秘密の血判状

アラビアータ

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序章

第一話

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 夜闇は大地を晦冥に落とし、真如の月だけがポツリと闇の海に浮かんでいる。近くにある川も、滔々と流れる水の音に紛れる鷺の声の所為で妙に陰気で薄ら寒い。そんな空っ風の晩に、港街ハーフンは寝静まっている。
 蒼くて暗い夜の海、起きているのは此処一軒、閉じられた窓蓋からボウと灯りが漏れている。丁度柳の糸が黒布の中に黄色い縞目を描くように、チラチラと朧気な灯りが夜闇に彩りを加えている。軒先には『衛兵詰所』と書かれた木札が下がっている。
 その中から戸を開けて、五人ばかりが松明を手に踏み出してきた。見廻り役人達は狐火のようにヒタヒタと街辻に消えていく。後は時折、咳払いが切れ悪く詰所から聞こえてくるのみである。いよいよ世間とした時分、

「こんばんは。こんばんは」

 詰所の前に二つの影が佇んだ。どちらも雨除けの外套に革の靴。護身用の佩剣を裾から覗かせて、及び腰で木戸をトントンと叩いている。
 誰です、と中からすぐに声がする。仕切り戸が開けられ、中から男が顔を出す。中は、板床五坪ばかりに火の付いていない松明、木杖や刺叉に鉤縄等の捕物道具、帳簿の類いが並べられており、一人の男が寂然と宿直の役をしている様子。
 卓上に錫の酒壺を置き、寒さ除けの蜂蜜酒を飲んでいた詰所番の老兵は、二人の男をじろりと見つめて、

「旅の方ですか。こんな時間にどうしましたか」
「へい。俺は帝都から来た渡世人で、ユルと申します。こっちは弟のグレゴールと言います。俺達、さっきハーフンに着いたんですけど、宿札が無いと何処にも泊めてもらえないってんで困り果ててしまって」
「当たり前でしょう。街掟ですからね。待っていなさい、今宿札を差し上げます。一応聞きますが、何処にお行きなさるのですか? 」
「へい。ここから東にあるジパングに行こうと思っていまして」

 ジパング、それを聞いた詰所番は難しい顔で、訝しげに二人を見た。然もあろう、ジパングは、帝国の属国であるが元々島国なので、大陸者をひどく嫌っている国民性である。しかも十数年前から、ジパングを治めるミナモト家が、ばかに他領者の出入りを拒み、帝国の御用か、家中の手引きでも無い限りは、滅多に入領出来ないという話なのである。
 しかしそれを糺すのは街役人の用向きでは無いので、老兵は(そんな事もあるのだろう)とさして気に留めず、羊皮紙を一枚取ってスラスラと羽根筆を走らせ、宿証を書き始めた。

 その時そのその一瞬、何とも怪しい一つの影、詰所の横にある井戸の脇に屈み込んで、ジッと聞き耳を立てている。
 どうも有難うございます、と中から声がするが早いか、木戸が開いて灯りが漏れる。途端に外套姿の魔魅女、素早く姿を消している。
 何を思ったか、老兵は慌てて二人を呼び止めた。何ですか、とユルに弟のグレゴールが振り返ると、彼は手真似でバッサリと小声で注意して、

「お気を付けなさい。最近、この街で夜な夜な辻斬りが出ていますから。腕試しでは無い物盗りの犯行だって話です」
「フン辻斬りか。そんなの怖くは無いぜ」

 と、グレゴールは鼻先で笑うが、老兵は若者を叱るように、

「こら、そんな事言うもんじゃない。さっき出て行った見廻りの連中の話だと、毎晩の斬り口を見ると、居合抜きの達人だって云う話ですから」
「ご親切にどうも有難うございます…」

 と、ユルは丁寧に会釈をして強がっている弟の頭を強引に下げさせ、踵を返して歩き出していった。
 教えられた道筋のとおりに、詰所から中央広場へと向かう。そこから街の西へ向かうのだが、海に面している事もあり、蕭々と冷え切った潮風が吹いている。所々に凸凹した石畳の道、何か化け出そうな街路の木々、等間隔に並んだ篝火だけがせめてこの世らしい瞬きであった。
 兄さん、と十四のグレゴールが二歳上の兄に縋り付くようにして、

「さっきの爺さんが余計な事を言った所為で、何だか背筋が寒くなってきたよ。もしその、辻斬りが出たらどうしよう」
「何だお前は。さっき、あんな生意気言っておきながら。そうだな、今からお前の腕を頼りにしておくぞ」
「無茶言わないでくれよ。第一兄さんが一番解ってるだろ」

 そんな無駄口を叩いている内に、二人は海に流れ込む川に架かる橋に着いていた。そこまで来ると開けた空に月明かり、少しは気強い思いがする。
 兄弟は気が付いていないらしいが、詰所の影に潜んでいた女は、いつの間にか二人の後を尾けて、怪しい糸、眼に見えない糸を手繰っているのであった。
 橋の真ん中まで来ると、弟のグレゴールがピタリと歩みを止めてしまった。

「兄さん、誰かが向こうから来るぜ。何だあいつ、全身真っ黒じゃないか」
「うん? …確かに、誰だろう。おい、用心に越した事は無いからな。今から目釘を湿しておけ」

 そのまま近付いてみれば、成る程姿の見えぬ筈、上下の衣服は黒ぞっき、顔を隠すは黒頭巾。目元だけ出して、雪駄を摺らせて歩いて来る。
 何とも怪しいその男、兄弟を横目にすれ違い、そのまま歩んで五歩六歩、途端にくるりと振り向いた。それと同時に身を沈め、双眸と見開かせ、刀の鞘を肩より後ろに高く反らした。
 ぐっと居合抜きの腰、息を含んで右手めては固く柄を握り、タタタッと橋板を踏み鳴らし、と抜いてそのままユルの後ろへ斬り掛かる――かと思われたその時に、ドボンと水音が高く響き、月光に水玉が閃々と煌めいた。

 兄さんっ、とグレゴールは鯉口を切っている死神に気付くや否、兄の背を押して早くも奔り去ってしまった。
 チッ、と舌打ちをした黒頭巾は、いそいそと戻り掛けた所で、外套の頭を脱いだ少女が、橋の欄干に肘置いて、彼の方を見て笑っているのを見た。怒りの眉を上げて、男が猛然と近付いてくるのにも怖じ気付かず、少女の方は澄ましたもの、銀の短髪を夜風にたなびかせ、翠の瞳を輝かせる。
 片や獲物を取り逃がした黒頭巾、彼女を斬らねば収まるまい。ズンと凄味のあるダミ声で、

「おい! 女! 」
「あたしの事? 何か用ですかぁ? 」
「知れた事。何ゆえ邪魔致したっ」

 簡素な旅装束の銀髪少女は、夏なら涼んでいるといった具合で、一見無邪気な笑顔を男に向け、

「当たり前でしょ。あたしはあいつらを帝都から追ってきたんだよ。それを横合いから訳の解らない辻斬り強盗に攫われて堪るかって話だよ」
「ほう…貴様は何者だ。見た所、道中騙りか美人局」
「いいや、あたし一人稼業だよ。あんたもよく覚えておきな、女掏摸のカーラ・サイツという者さ」
「ふむ。帝都から追って来たなら拙者が奪うのも、少々気が引けるというものだ。申し遅れたな、拙者はジンナイ・コウサカという者だ」

 その時、遠くからぼんやりと見廻り役人の松明がチラチラと見えだした。ジンナイは、また舌打ちして鬱陶しいとばかりに、橋の下に声を掛けた。
 すると、返事の代わりに小舟がみよしを突き出して、一人の男が櫓を動かしている。ジンナイはカーラに手招きして、お前も捕まったら面倒だろう、と二人して小舟に乗り込んだ。
 見廻り提灯が着いた頃には、川尻が夜の静寂に滔々と流れ、海が月光を反射して銀色の波が立っているのみであった。

 カーラとジンナイを乗せた小舟は、櫓力いっぱいに川を遡り、やがて中流辺りの岸に泊まった。上がった所は小屋一軒。家主は何の稼業かは解らぬが、ジンナイに隠れ家を提供している。
 カーラ達は水浴びをして空き腹を満たし、話している内に夜が明けた。

「お先に、今夜のお礼を言っておくよジンナイさん。あたし達盗人稼業は、一仕事終えるとすぐに姿を消して、何処とも知れぬ場所に行ってしまうからね。あんたも偶には、帝都に息抜きにでも来ると良い。下町はあたしの家みたいなもんだからね。酒場娘カーラって言えばすぐに見つかるよ。そう、それがあたしの表稼業さ」

 ジンナイにこう言って、カーラは昼過ぎまで眠った。その夜にも、勤め人が飲みに出る時刻にぶらりと抜け出して、掏摸を働いた後、また夜明けに帰ってくる。成る程、これではお嫁に行けぬまい。
 そんな事で四日五日、その朝彼女は珍しく眠らずに隠れ家から出て行った。何処へ行くのか、何を目当てに歩くのか。遠目に見ても近くで見ても、到底掏摸には見えぬ、品の良い十五の娘。

 丁度その日は良い天気。雨期にしては珍しく、陽は大空で燦々と輝き麗らかな陽差しを大地に注いでいる。街の雑踏では、商人やその売り子、大道芸の一座に酒売り、菓子作りの者や独楽細工など、彼方此方に雑多な見世物が居並び、日和も良いので盛況並々ならぬものがある。
 その大変な人集りの中、押し揉まれながら迷っているのはグレゴール。その片手では懐中の銭袋を離さない。兄のユフは今日もジパングの下屋敷へお百度参りである。
 ジパング入りの為、船に便乗する許可、入領御免届の二つが必要なのである。願書を出して身元確認手続、お白洲での取り調べなど、大変な手間である。その間、弟の方は手持ち無沙汰なので、兄から、

「偶には遊んで来い」

 と言われているのだが、懐には路銀がぎっしり、後生大事に抱えているので、到底楽しむ気にはなれない。
 悶々と宿にいるのも気性に合わないので、街辻に繰り出したのだが、やはり思い返して戻ろうとした所を人混みに巻き込まれたのである。
 やっとの思いで人波から抜け出した所で、きゃっと軽い叫びがする。見上げてみると、品の良い銀髪娘。人混みに押されて、蹌踉めきながら近付いて来る。
 
 危ないっ、とグレゴールは彼女を支え、少女の身体は風鳥のように、彼の胸に飛び込んだ。
 少女はにっこり礼を言って、小走りに走りすぎていく。グレゴールは、彼女の笑顔を見て絢爛な天女を間近で見たように恍惚としていた。

「可愛いなぁ…。名前、聞いておけば良かったな」

 と、ときめく胸に手をやった時、何か違和感に気が付いた。懐が剃刀の刃味鋭く縦に裂かれ、銭袋が綺麗に消えていた。
 面を蒼白にしたグレゴールは、畜生、と少女を捜したが後の祭り、雑踏に彼女は消えている。掏摸だっ、と狂人が如く走り出し、街辻を走り巡った曲がり角、出会い頭に緑髪の少年とぶつかった。

「痛た…どうしたんですか。掏摸だって騒いでいるから駆け付けてみれば」
「何だお前はっ。遊んでいる場合じゃないんだっ」
「落ち着いてください。まずは手配をですね。そう騒いだって解決しません」

 そう言って、少年は懐から密偵の証である小さな礼状を取り出した。この帝国では、我が国で平安時代に平家が京に放った禿のように、街中に十歳前後の少年の密偵を放っているのだ。
 「密偵」と知るや否、グレゴールは何思ったか、一も二も無く振り切って、一目散に走り去った。
 密偵少年ハンスは、首を傾げてそれを見送り、変な人だな、と呟き、また口笛を吹きながら、十三歳の気儘な少年を装って歩き出していった。
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