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分岐・黒田健

空手少年は自転車に悪役令嬢を乗せたい

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「しまった」

 私は家の前で呆然と立ちすくんだ。

「鍵、忘れた」

 夏休みが始まってしばらくしたとある日。塾の夏期講習から帰宅して、私は鍵がないことに気づいた。
 こんな時に限って、八重子さんは里帰りで金沢、圭くんは学園のサマースクール、遥かカナダで語学研修……
 圭くんに英語の語学研修が必要なのかはさておいて、むこうの美術館などにも行くらしく、楽しそうに出かけていったのがつい昨日。

「うー」

 このところ忙しい敦子さんが帰るのは、きっと22時を過ぎる。

「でもわざわざ帰ってきてもらうのもなぁ」

 まだ真っ暗にはならない。大丈夫。圭くんとの特訓で、随分平気になっていた。

「……おやつにしよ」

 仕方なく、いつも朝ごはんを頂いてるカフェでおやつにすることに決めた。うん、ほんとに仕方なくなんだから。
 カフェに向かってダラダラ歩く。

(暑い)

 きっともうじき薄暗くなってくる、それまでにカフェにたどり着かなきゃなんだけど、でもほんとに暑い。まだセミ鳴いてる。じーわ、じーわ。

(セミ、ちょー元気)

 その元気を分けて欲しいくらい。
 丸一日クーラーの効いた塾の中にいて、なのに外はひどく暑くて。

(気温差がなぁ)

 すこし、くらくらする。

「設楽」

 至近距離で呼ばれて、びくりと振り返ると黒田くんがいた。自転車を支えて立っている。

「あ、悪い、そんなに驚くとは」
「あ、ううん、ごめんぼーっとしてて。練習帰り?」
「おう。……つか、顔色悪いな?」
「クーラー病」
「あー、塾か。おつかれ」

 そう言って笑う黒田くんも元気そうで羨ましい。

「帰りか?」
「えと、ううん」

 私は眉を下げた。

「鍵忘れちゃって」
「マジか」
「おばあちゃん帰ってくるまでカフェにいようかなって」
「何時くらいだ? 付き合う」
「いいよ、遅くなるの」
「なら余計だろ、女子ひとりでほっとけるかよ」

 黒田くんはぶっきらぼうに言い放つ。

「や、ほんと10時とかなるから」
「は?」

 思いっきり眉をしかめられた。

「そんな時間までひとりでいる気だったんか」
「あ、えと、うん……」
「バカか」
「えっ」
「アホか」
「えっ」

 片手で頰を挟まれる。ぎゅう。

「頼れって言ってんだろ」
「あ、うん」

 なんだか優しいトーンで言われて、つい頷いた。

「ウチ来るか? 母さん仕事で、オヤジしかいねーけど。そんでばあちゃんに連絡して迎えにきてもらえ」
「え、あ、でも」
「ひよりも呼べばいーだろ。近所なんだし」
「え、でも迷惑じゃない?」
「全然」

 断言された。

「むしろここでお前ほっとく方が迷惑、俺に」
「黒田くんに?」
「そう」

 うーん、と首をかしげて考える。どうやらまた心配をおかけしているらしい。

「じゃあ、お願いします……」

 そう答えると、黒田くんは少し安心したように笑った。

「乗るか?」
「2人乗りはいけないんだよ」
「ケーカンかよ」

 黒田くんは笑って「じゃあ俺支えて歩くからお前だけ乗っとけ」と自転車をアゴで差す。

「え、いいよ、歩ける」
「顔色悪いって言ってんだろ、無理すんな。早くしねぇと日が暮れるぞ」

 私は周りを見回す。たしかにそろそろやばいし、体調が少し悪いのも本当。

「すみません、……たびたびスミマセン……」
「たまに言うそれ何なんだよ」

 黒田くんは笑って、私が荷台に横乗りした自転車を押し始めた。

「えー、重くない? 大丈夫?」
「全然重くないから気にすんな」

 淡々と言われる。カゴには道着。
 至近距離に黒田くんの身体。

(うう、なんだか唐突に緊張してきたぞ)

 顔も赤い気がする。なんでだろ。

(最近こんな感じ)

「あのな」
「なに?」
「練習帰りで、汗臭かったら悪い」
「え、大丈夫」

 私は首をかしげた。

「私、黒田くんの匂い好きなんだって」
「ほんっとお前ってさ」

 黒田くんは一度立ち止まって振り向く。顔が赤い気がするのは、夕陽のせい、かな。

「なに?」
「なんでもない」

 また黒田くんはぶっきらぼうに言って、歩き出す。

(なんで、こんなに優しくしてくれるのかな)

 もしかしたら、なんて思うときが時々ある。あの体育会の、廊下の一件以来、特に。

(でも、黒田くんは面倒見がいいし、友達思いだし)

 勘違いだったら、とっても恥ずかしい。とっても。だって私、中身は大人なのに。

(でも、もし勘違いじゃなかったら?)

 その想像は、とてもなんだか幸せな気持ちになったりドキドキしたりして、私の感情どうなってるんだろうとか思ったりしてる。

(中学生に!)

 そうだ、相手は中学生なのだ。いくら私の外側が同じ歳でも、中身はずうっと年上なのだ。

(だから、でも、えーと)

 考えがまとまらず、一人で顔を赤くしたり青くりしたりと煩悶している間に、黒田くんのお家に着いた。
 敦子さんに電話をして(鍵に関してはちょっと怒られたけど)迎えに来てもらう手はずをとる。

「そういえば、お母さんお仕事って?」

 お子様ケータイをカバンにしまいながら聞いた。

「あ? あー、看護師。今日準夜でいねぇの」
「ジュンヤ?」
「4時から夜中まで」
「え、大変だねぇ」
「すげえ仕事だと思うよ」

 黒田くんに続いてお家に入る。まだお父さんはご帰宅されてないみたいで、家の中はしん、としていた。

「オヤジももう帰ると思うけど」
「お邪魔しまーす」

 玄関から上がり、リビングに通された。

(黒田くんの部屋以外って初めて)

 そもそもお邪魔するのも2度目なんだけど。

「ひよりに連絡してみるわ、その辺座ってろ」

 黒田くんがソファを示して、スマホをいじっている間に、リビングをくるりと見回す。それから、ぽすんとソファに座り込んだ。

(……落ち着くサイズ感)

 こんなことを言うと失礼かもなんだけど、ウチとか樹くんとか千晶ちゃんちは規格外なので、こういった「普通のおうち」のリビングって久々なのだ。
 片付いたアイランドキッチン。4人がけのダイニングテーブル、ソファにローテーブルにテレビ。窓際に観葉植物。普通のおうちの、普通のリビング。

(前世の実家っぽい)

 すごく落ち着く。

「あ」

 黒田くんがスマホを眺めながら小さく言った。

「どうしたの?」
「や、ひより今合宿中っぽい」
「あ。そういえば」

 テニス部のひよりちゃんは、夏休みも忙しいんだって言ってた。大会もあるし、合宿だって。それにピアノに塾まで通ってる。塾は私とは別のとこだけど。

「忙しいよねぇ」
「まぁウチの女テニそこそこ強えからな……、つか、すまん」
「? なにが?」
「や、ひよりもどーせ来るから大丈夫だろって誘ったけど、嫌じゃないか、俺と2人。まぁオヤジも帰るけど」
「え、全然! 全然いやじゃないよ!」

 私はぶんぶんと手を振る。嫌じゃないって、なんかすごく伝えたい。

「……そうか?」
「うんっ」

 大きく頷く。

「なら……、いーか。とりあえず飯作るわ」
「え、作れるの?」
「まー共働きだしな。ウチ。テキトー飯だけど。食ってけ」
「わ、ありがと。助かります」
「腹減ってる顔してるもん」

 ……分かるの!? 顔で?

(私どんな顔してるんだろ……)

 すれ違う色んな人にも「あー、あの子お腹すいてるわねクスクス」とか思われてるんでしょうか。それはちょっと(中身は置いておいて)思春期女子としてどうなのよ私。うう。

「あはははは」

 笑ってごまかす。

「手伝う?」
「いーよ、ヒトんちの台所って使いにくいだろ、テレビでも見てろ。いつもあんま見れねーんだろテレビ」
「えーと、ありがと。そうさせてもらおうかな」

 ヒトんちの台所が使いにくい、って意見を中二男子から聞こうとは……。確かに使いにくいけども。
 黒田くんは慣れた様子でお米を研ぎ始めたので、とりあえずテレビをつけてみた。7時のニュースが始まったところ。特に興味あるニュースもなさそう。
 バラエティも普段見ないから、よくわからない。芸能人も知らない人ばかりだし、前世が懐かしくて、胸が騒つく。
 ソファに体操座りして、顔を膝に埋める。

(この部屋が前世の実家に似てるから)

 きっとちょっと、寂しくなっちゃっただけだ。ホームシック、きっとそれに近いものだと思う。
 炊飯器をセットした音楽が聞こえて、それから「設楽」と呼ばれて顔を上げた。目の前に黒田くんが屈んで、目線を合わせてくれている。

「泣いてんのか」
「え? ううん」

 涙は出てない。そんなにヤワじゃない。大人だし。
 黒田くんは、そっと私の髪を撫でた。

「けど泣き顔じゃねぇか」
「うん、なんか、懐かしくなって」
「懐かしく?」
「えっとね、前住んでた家がこんな感じ」
「……そっか」

 色々誤魔化して言うと、黒田くんは「悪かった」と呟いた。

(何がだろ)

 でも黒田くんは責任感がやたらと強いから、きっと私がこんな風になっちゃったことにも責任を感じてくれていて。

「そんなことない!」

 私は膝を崩して、すこし前のめりになる。

「私、誘ってもらって嬉しかったし、すごい助かったし、ほんとに」

 勢いがつきすぎて、黒田くんとものすごく近い距離になっていた。目が合う。強い目。いつだって固い意志がそこにある、その目から、目が離せなくなる。
 なんだか急に、心臓が高鳴って。

「……設楽」

 切なげに呼ばれて、手は頬に。

(あ、キス、する)

 そんな予感がした。
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