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序章
第五話
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アオイ達三人の侍が案内された個室は風通しの良い表二階、佳肴杯盤が饗され、彼らの馴染みであるクララが酌をするため、部屋にいた。
侍の一人イッカク、少し酔いが廻ったのか、彼女に酒瓶を向けて、
「お前はいつ見ても艶やかだな。ほれ一杯どうだ」
ご冗談を、とクララは笑っているが心中穏やかではない。美しいと言われること自体、今の彼女に取っては病に錐を向けられるような苦痛であった。
しかしイッカクはしつこく彼女に杯を勧める。話を聞いてみると、彼らの主君であるイエヤスがジパングに帰るので今日は別れの杯を酌み交わしにきたのだという。
このイッカクという男は少しクララに惚れているらしく、酒も相まって今宵は殊の外しつこい。面倒な酔っ払いをクララがあしらいかねていると、アオイが割り込んで、
「ツカハラ様、お辞めください。少し戯れが過ぎますよ。それに、拙者達の本国には他領物は入れません」
「そんな事は解っているぞアオイ。お前はいつもそう厳しいから、いつまで経っても嫁の貰い手が現れないのだぞ。ははは」
「拙者に男性などいりませんっ。拙者は一人でも生きていけますっ」
「オオ、赤くなったな。それは酔いか怒りか。テンドウ殿にでも言い寄ったらどうだ。ははは」
などと侍共がアオイを揶揄っていると、クララが横合いからしおらしく謝りながら、どうしてジパング往来はそんなにも不便になったのかと尋ねるが、アオイは素っ気なく、殿の心中ゆえ知りません、と答えツンと拗ねてしまった様子で椅子に座り直した。
クララはツカハラに、
「そんなに厳しいのでしたら、真に恋しい方がジパングにいるときは蛇にでもなって、あの海を越えなくてはいけませんね」
「ははは。当世女にそんな心中立は聞かぬ所だ」
「いいえ! 私がもしも本当に愛しい人を見つけたらどんな嶮しい道でも、きっと踏破してみせますっ」
「これは恐ろしい。して、そのお相手はテンドウ殿か、このツカハラか、それとも…まさかアオイか」
「ははは。これは良い。アオイ、貰われてやれ」
「ちょっとツカハラ様っ。揶揄わないでくださいっ。テンドウ様も、いい加減怒りますよっ」
と、二人の男が一人を揶揄って笑い崩れている間に、クララは身を窓に凭せ掛け、自分の空想を真実にして考え込んでいる。
はしゃいでいた方も、やや落ち着いた様子で歓談混じりにアオイのご機嫌を取っていると、すぐ近くから喨々と水のせせらぎにも似た、笛の音階が開け放たれた窓の外から流れ込んでくる
アオイはうっとりした様子で聞き惚れて、窓から顔出し覗き込み、視界に見えるは一人の楽士、店先に立って小さな笛を吹いている。
「まだ若い方ですね。あのように一心に吹いていらっしゃるのに、誰もお金を上げていませんね」
「どおれ、拙者が喜捨してつかわそう。ほれ、受け取れ乞食楽士っ」
と、だいぶ酩酊したサスケが手摺から身を乗り出させ、ぱっと銀貨を数枚投げつけた。楽士は涼しげな横目でジロリと二階を見つめたが、足元の銀貨には眼もくれず、蒼惶とそこを去りかけた。
同時に、戛々と間近く大地を割る蹄の音が聞こえてきた。ドンと止まったのは街道送りのボロ馬車一つ、着くが早いか二人の男、転がるように降りて来た。
「姉ちゃん、姉ちゃんっ。今帰ったよっ。ユフさんを連れてきたよっ」
「ああっ。やっと来たんだねっ。今行くから待っていてっ」
クララは先の楽士も客も忘れ、トントントンと階段を降りていった。
――ここは魚料理屋の離れである。殆ど半身、包帯姿の怪我人は、夏の暑さの寝苦しさと瘡の痛みに呻きを太く、時折板敷きの上で現の身を悶えさせていた。タタタッと靴の音が樅や楓の植え込みの間を縫ってくる。後へ続くは一つの影、先程ボロ馬車を降りたばかりのユフである。
先に走っていたクララが木戸を開けて中に入った。三畳ほどの別棟で、庭先には魚を飼っておく生洲がある。調理場の喧噪は近いが、板塀に囲われた箱庭の上に、色町の火光とはまた違う、静かに輝く銀の月。
案内されるがままに、ユフは佩剣を外して中に入った。薬草の匂いがプーンと鼻を衝く。此処まで来る間に、クララの弟から大体の事情は聞いていたが、いざ見てみれば、そこには変わり果てた弟の姿。思わずユフは息を呑んだ。
グレゴールは、ジンナイの居合いの前に背中を割られたが、九死に一生を拾って此処に寝かされているが、今なお気息奄々と苦患の枕に昏睡している。
「グレゴール君っ。グレゴール君、苦しいの? しっかりして、お兄さんが来たよ」
「えっ。兄さんがっ」
と、黄泉から帰って来た人のようにグレゴールは起き上がろうとしたが、兄のユフがそれを止め、無理に動くな、と彼を優しく牀に戻した。
グレゴールは涙ながらに、
「ごめんよ、兄さん…。俺はもう多分助からない。だから、兄さんが一人でジパングに行ってくれ…」
「何言ってんだ、気弱になるな。お前は俺のたった一人の家族なんだ。それに養生は気の持ちようだ。今回の仕事は、ミーナさんの手紙を持ってジパングに行くっていう危険な仕事なんだ。ティーレ家の運命だって掛かってるんだ。しっかりしろ」
「うう…そう言われると、助かりたいよ。せめてヨーデル様に手紙だけでも…」
グレゴールは唇を噛んで眼を閉じ、気丈な面持ちで言ったが、呪われた太刀瘡痛み出し、蒼白い皮膚には汗滲む。クララも思わず貰い泣き、手拭いで額を拭いてやる。
水で絞り直そうとして、彼女が立ち上がりかけると、開け放たれた木戸の向こうに怪しい影、バサッと俄に駆け出した。クララが駆け出してみると、表二階の客、イッカクが妙な気振で母屋に駆け戻っていくのが見えた。
イッカクは母屋の個室に戻るや否、息巻いた様子で連れの二人へ鼻息荒く、
「おい、二人とも大変だぞっ。離れの方に怪しい奴がいるっ」
「どうしたんですかツカハラ様」
「実はな…」
イッカクは離れで盗み聞きしたユフの言葉、また怪しむべき様子を偵吏の如く、アオイとサスケに報告した。
共に浅酌していた二人は、クララの後を尾けていったイッカクを見、アオイは呆れ、サスケは面白がって、二人してあれこれ推量していたところであったが、彼の語調や聞き捨てならない事実を聞いて、思わず酒を下に置く。
アオイとサスケは顔見合わせて、
「ティーレ家と言えば、代々、帝国の隠密頭。その名を口にしてジパングに入る相談などしているというなら、間違い無く帝国からの間諜ですよ。テンドウ様、どうしましょう? 」
「知れた事。縛り上げて領事館に放り込み、とくと吟味するより他には無い。大事はあるまいが、アオイも一緒に来てくれ」
「承知しました」
アオイはそう言うや否、刀を右に引っ提げて、小さな体躯を起こさせる。サスケとイッカクを先に立たせて、酔い覚ましもあらばと歩を進めた。
涼風ならぬ一陣の凄風、三人の侍が燃える瞳を並べて歩く。その出会い頭、曲がり角で給仕の女と出くわした。彼女はただならぬ血相の三人に驚いた様子ではあったが、おどおどしつつ、
「あ、あの…先程お金を頂いたという楽士の方が、是非お会いしたいと仰っていますが…」
「さっきの男が? ふん、どうせ何か言い掛かりを付けて、もっとせしめようとでもしてるんだろう。その生意気な奴を連れて来いっ。細首を斬り落としてくれるっ」
アオイは横合いから、所詮は楽士ですよ、と怒るサスケを諫め、(今は大事がありますよ)と眼で示しながら先を急がせた。
すると、丁度彼女達の前にあった個室から給仕を呼ぶ声がする。それを良い機に、女がそこへ向かうと、中には少女の一人客、煌びやかな料理を前に、膝を上げて寛いでいる。その少女は短い銀髪で翠眼、何処のお嬢様かという風だが、けしからぬはこの少女、卓の上に酒瓶を置いて、粋な煙管を吹かせつつ、細い紅唇から煙をスパッとくゆらせた。
少女は、給仕に
「ごめんなさいね、忙しそうなところへ」
「いいえ。何か御用ですか? 」
「ああ、さっきの楽士さんを呼んで貰いたくて。お隣の方々は断ったみたいですけど、一曲奏でて貰いたいんですよ」
それを聞くや否、揶揄されたような気がしたサスケが俄に怒りだし、おのれ、と憤声を漏らして猛獣のように、少女に食ってかかりそうになったが、またしてもアオイに止められ、
「テンドウ様、こんな事をしている間に、離れの奴らに気付かれたらどうするんですか。ジパングの侍だと知られたら、風を食らって逃げられますよ」
「そうだぞテンドウ殿、さあ早くっ」
バタバタと床板を踏み鳴らして外に躍り出し、料理屋の裏庭に夜露を被って忍び込むと、人の気配にさとい生洲の魚達、バシャッと水面に映る月を崩した。
後ろを制しながら、先に立ったイッカクが、ジャリジャリと庭の砂を静かにふみながら、小屋の中を静かに覗き込むと、クララは居合わせないでユフ一人で、グレゴールの苦しげな寝顔を見守りつつ、色町の享楽を余所に、深い思案に満ちている。
無言の内に頷いて、ばっと小屋に躍り込んだ侍達。すわこそ、と立ちかけるユフを蹴倒し、むんずと腕を捻じ上げて、
「ジパングに入り込もうとする帝国のネズミめっ。大人しく拙者達に同行しろっ」
「な、何の事ですかっ。俺達は旅の途中で弟が辻斬りに斬られたんで、此処にお世話になってるんです」
のっけからイッカクは、ユフの図星を指して相手の胆を潰しに掛かったが、流石にユフも手慣れたもの、色を隠してさあらぬ様子、取られた腕を取らせたままで、慌てぬ様子で言い返す。
しかし癪に障ったかイッカクが、ドンと彼を組み伏せて、頭を床に押さえつけ、
「言い訳は結構だっ。仔細あらば領事館で充分に聞いてやろうっ。とにかく付いて来いっ」
唾を飛ばして怒鳴るイッカク、それでも堪えるユフを見て、むくりと起きたグレゴール、震える手で剣を取り、兄の危急を助けんと、ぎらと抜いて突き掛かる。
火光を流した刃の錵、忽ちイッカクそれを見て、小癪な、と空いた右手で刀を抜いて、発止とそれを斬り返す。さなきだに仰け反ったグレゴール、同時に脾腹を蹴り飛ばされ、忽ち牀から転げ落ちる。
彼が転がった弾みに灯火が消え、辺り一面闇となり、蒼白い月明かりが差し込んだ。
大事は破綻した、大事は露顕した! ユフは悲壮な覚悟を抱き、いきなり腕を振りほどき、やにわにイッカクを蹴飛ばした。
うわっ、と不意を喰らったうわずり声、イッカクが蹌踉けていく間に、掴むが早いか、ぎらと抜かれたユフの剣、鞘から走る風もろとも、彼は小屋の外に躍り出た。それを狙った一人の影、颯然刀を振り下ろす。ひらりと躱したユフの前、サスケが振りかぶる第二撃! キラリと月を反射して、流電の如く払われる。
さっと身を引き今度はユフが、無二無三の刃交を挑む。サスケはかすりを受けて後退り、顳顬にツーと血が流れる。途端、ユフの前にもう一本、助太刀に入ったアオイの刀。また更に、後ろから彼を狙う一人の男、小屋から出て来たイッカクである。
三方から囲繞されたユフ一人、汗もしとどに焦るのみ、剣気に命を磨り減らされ、見る間に顔も死相となる。哀れ、ここに一人の男が使命を半ばに膾斬りとなって、無念の鬼となろうとしているのを囃すかの如く、世間は今宵も弦歌を奏で、河岸に流れる宴の騒ぎ、歓楽街の客が唄う、小憎いほど良い酒の歌。
「小童、覚悟っ」
と、イッカクぱっと躍り込み、ユフの鼻先目掛けて突き込んだ。くっ、とユフは剣を捻ったが、それより早く飛ぶ切っ先――間一髪、ユフは咄嗟に身を投げ出した。
しかし頬をかすめた刀瘡、落とした剣は早遠く、なおもイッカクが刀を手に迫り来る。受け身に受け身を重ねてじりじりと、ユフは生洲に追い詰められる。
それ見たアオイは柄手に力を入れ、澄んだ瞳に殺気を込め、ぱっと躍り込んでただ一太刀、ユフの後ろ袈裟から斬り込んだ――かと思われた時である。
カラッと妙な音がして、アオイの刀は意外な方へ逸れていく。何っ、と驚いて見れば、旋風の如き黒い影、イッカクの脾腹に一撃加え、サスケを掴んで生洲へ投げた。
「な、何奴っ」
女声に怒気を孕ませ、構え直ったアオイが見たのは、何ぞ測らん先の楽士。注ぐ月光に照らされて、面は玲瓏、髪は金、それでいて眉から鼻筋は凜とした気性の象徴。余りに美男な青年一人、鉄笛構えて立っていた。
侍の一人イッカク、少し酔いが廻ったのか、彼女に酒瓶を向けて、
「お前はいつ見ても艶やかだな。ほれ一杯どうだ」
ご冗談を、とクララは笑っているが心中穏やかではない。美しいと言われること自体、今の彼女に取っては病に錐を向けられるような苦痛であった。
しかしイッカクはしつこく彼女に杯を勧める。話を聞いてみると、彼らの主君であるイエヤスがジパングに帰るので今日は別れの杯を酌み交わしにきたのだという。
このイッカクという男は少しクララに惚れているらしく、酒も相まって今宵は殊の外しつこい。面倒な酔っ払いをクララがあしらいかねていると、アオイが割り込んで、
「ツカハラ様、お辞めください。少し戯れが過ぎますよ。それに、拙者達の本国には他領物は入れません」
「そんな事は解っているぞアオイ。お前はいつもそう厳しいから、いつまで経っても嫁の貰い手が現れないのだぞ。ははは」
「拙者に男性などいりませんっ。拙者は一人でも生きていけますっ」
「オオ、赤くなったな。それは酔いか怒りか。テンドウ殿にでも言い寄ったらどうだ。ははは」
などと侍共がアオイを揶揄っていると、クララが横合いからしおらしく謝りながら、どうしてジパング往来はそんなにも不便になったのかと尋ねるが、アオイは素っ気なく、殿の心中ゆえ知りません、と答えツンと拗ねてしまった様子で椅子に座り直した。
クララはツカハラに、
「そんなに厳しいのでしたら、真に恋しい方がジパングにいるときは蛇にでもなって、あの海を越えなくてはいけませんね」
「ははは。当世女にそんな心中立は聞かぬ所だ」
「いいえ! 私がもしも本当に愛しい人を見つけたらどんな嶮しい道でも、きっと踏破してみせますっ」
「これは恐ろしい。して、そのお相手はテンドウ殿か、このツカハラか、それとも…まさかアオイか」
「ははは。これは良い。アオイ、貰われてやれ」
「ちょっとツカハラ様っ。揶揄わないでくださいっ。テンドウ様も、いい加減怒りますよっ」
と、二人の男が一人を揶揄って笑い崩れている間に、クララは身を窓に凭せ掛け、自分の空想を真実にして考え込んでいる。
はしゃいでいた方も、やや落ち着いた様子で歓談混じりにアオイのご機嫌を取っていると、すぐ近くから喨々と水のせせらぎにも似た、笛の音階が開け放たれた窓の外から流れ込んでくる
アオイはうっとりした様子で聞き惚れて、窓から顔出し覗き込み、視界に見えるは一人の楽士、店先に立って小さな笛を吹いている。
「まだ若い方ですね。あのように一心に吹いていらっしゃるのに、誰もお金を上げていませんね」
「どおれ、拙者が喜捨してつかわそう。ほれ、受け取れ乞食楽士っ」
と、だいぶ酩酊したサスケが手摺から身を乗り出させ、ぱっと銀貨を数枚投げつけた。楽士は涼しげな横目でジロリと二階を見つめたが、足元の銀貨には眼もくれず、蒼惶とそこを去りかけた。
同時に、戛々と間近く大地を割る蹄の音が聞こえてきた。ドンと止まったのは街道送りのボロ馬車一つ、着くが早いか二人の男、転がるように降りて来た。
「姉ちゃん、姉ちゃんっ。今帰ったよっ。ユフさんを連れてきたよっ」
「ああっ。やっと来たんだねっ。今行くから待っていてっ」
クララは先の楽士も客も忘れ、トントントンと階段を降りていった。
――ここは魚料理屋の離れである。殆ど半身、包帯姿の怪我人は、夏の暑さの寝苦しさと瘡の痛みに呻きを太く、時折板敷きの上で現の身を悶えさせていた。タタタッと靴の音が樅や楓の植え込みの間を縫ってくる。後へ続くは一つの影、先程ボロ馬車を降りたばかりのユフである。
先に走っていたクララが木戸を開けて中に入った。三畳ほどの別棟で、庭先には魚を飼っておく生洲がある。調理場の喧噪は近いが、板塀に囲われた箱庭の上に、色町の火光とはまた違う、静かに輝く銀の月。
案内されるがままに、ユフは佩剣を外して中に入った。薬草の匂いがプーンと鼻を衝く。此処まで来る間に、クララの弟から大体の事情は聞いていたが、いざ見てみれば、そこには変わり果てた弟の姿。思わずユフは息を呑んだ。
グレゴールは、ジンナイの居合いの前に背中を割られたが、九死に一生を拾って此処に寝かされているが、今なお気息奄々と苦患の枕に昏睡している。
「グレゴール君っ。グレゴール君、苦しいの? しっかりして、お兄さんが来たよ」
「えっ。兄さんがっ」
と、黄泉から帰って来た人のようにグレゴールは起き上がろうとしたが、兄のユフがそれを止め、無理に動くな、と彼を優しく牀に戻した。
グレゴールは涙ながらに、
「ごめんよ、兄さん…。俺はもう多分助からない。だから、兄さんが一人でジパングに行ってくれ…」
「何言ってんだ、気弱になるな。お前は俺のたった一人の家族なんだ。それに養生は気の持ちようだ。今回の仕事は、ミーナさんの手紙を持ってジパングに行くっていう危険な仕事なんだ。ティーレ家の運命だって掛かってるんだ。しっかりしろ」
「うう…そう言われると、助かりたいよ。せめてヨーデル様に手紙だけでも…」
グレゴールは唇を噛んで眼を閉じ、気丈な面持ちで言ったが、呪われた太刀瘡痛み出し、蒼白い皮膚には汗滲む。クララも思わず貰い泣き、手拭いで額を拭いてやる。
水で絞り直そうとして、彼女が立ち上がりかけると、開け放たれた木戸の向こうに怪しい影、バサッと俄に駆け出した。クララが駆け出してみると、表二階の客、イッカクが妙な気振で母屋に駆け戻っていくのが見えた。
イッカクは母屋の個室に戻るや否、息巻いた様子で連れの二人へ鼻息荒く、
「おい、二人とも大変だぞっ。離れの方に怪しい奴がいるっ」
「どうしたんですかツカハラ様」
「実はな…」
イッカクは離れで盗み聞きしたユフの言葉、また怪しむべき様子を偵吏の如く、アオイとサスケに報告した。
共に浅酌していた二人は、クララの後を尾けていったイッカクを見、アオイは呆れ、サスケは面白がって、二人してあれこれ推量していたところであったが、彼の語調や聞き捨てならない事実を聞いて、思わず酒を下に置く。
アオイとサスケは顔見合わせて、
「ティーレ家と言えば、代々、帝国の隠密頭。その名を口にしてジパングに入る相談などしているというなら、間違い無く帝国からの間諜ですよ。テンドウ様、どうしましょう? 」
「知れた事。縛り上げて領事館に放り込み、とくと吟味するより他には無い。大事はあるまいが、アオイも一緒に来てくれ」
「承知しました」
アオイはそう言うや否、刀を右に引っ提げて、小さな体躯を起こさせる。サスケとイッカクを先に立たせて、酔い覚ましもあらばと歩を進めた。
涼風ならぬ一陣の凄風、三人の侍が燃える瞳を並べて歩く。その出会い頭、曲がり角で給仕の女と出くわした。彼女はただならぬ血相の三人に驚いた様子ではあったが、おどおどしつつ、
「あ、あの…先程お金を頂いたという楽士の方が、是非お会いしたいと仰っていますが…」
「さっきの男が? ふん、どうせ何か言い掛かりを付けて、もっとせしめようとでもしてるんだろう。その生意気な奴を連れて来いっ。細首を斬り落としてくれるっ」
アオイは横合いから、所詮は楽士ですよ、と怒るサスケを諫め、(今は大事がありますよ)と眼で示しながら先を急がせた。
すると、丁度彼女達の前にあった個室から給仕を呼ぶ声がする。それを良い機に、女がそこへ向かうと、中には少女の一人客、煌びやかな料理を前に、膝を上げて寛いでいる。その少女は短い銀髪で翠眼、何処のお嬢様かという風だが、けしからぬはこの少女、卓の上に酒瓶を置いて、粋な煙管を吹かせつつ、細い紅唇から煙をスパッとくゆらせた。
少女は、給仕に
「ごめんなさいね、忙しそうなところへ」
「いいえ。何か御用ですか? 」
「ああ、さっきの楽士さんを呼んで貰いたくて。お隣の方々は断ったみたいですけど、一曲奏でて貰いたいんですよ」
それを聞くや否、揶揄されたような気がしたサスケが俄に怒りだし、おのれ、と憤声を漏らして猛獣のように、少女に食ってかかりそうになったが、またしてもアオイに止められ、
「テンドウ様、こんな事をしている間に、離れの奴らに気付かれたらどうするんですか。ジパングの侍だと知られたら、風を食らって逃げられますよ」
「そうだぞテンドウ殿、さあ早くっ」
バタバタと床板を踏み鳴らして外に躍り出し、料理屋の裏庭に夜露を被って忍び込むと、人の気配にさとい生洲の魚達、バシャッと水面に映る月を崩した。
後ろを制しながら、先に立ったイッカクが、ジャリジャリと庭の砂を静かにふみながら、小屋の中を静かに覗き込むと、クララは居合わせないでユフ一人で、グレゴールの苦しげな寝顔を見守りつつ、色町の享楽を余所に、深い思案に満ちている。
無言の内に頷いて、ばっと小屋に躍り込んだ侍達。すわこそ、と立ちかけるユフを蹴倒し、むんずと腕を捻じ上げて、
「ジパングに入り込もうとする帝国のネズミめっ。大人しく拙者達に同行しろっ」
「な、何の事ですかっ。俺達は旅の途中で弟が辻斬りに斬られたんで、此処にお世話になってるんです」
のっけからイッカクは、ユフの図星を指して相手の胆を潰しに掛かったが、流石にユフも手慣れたもの、色を隠してさあらぬ様子、取られた腕を取らせたままで、慌てぬ様子で言い返す。
しかし癪に障ったかイッカクが、ドンと彼を組み伏せて、頭を床に押さえつけ、
「言い訳は結構だっ。仔細あらば領事館で充分に聞いてやろうっ。とにかく付いて来いっ」
唾を飛ばして怒鳴るイッカク、それでも堪えるユフを見て、むくりと起きたグレゴール、震える手で剣を取り、兄の危急を助けんと、ぎらと抜いて突き掛かる。
火光を流した刃の錵、忽ちイッカクそれを見て、小癪な、と空いた右手で刀を抜いて、発止とそれを斬り返す。さなきだに仰け反ったグレゴール、同時に脾腹を蹴り飛ばされ、忽ち牀から転げ落ちる。
彼が転がった弾みに灯火が消え、辺り一面闇となり、蒼白い月明かりが差し込んだ。
大事は破綻した、大事は露顕した! ユフは悲壮な覚悟を抱き、いきなり腕を振りほどき、やにわにイッカクを蹴飛ばした。
うわっ、と不意を喰らったうわずり声、イッカクが蹌踉けていく間に、掴むが早いか、ぎらと抜かれたユフの剣、鞘から走る風もろとも、彼は小屋の外に躍り出た。それを狙った一人の影、颯然刀を振り下ろす。ひらりと躱したユフの前、サスケが振りかぶる第二撃! キラリと月を反射して、流電の如く払われる。
さっと身を引き今度はユフが、無二無三の刃交を挑む。サスケはかすりを受けて後退り、顳顬にツーと血が流れる。途端、ユフの前にもう一本、助太刀に入ったアオイの刀。また更に、後ろから彼を狙う一人の男、小屋から出て来たイッカクである。
三方から囲繞されたユフ一人、汗もしとどに焦るのみ、剣気に命を磨り減らされ、見る間に顔も死相となる。哀れ、ここに一人の男が使命を半ばに膾斬りとなって、無念の鬼となろうとしているのを囃すかの如く、世間は今宵も弦歌を奏で、河岸に流れる宴の騒ぎ、歓楽街の客が唄う、小憎いほど良い酒の歌。
「小童、覚悟っ」
と、イッカクぱっと躍り込み、ユフの鼻先目掛けて突き込んだ。くっ、とユフは剣を捻ったが、それより早く飛ぶ切っ先――間一髪、ユフは咄嗟に身を投げ出した。
しかし頬をかすめた刀瘡、落とした剣は早遠く、なおもイッカクが刀を手に迫り来る。受け身に受け身を重ねてじりじりと、ユフは生洲に追い詰められる。
それ見たアオイは柄手に力を入れ、澄んだ瞳に殺気を込め、ぱっと躍り込んでただ一太刀、ユフの後ろ袈裟から斬り込んだ――かと思われた時である。
カラッと妙な音がして、アオイの刀は意外な方へ逸れていく。何っ、と驚いて見れば、旋風の如き黒い影、イッカクの脾腹に一撃加え、サスケを掴んで生洲へ投げた。
「な、何奴っ」
女声に怒気を孕ませ、構え直ったアオイが見たのは、何ぞ測らん先の楽士。注ぐ月光に照らされて、面は玲瓏、髪は金、それでいて眉から鼻筋は凜とした気性の象徴。余りに美男な青年一人、鉄笛構えて立っていた。
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「主婦が役立たず? どう思うかは勝手だけど、こっちも勝手にやらせて貰うから」
※※※
専業主婦の舞が、主婦力・大人力を駆使して元の世界に戻ろうとする話です(ざまぁあり)
※重複投稿作品※
表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。
悪役皇子、ざまぁされたので反省する ~ 馬鹿は死ななきゃ治らないって… 一度、死んだからな、同じ轍(てつ)は踏まんよ ~
shiba
ファンタジー
魂だけの存在となり、邯鄲(かんたん)の夢にて
無名の英雄
愛を知らぬ商人
気狂いの賢者など
様々な英霊達の人生を追体験した凡愚な皇子は自身の無能さを痛感する。
それゆえに悪徳貴族の嫡男に生まれ変わった後、謎の強迫観念に背中を押されるまま
幼い頃から努力を積み上げていた彼は、図らずも超越者への道を歩み出す。
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