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序章
第三話
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碌に知りもしない札博打、悪徳船乗り共のいかさまに苦も無く乗って、カーラは他愛なく金貨二百枚も巻き上げられてしまった。相手は長年の博徒、しかもカーラの手持金を見て言葉には出さないが、結託している。
カーラが顎に手を当てて熟考していると、船乗りが一人、侮蔑の表情を隠しつつ、まだかい、と問いかける。カーラは、待ってよ、とだけ言って札を指で弾きながらまた考えて、一枚手から抜き掛けた時、ふと何気なく天井に視線を移した。
はっと彼女は眼を瞠った。天井から覗き込んでいる少年ハンスと眼が合った。ハンスはぎょっとして慌てて首を引っ込めようとしたが、今更騒いでも後の祭りと思って苦しい機智、上から皆の手札が見えるのを幸いに、カーラに抜き掛けている札を打つな、と眼で合図した。
カーラがハンスを見ていると、右の三枚目を打てという眼の合図。その通りにしてみると、思わぬ勝ちが取れた。次の勝負もハンスに教えられた通りにして勝ち手札、それからはもう独壇場、なにしろ上からハンスが手鏡で船乗り達の手札を映しているので、思惑通りに場が進む。
小一時間ほど賭場は続き、最後には場中の金の殆どはカーラに集まってしまった。彼女は、先程までとは打って変わっての涼しい顔で革袋いっぱいに金貨銀貨を詰め込み、
「ふふふ。面白かったよ。今日はこの辺で、じゃーね」
「おいおいおい。待てよ嬢ちゃん。これで終われるかよ、博打打ちの名が廃るってもんよ」
と、船乗りの一人が立ちかけるのを仲間が止めて、
「まあまあ。カーラさんだってまだ少し此処に逗留するんだから、もう二、三勝負出来るだろうさ。初心者にはとにかく運があるんだから。何しろ、今日の所は眠ろうぜ」
ヘトヘトになった船乗り共は、その場に手枕で寝転がったが、不意にジンナイが立ち上がり、階段を駆け上がって鉄格子に腕を突っ込み、離れ掛けていたハンスの襟首を引き寄せた。
じたばたするハンスの腹を刀の柄頭で突き、彼が蹲っている間に鉄格子の鍵を開けて、彼を階段から蹴落とした。
当然、船乗り共は総立ちになってハンスを見た。まさかこの少年がカーラを勝たせたとは思わないが、彼が密偵である事は知っていたので、普段密偵を憎む凶暴性と惨敗した賭博の鬱憤が、両方同時に勃然と火を噴いたである。
ジンナイは、飢えた狼の群れに肉でも投げるくらいな気持ちでハンスを船乗り共の輪に投げ込んだ。鉄拳、足、木杖に角材等、様々な暴行が須臾にして彼を襲った。
ジンナイはニヤニヤしながらそれを見ていたが、やがて、
「すっかり忘れていたが、今ふと見上げてみたら鉄格子から覗いていやがったから、きっと逃げ出す隙を窺っていたに違いない」
「ど、どうするんだい。ジンナイさん」
「知れた事。御定法で博打は禁じられてるし、逃げられでもしたら藪蛇だからな。あいつらが満足したら、庭先に引っ張り出して叩き斬ってやる」
ハンスは、ビシリビシリと身体を打つ暴行の苦痛に耐えながら、この修羅の獄からどうにかして逃れられないかと思案していた。ここで自分が助からなければ、折角握った大手柄の曙光、再び無明の闇に隠しては、あの人達に申し訳ない、と思うといよいよ命が惜しい。
しかし無情にも、しばらく後、ボロ雑巾のようになったハンスを蝟集して引っ張り出し、庭先の木に荒縄で縛り付けて、ジンナイを待った。
先生、と催促を受けてジンナイはひょいっと庭先に跳び出し、程よい距離から身を沈めて刀に手を掛ける。すると、
「助けてあげてよ、ねえ」
と、カーラが横合いから声を掛けた。ジンナイは瞳だけ動かし、何だ、と答えた。
「こんな幼気な子、可哀想じゃないか。それに密偵一人斬ったところで、大きな仕事が出来るわけじゃないし、ねえ、助けてあげなよ」
「莫迦な冗談は止してくれ。こいつを放したら、俺達の面も割れるし、此処にも逆襲の手入れが来る。俺はまだお縄にはなりたくないぞ」
ジンナイは素っ気なく言い放つと、ぎらと刀の鯉口を切り、流電の如くハンス目掛けて斬り込んでいった。
――役目不心得につき、御役御免という不名誉な文書と共に、衛兵詰所から叩き出された男。十年前から職にも就かず、鳩を飼って鳩を相手に暮らしてきた元見廻り衛兵。
名はリカード・ハイツマン、歳は三十五という働き盛り。実家が豪商なので、免役を幸いに閑宅に籠もって以来、鳩と一緒に陰学者同然の暮らしをしている。時折、山中に出掛けて手飼いの鳩を遊ばせ、自由自在に飼い慣らしている。
しかも最近では、鳩を伝書鳩として操り、街役人時代の友人の寡婦の所へ飛ばしたり、その友人の息子であり、私的に勉学を教えているハンスに指示を出したり、妹とやり取りしている。
妹はテオドラという佳人、数年前から港街ハーフンにあるジパング領事館に住み込んでいる。何の便りを頻々と交わしているのか、いつも密書の使者が鳩なので、彼女の他には誰一人として気が付かないのである。
今日もまた、パタパタと鳩が窓から書斎に飛び込んで来た。待ち侘びていたらしいリカードはすぐに小鳩の足の蝶結びを解いて、几案の上で羊皮紙を伸ばして読み始めた。
読み終わって彼は嬉しそうな顔を見せた。手紙には、いよいよジパング王イエヤス・ミナモトが帰国する事になり、テオドラも供に加わってオオエド城の奥勤めに映ると書いてあった。
「ごめんください」
と、女の声がした。どうぞ、とリカードが声を上げると、入って来たのはハンスの母親ヒルデであった。
彼女もまた、父親の果たせなかった悲願を追う同士である。リカードが彼女に手紙の仔細を伝えると、
「それは良かったですね先生。でも、そうなるとジパングまで鳩が飛ばないといけなくなりますね」
「心配はいりませんよヒルデさん。あれくらいの距離は何でもありません。それにしても、私も考えたものですよ。まさか鳩を通信に使うだなんて」
「うふふ。先生、もうその自慢は通用しませんよ。私も少し調べましたが、伝書鳩はもう数百年前には使われていたそうじゃないですか。全く先生ったら」
「ははは。これは手厳しい…ところで急にどうしたのですか」
と、リカードは急に訪ねてきたわけを問うた。口先では冗談を述べているが、入って来た時から、何処か悄然と心配事を抱えた顔をしている。
ヒルデも憂愁な表情を浮かべて曰く、
「はい…実はハンスがここ暫く家に帰ってないんです。もちろん御役目ですから、家に帰らない事もしばしばありましたが、何の便りも無く、五日間も帰らないなんて…何かあったのかと心配で。それに、帝都から来た旅行者を尾けていったのが最後の目撃らしいんです」
「そうですか。あの母親っ子のハンスが、ヒルデさんに何の報せもせずに五日間…うーむ、解りました。捜しに行ってみましょう」
「私も行きます」
リカードは小鳩を肩に乗せ、街門から出、初夏の陽が燦々と照って、緑の絨毯のようになった草原や木漏れ陽に点々と照らされて涼しげな雑木林を潜って、無縁墓地の集まる丘に登った。登り切って彼は汗を一拭い、初夏とはいえ、歩いていると自然、汗が滲む。(今年は暑くなりそうだな)と思いながら下を覗く。
丘からはハーフンの街が一望できる。瞳を四方に動かすと、紺青の海遠く、小さな島々の影や行き交う船々は夢のようである。近くには人集りが雲霞のようであり、色とりどりの日傘や露店の幕屋根が無機質な石畳の道を彩っている。
そこでリカードはぱっと鳩を放した。手を翳して見ていると、最初は弧を描きながらツーと飛んでいたが、やがて港の方へ飛び去った。
リカードの後ろにいるヒルデは気が気では無い。元々彼女の夫マルクは、リカードの同僚で同じ街役人であった。しかしとある事件で御役御免となり、その後何者かに斬り殺された。以来二人は不遇の身同士、ハンスとも一緒になって、密かにある大事を望んでいる仲であった。
――リカード達の失脚は十年前の事であった。旧都ハープシュタットでの帝権転覆の陰謀が露顕し、首謀者イリーナ・フォン・クライバーは遠流、その他十家ばかりが閉門蟄居を申しつけられた。その事件において、リカードとマルクも素晴らしい活躍をした。
だが、それが悪かった。余りに二人が切れ者過ぎたのである。リカード達は早い段階から帝権打倒の大事が、兵権の無い貴族や学者などに謀れる筈が無い、と睨んでいたのである。
元々この国は、帝国を名乗り始めてから三十年も経っていない新参国である。零細王国であった時代の都がハープシュタットで、旧来の貴族共を置いて二十年前に遷都したので、彼らが不満を抱くのは是非も無い。
加えて、周辺国を津波が押し寄せるような勢いで併呑していったので、無論被征服国家は機会があれば、叛旗を翻そうと面従腹背、常に牙を磨いているのである。
リカードとマルクは八方へ手を回して、様々な機密を探った。すると上がって来たのは意外な人物。
東の島国ジパングの王イエヤス・ミナモト。齢六十を過ぎているが、まだまだ英邁の気質衰えず、武芸百般に掛けては若い者達を一蹴し、家臣達の研学隆武にも怠りない。大小の兵船を領海に浮かべ、陸海での調練に熱心である。最近、イリーナが入領してイエヤスと面会した証拠すらある。
この大国は数年前、帝国に併呑された。しかし実際には、荒海と大風という天然の要害、浜辺に廻らされた延々たる防塁、何より死を寸分も恐れない荒武者共に手を焼いた帝国が、完全自治権と入領制限、毎年の莫大な「下賜品」の代わりにジパングが臣従するという、甚だ不平等な条約を結ばされたというのが正しい。
マルクはジパングこそ今回の黒幕であると確信し、ジパングへの御用改めを願い出る上申書を詰所長官を通して、ハーフンの街奉行へ提出した。
ところが、街奉行、奉行代、詰所長官、誰も彼も相手にせず、彼の上申書は嘲笑と共に突き返された。要するに、皆保身が大事な事勿れ主義。
それでも二人は諦めず、なおも探りの手を緩めない。しかし、忽ち二人は御役御免、文書一枚と共に詰所から追い出された。
「二人とも調子に乗り過ぎたのだ」
「名声に酔って、妄想狂になったに違いない」
等と喧しい周囲の侮蔑に耳を覆って、二人は調査を続けたが、ある夜マルクが見事な逆袈裟で斬られた上、喉を突き刺された状態で発見された。
遺体の傍らには紙片があり、ー怪シキ者、即チ斬ーとジパング語が血文字でしたためてあった。詰所は上役に忖度して早めに捜査を打ち切ってしまった。
それでもリカードは信念を曲げず、ハンスに勉学を教えて剣術を授ける一方、只管ジパングの内部を探ることに腐心してきた。
――今重宝しているのはハンスである。彼は双剣術を自得し、帝国の密偵となったので、何かジパングの事を聞き込むとすぐに知らせてくる。ヒルデもまた、夫の遺志を継いでジパングの内偵を進めている。
鳩は彼方の海沿い、船宿の上に止まった。あそこだ、と二人は丘から降り掛けたが、そこへ不意に、話しかけてくる男がいた。医者とも学者ともつかぬ風采である。
「やあお二方。ご無沙汰しております。何かあったのですか」
「ああ、オスカー先生。実は…」
リカードから事情を聞いたオスカーは、それは大変、と二人に加勢する事を願い出た。
こうして一人の加勢が増えて三人連れ、無縁墓の丘を下りて、鳩の止まった船小屋を目指して歩き出した。
カーラが顎に手を当てて熟考していると、船乗りが一人、侮蔑の表情を隠しつつ、まだかい、と問いかける。カーラは、待ってよ、とだけ言って札を指で弾きながらまた考えて、一枚手から抜き掛けた時、ふと何気なく天井に視線を移した。
はっと彼女は眼を瞠った。天井から覗き込んでいる少年ハンスと眼が合った。ハンスはぎょっとして慌てて首を引っ込めようとしたが、今更騒いでも後の祭りと思って苦しい機智、上から皆の手札が見えるのを幸いに、カーラに抜き掛けている札を打つな、と眼で合図した。
カーラがハンスを見ていると、右の三枚目を打てという眼の合図。その通りにしてみると、思わぬ勝ちが取れた。次の勝負もハンスに教えられた通りにして勝ち手札、それからはもう独壇場、なにしろ上からハンスが手鏡で船乗り達の手札を映しているので、思惑通りに場が進む。
小一時間ほど賭場は続き、最後には場中の金の殆どはカーラに集まってしまった。彼女は、先程までとは打って変わっての涼しい顔で革袋いっぱいに金貨銀貨を詰め込み、
「ふふふ。面白かったよ。今日はこの辺で、じゃーね」
「おいおいおい。待てよ嬢ちゃん。これで終われるかよ、博打打ちの名が廃るってもんよ」
と、船乗りの一人が立ちかけるのを仲間が止めて、
「まあまあ。カーラさんだってまだ少し此処に逗留するんだから、もう二、三勝負出来るだろうさ。初心者にはとにかく運があるんだから。何しろ、今日の所は眠ろうぜ」
ヘトヘトになった船乗り共は、その場に手枕で寝転がったが、不意にジンナイが立ち上がり、階段を駆け上がって鉄格子に腕を突っ込み、離れ掛けていたハンスの襟首を引き寄せた。
じたばたするハンスの腹を刀の柄頭で突き、彼が蹲っている間に鉄格子の鍵を開けて、彼を階段から蹴落とした。
当然、船乗り共は総立ちになってハンスを見た。まさかこの少年がカーラを勝たせたとは思わないが、彼が密偵である事は知っていたので、普段密偵を憎む凶暴性と惨敗した賭博の鬱憤が、両方同時に勃然と火を噴いたである。
ジンナイは、飢えた狼の群れに肉でも投げるくらいな気持ちでハンスを船乗り共の輪に投げ込んだ。鉄拳、足、木杖に角材等、様々な暴行が須臾にして彼を襲った。
ジンナイはニヤニヤしながらそれを見ていたが、やがて、
「すっかり忘れていたが、今ふと見上げてみたら鉄格子から覗いていやがったから、きっと逃げ出す隙を窺っていたに違いない」
「ど、どうするんだい。ジンナイさん」
「知れた事。御定法で博打は禁じられてるし、逃げられでもしたら藪蛇だからな。あいつらが満足したら、庭先に引っ張り出して叩き斬ってやる」
ハンスは、ビシリビシリと身体を打つ暴行の苦痛に耐えながら、この修羅の獄からどうにかして逃れられないかと思案していた。ここで自分が助からなければ、折角握った大手柄の曙光、再び無明の闇に隠しては、あの人達に申し訳ない、と思うといよいよ命が惜しい。
しかし無情にも、しばらく後、ボロ雑巾のようになったハンスを蝟集して引っ張り出し、庭先の木に荒縄で縛り付けて、ジンナイを待った。
先生、と催促を受けてジンナイはひょいっと庭先に跳び出し、程よい距離から身を沈めて刀に手を掛ける。すると、
「助けてあげてよ、ねえ」
と、カーラが横合いから声を掛けた。ジンナイは瞳だけ動かし、何だ、と答えた。
「こんな幼気な子、可哀想じゃないか。それに密偵一人斬ったところで、大きな仕事が出来るわけじゃないし、ねえ、助けてあげなよ」
「莫迦な冗談は止してくれ。こいつを放したら、俺達の面も割れるし、此処にも逆襲の手入れが来る。俺はまだお縄にはなりたくないぞ」
ジンナイは素っ気なく言い放つと、ぎらと刀の鯉口を切り、流電の如くハンス目掛けて斬り込んでいった。
――役目不心得につき、御役御免という不名誉な文書と共に、衛兵詰所から叩き出された男。十年前から職にも就かず、鳩を飼って鳩を相手に暮らしてきた元見廻り衛兵。
名はリカード・ハイツマン、歳は三十五という働き盛り。実家が豪商なので、免役を幸いに閑宅に籠もって以来、鳩と一緒に陰学者同然の暮らしをしている。時折、山中に出掛けて手飼いの鳩を遊ばせ、自由自在に飼い慣らしている。
しかも最近では、鳩を伝書鳩として操り、街役人時代の友人の寡婦の所へ飛ばしたり、その友人の息子であり、私的に勉学を教えているハンスに指示を出したり、妹とやり取りしている。
妹はテオドラという佳人、数年前から港街ハーフンにあるジパング領事館に住み込んでいる。何の便りを頻々と交わしているのか、いつも密書の使者が鳩なので、彼女の他には誰一人として気が付かないのである。
今日もまた、パタパタと鳩が窓から書斎に飛び込んで来た。待ち侘びていたらしいリカードはすぐに小鳩の足の蝶結びを解いて、几案の上で羊皮紙を伸ばして読み始めた。
読み終わって彼は嬉しそうな顔を見せた。手紙には、いよいよジパング王イエヤス・ミナモトが帰国する事になり、テオドラも供に加わってオオエド城の奥勤めに映ると書いてあった。
「ごめんください」
と、女の声がした。どうぞ、とリカードが声を上げると、入って来たのはハンスの母親ヒルデであった。
彼女もまた、父親の果たせなかった悲願を追う同士である。リカードが彼女に手紙の仔細を伝えると、
「それは良かったですね先生。でも、そうなるとジパングまで鳩が飛ばないといけなくなりますね」
「心配はいりませんよヒルデさん。あれくらいの距離は何でもありません。それにしても、私も考えたものですよ。まさか鳩を通信に使うだなんて」
「うふふ。先生、もうその自慢は通用しませんよ。私も少し調べましたが、伝書鳩はもう数百年前には使われていたそうじゃないですか。全く先生ったら」
「ははは。これは手厳しい…ところで急にどうしたのですか」
と、リカードは急に訪ねてきたわけを問うた。口先では冗談を述べているが、入って来た時から、何処か悄然と心配事を抱えた顔をしている。
ヒルデも憂愁な表情を浮かべて曰く、
「はい…実はハンスがここ暫く家に帰ってないんです。もちろん御役目ですから、家に帰らない事もしばしばありましたが、何の便りも無く、五日間も帰らないなんて…何かあったのかと心配で。それに、帝都から来た旅行者を尾けていったのが最後の目撃らしいんです」
「そうですか。あの母親っ子のハンスが、ヒルデさんに何の報せもせずに五日間…うーむ、解りました。捜しに行ってみましょう」
「私も行きます」
リカードは小鳩を肩に乗せ、街門から出、初夏の陽が燦々と照って、緑の絨毯のようになった草原や木漏れ陽に点々と照らされて涼しげな雑木林を潜って、無縁墓地の集まる丘に登った。登り切って彼は汗を一拭い、初夏とはいえ、歩いていると自然、汗が滲む。(今年は暑くなりそうだな)と思いながら下を覗く。
丘からはハーフンの街が一望できる。瞳を四方に動かすと、紺青の海遠く、小さな島々の影や行き交う船々は夢のようである。近くには人集りが雲霞のようであり、色とりどりの日傘や露店の幕屋根が無機質な石畳の道を彩っている。
そこでリカードはぱっと鳩を放した。手を翳して見ていると、最初は弧を描きながらツーと飛んでいたが、やがて港の方へ飛び去った。
リカードの後ろにいるヒルデは気が気では無い。元々彼女の夫マルクは、リカードの同僚で同じ街役人であった。しかしとある事件で御役御免となり、その後何者かに斬り殺された。以来二人は不遇の身同士、ハンスとも一緒になって、密かにある大事を望んでいる仲であった。
――リカード達の失脚は十年前の事であった。旧都ハープシュタットでの帝権転覆の陰謀が露顕し、首謀者イリーナ・フォン・クライバーは遠流、その他十家ばかりが閉門蟄居を申しつけられた。その事件において、リカードとマルクも素晴らしい活躍をした。
だが、それが悪かった。余りに二人が切れ者過ぎたのである。リカード達は早い段階から帝権打倒の大事が、兵権の無い貴族や学者などに謀れる筈が無い、と睨んでいたのである。
元々この国は、帝国を名乗り始めてから三十年も経っていない新参国である。零細王国であった時代の都がハープシュタットで、旧来の貴族共を置いて二十年前に遷都したので、彼らが不満を抱くのは是非も無い。
加えて、周辺国を津波が押し寄せるような勢いで併呑していったので、無論被征服国家は機会があれば、叛旗を翻そうと面従腹背、常に牙を磨いているのである。
リカードとマルクは八方へ手を回して、様々な機密を探った。すると上がって来たのは意外な人物。
東の島国ジパングの王イエヤス・ミナモト。齢六十を過ぎているが、まだまだ英邁の気質衰えず、武芸百般に掛けては若い者達を一蹴し、家臣達の研学隆武にも怠りない。大小の兵船を領海に浮かべ、陸海での調練に熱心である。最近、イリーナが入領してイエヤスと面会した証拠すらある。
この大国は数年前、帝国に併呑された。しかし実際には、荒海と大風という天然の要害、浜辺に廻らされた延々たる防塁、何より死を寸分も恐れない荒武者共に手を焼いた帝国が、完全自治権と入領制限、毎年の莫大な「下賜品」の代わりにジパングが臣従するという、甚だ不平等な条約を結ばされたというのが正しい。
マルクはジパングこそ今回の黒幕であると確信し、ジパングへの御用改めを願い出る上申書を詰所長官を通して、ハーフンの街奉行へ提出した。
ところが、街奉行、奉行代、詰所長官、誰も彼も相手にせず、彼の上申書は嘲笑と共に突き返された。要するに、皆保身が大事な事勿れ主義。
それでも二人は諦めず、なおも探りの手を緩めない。しかし、忽ち二人は御役御免、文書一枚と共に詰所から追い出された。
「二人とも調子に乗り過ぎたのだ」
「名声に酔って、妄想狂になったに違いない」
等と喧しい周囲の侮蔑に耳を覆って、二人は調査を続けたが、ある夜マルクが見事な逆袈裟で斬られた上、喉を突き刺された状態で発見された。
遺体の傍らには紙片があり、ー怪シキ者、即チ斬ーとジパング語が血文字でしたためてあった。詰所は上役に忖度して早めに捜査を打ち切ってしまった。
それでもリカードは信念を曲げず、ハンスに勉学を教えて剣術を授ける一方、只管ジパングの内部を探ることに腐心してきた。
――今重宝しているのはハンスである。彼は双剣術を自得し、帝国の密偵となったので、何かジパングの事を聞き込むとすぐに知らせてくる。ヒルデもまた、夫の遺志を継いでジパングの内偵を進めている。
鳩は彼方の海沿い、船宿の上に止まった。あそこだ、と二人は丘から降り掛けたが、そこへ不意に、話しかけてくる男がいた。医者とも学者ともつかぬ風采である。
「やあお二方。ご無沙汰しております。何かあったのですか」
「ああ、オスカー先生。実は…」
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