らかな湾曲を改めて見るとひとしおです。
見覚えのある優勝杯。エレンが触らせてあげなかったブルーペンギンズの優勝カップが、レネの内蔵に引っ掛かかっていたのです。それも毒を吐くのを妨げて。エレンは声を上げて泣きました。
エレンはまだ目も見えず、耳も聞こえず、声もありませんでしたが、少年が心を許すと、相手も同じように心を許しました。エレンは安心して元いたところに溶け戻りました。しかし深い深いところへ落ちていこうというそのとき、誰かがエレンを呼びました。それは聞いたことのある声で、エレンはそうだ、この声だったと思いました。
「エレン! しっかりして!」
薄暗い闇の中にぼおっと浮き上がったのは、白っぽいくまのぬいぐるみ、フラッフィでした。エレンはだるい体を起こしました。ここは一体どこなのでしょう。
「僕たち、食べられちゃったんだ」
エレンはあたりを見渡しました。目が慣れるまでにしばらくかかりましたが、そこは細いトンネルを進んで突如あらわれたような、広けた空間でした。しかし空間を作っているのは、トンネルのように無機的で冷たい物質ではありません。ここを覆っているのはピンク色の柔らかい筋肉で、一定の間隔で脈打っています。
エレンはそっと壁に触れてみました。想像よりぬるく、さらっとした液体がエレンの手にかかります。食べられてしまったというのに、エレンは妙に感心してしまいました。だって「生きている」というのが目に見えるのです。それに、消化器官の社会科見学なんてめったにあるものではありません。エレンは感情の赴くまま、壁に沿って歩いてみました。しかし途中で何かに躓いたので、感動はその拍子にどこかに飛んでいってしまいした。
「フラッフィ。地下のものたちというのは、やっぱり変わっているよ」
エレンは足元に落ちていた大きな玉を拾い上げました。それは透明感のある深い青に、金や銀の破片が混ざった硬い石で、ずっしりと手にのしかかります。
「こんなものは絶対においしくないし、そもそも歯が欠けてしまうよ。もっともずっとここにあるということは、消化できていないようだけれど」
エレンがこういうと、フラッフィは遠くを見やって、心底深い溜め息をつきました。
「食べたくて食べているわけじゃないんだ。レネだって」
フラッフィの口から思わぬ単語がついて出たので、エレンはことばを失いました。
「いま、なんて言った? レネだって?」
「そうさ。僕たちはレネに食べられた。ここはレネのお腹の中だ」
フラッフィが淡々と語るので、エレンは困惑しました。第一、エレンたちを飲み込むほどレネは大きくないし、仮に何かの間違いで大きくなったとして、お兄さんを食べたりするでしょうか。
「僕を探しているうちに、レネは色々なものを飲み込み、こんなに大きくなってしまった。いま君が持っているのだって、そう。それは子どもたちの都市・アウディの青いフクロウに埋め込まれていた、宇宙の瞳のひとつさ。ここにはほかにも様々なものがある」
にわかに信じ難い話でしたが、エレンは恐る恐る目を凝らしました。すると先ほどはのっぺりと平らかに見えた胃のトンネルが、実は柔毛を媒介として、様々なものを取り込んでいることが分かってきました。エレンがそれを吐かせるために奔走してきたドラゴンの金のたまごはもちろん、子どもたちを戦争へ駆り立てたブーメランみたいなウィデの黄ウサギの千里耳や、光沢のあるモアイ像のようなアルフォンスのオスカーもうっすらと顔を出しています。
エレンはどの物にも秘められている物語に思いを馳せました。どこかしら光るものがあるこれらの品々は、つい最近まで誰かの宝物であったに違いなく、持ち主の落ち込みようを想像すると、胸が痛くなります。
「たしかにここはレネのお腹の中みたい。でもどうして分かったの。レネが君を探しているって」
ケーニヒ・クリーニング店の中庭で最初に会ったとき、フラッフィはレネのことを覚えていませんでしたし、そもそもウォーホランディ以前の記憶を失くしていたはずです。それなのになぜ、レネが考えていることまで分かるのでしょう。
「ここに戻ったらすべてを思い出したんだ。僕とレネがどんなに親密で、またどんなに相反していたかを。それに僕はここで生まれたんだ。僕がいない間にレネに何があったのか、僕には痛いほど分かる。そして君がどう思って、僕を崖から捨てたかも」
フラッフィがこう言ったので、エレンは矢を射られた鳥のように、胸がずきずき痛みました。しかしフラッフィはそのことでエレンを責めてはいません。エレンはむしろ糾弾された方がましだと思いました。
「誰が悪いとかそういうことじゃない。時間の問題だったんだ。でもそのことで招いてしまった混乱については、僕たちがレネの尻拭いをしないといけない。なにせこれは、僕がいなくなってぽっかり空いてしまった穴を埋めるために、レネが引き起こしたことなんだから」
そういうとフラッフィは、トンネルの端までエレンを連れて行きました。そこはたしかにトンネルの終わりらしく、門のようなでっぱりがついています。しかしそれがぎゅっと閉まっているので、先を窺い知ることはできません。
「この先の十二指腸にランプ星がある。僕を探すうちに我を忘れたレネが、アルベルトがいない隙に飲み込んだんだ」
「それもレネだったの!」
エレンは空いた口が閉まりませんでした。だってレネはドラゴンの試練の秘宝や、子どもたちの戦争の火種では飽き足らず、極夜を照らすランプ星まで飲み込んでいたのです。
「ねえ、フラッフィ。さっきレネは、君を探しているうちに、いろんなものを飲み込んでしまったって言ったよね。でもこうしてフラッフィを飲み込んだのに、どうしてレネは元に戻らないんだろう」
フラッフィは見えない主の顔色を伺うように、口蓋につながるスロープを見上げました。
「余計なものが多すぎるんだ。以前のレネは吐くことでバランスを保っていた。でも僕がいなくなってからというもの、レネは入れてばかり。いらないものをすべて吐き出させないといけない。エレン、吐出草は持っているよね?」
エレンはズボンのポケットを手探りしました。指先はすぐにガラス瓶に触れましたが、なんと瓶にはいつからかヒビが入っていたようで、中の草はしなびていました。
「どうしよう! 吐出草が」
エレンは泣きそうになりました。
「大丈夫だよ。成分が変わらなければ起きる化学反応は同じだから」
そういうとフラッフィはきつく締まった弁の門に手をつっこんで、ぐぬぬと何かを露出させました。それは大きいマグカップの持ち手のようなものでした。
「エレン、君はこれを何とか引っ張り出してくれ。僕は門が開いた隙に、吐出草を持って入る」
「そうか。それでレネがうっとなったら、君もランプ星も吐き出されるというわけだ!」
エレンは手を打ち合わせました。しかしフラッフィは黙りこくってしまいました。
「なにか問題があるの。フラッフィ?」
「いや、別に問題はないんだ。ただ・・・」
「ただ・・・?」
エレンは急に心配になってきました。フラッフィとこんな空気になるのは初めてです。
「ただ、君とはここでさよならなんだ」
エレンは耳を疑いました。信じられないようなことが次々と起こっていますが、これ以上のものはありません。
「さよなら? どうしてさ? だって吐出草には問題ないでしょう」
「もちろん。レネは君が手に入れたこの草で、全部吐き出すさ。しかしそれは本来必要のないものだけ。でも僕は違う。僕はここにいなければいけない」
「一緒に戻ろう。またレネを見守ってよ。僕と一緒に」
エレンはなんとなく分かるような気がしましたが、分かりたくありませんでした。
「エレン。僕、嬉しいよ。君がそう言ってくれて。それにこんなに仲良くなれた」
「嫌だよ。そんな言い方。それじゃまるでもう二度と会えないみたいじゃないか」
知らないうちに、エレンの声は震えてしまいます。
「僕だってずっと君といたい。でも僕はもともとレネの一部。何かの拍子に分離してしまったけれど、本来はひとつであるべきなんだ。でも僕はいなくなるわけじゃない。レネの中で生きる。君だってその方がずっといいはずさ。そうすれば行き過ぎた行動は減るし、もちろんリバースだっておさまる。それにレネに両親を独り占めされることもなくなるはずだ。でも時々思い出してよね、僕のこと」
フラッフィが込み上げてくるものを必死に我慢しているのに、エレンはわざとだだをこねました。いまや顔中、涙か鼻水かで、ぐっしょりです。
「それなら僕が行く。フラッフィが戻ってこられない門でも、僕なら戻ってこられるんでしょう」
「エレン、分かってくれ。門は少ししか開かないから僕でないと通れないし、僕ではあれを引っ張り出す力がない。それに何よりあれは君の手で取るべきなんだ」
「あれって何? 君は何がつまっているか、知っているの?」
しかしフラッフィは淋しそうに微笑むだけで、その質問には答えませんでした。
「さあエレン。刺抜きを出して。早くこいつを引っ張り出さなきゃ」
いろいろな感情がうずまくレネのお腹の中で、エレンは無言で「刺抜き」に取り組んでいました。この作業を始めたとき、エレンはまだしゃくりあげていましたが、いざベルト通しから刺抜きを取り出して、鳥の足のような三つ割れの先端部を例の突起部分にかけてしまうと、気持ちは自然と落ち着き、いまでは無心になっていました。
しかし脇目も振らず、しっかり刺抜きを握っているというのに、幽門にひっかかっているものはびくともしません。エレンは運動会の綱引きのように、全体重を後ろにかけてもみましたが、ほんの少し持ち手が傾いただけで、本体はまったく見えません。
エレンは滲む汗を拭うと、刺抜きを逆さまにして輪っかになっている部分を突起に引っかけました。しかし思いっきり引っ張った次の瞬間、それはぽきんと折れてしまいました。
「あっ!」
フラッフィは小さく叫びました。しかしエレンはそのことを気にかけるでもなく、今度は素手で持ち手を握りました。エレンに迷いはありません。フラッフィは、門が開いたらすぐに飛び込めるように、吐出草をしっかり握り直しました。
「うー!!」
胃の底と体がほとんど平行になるくらい、門に両足を踏ん張ったその瞬間、エレンは後ろにすっ飛ばされました。しかしその瞬間、彼は「やった」と叫ぶでもなく、ただただ無言で大粒の涙を流しました。けれどもそれは、どこかを怪我したからではありません。もちろんフラッフィがいなくなったことはとても悲しいことです。しかしエレンは別のことで気持ちがいっぱいでした。
エレンが引き出したもの。たっぷりと注ぐことのできるたおやかな本体に、しなやかなアーチを描く一対の持ち手。
後ろに転がるときに本体に触って、エレンはすべてを悟りましたが、歪んだ自分の顔が映る、滑らかな湾曲を改めて見るとひとしおです。
見覚えのある優勝杯。エレンが触らせてあげなかったブルーペンギンズの優勝カップが、レネの内蔵に引っ掛かかっていたのです。それも毒を吐くのを妨げて。エレンは声を上げて泣きました。
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