上 下
39 / 80

しおりを挟む
 司馬様が青龍山に浩然を連れて林杏りんしん様を迎えに行くことになった。

「休んでいたほうがいいよ嫦娥」

 浩然が、静かに私に言う。

「いつもと少し違う」
「へ? そうかな?」

 クマでもできてる? と頬に触れると、浩然は手を伸ばそうとして止めて、それから少しだけ切なそうに目を細めた。

「……助けに行けなくて、ごめん」
「浩然」

 そんなつもり、ないのに。
 私はもう、あなたを巻き込みたくないのに。

(私のことなんか忘れてって)

 もう私のことで心を痛めないで。
 その一言が、うまく言葉にできていない。
 そのほうが、浩然は幸せになれるのにね。
 ふたりが後宮から出ていくのを見送り、私は中庭でぼうっと桃の花を眺めていた。
 長椅子を出してもらって、お茶をいれてもらってーー。
 少し、ひとりになりたかった……とはいえ、足元には、火鉢に(やっぱり燃えそうなくらいに)近づいてる玉藻ぎょくそうさんがいるのだけれど。
 いつの間にやら、あたりは夕暮れ。
 橙色の夕陽に、桃の花が染まる。元の色が分からないくらいに。

「そちの」

 ふ、と玉藻さんが言う。

「なんですか?」
「そちの、魂よ」
「はぁ」
「最近はの、より混沌としておる」
「……はぁ」
「余計に不味そうじゃ。くくっ」

 それだけを告げて、玉藻さんは再び目を閉じた。
 混沌?

(それって、なんで?)

 夕陽にひかる桃の花を見ながらそう思ったとき、私を呼ぶ声。

「嫦娥」

 振り向くと、憂炎様が本を持って立っていた。

「少し、面白い本を貰ったものだから。まだ難しいかもしれないけれど」

 そう言いながら、私の横に少し間を空けて座る。

「詩歌のね、有名どころだけを集めた詩集」
「へえ」
「読んでみる?」

 私は本を受け取る。

「ありがとうございます」

 嬉しくて、本を抱きしめるように微笑むと、憂炎様は顔を逸らした。
 その顔は、夕陽で赤い。
 私はさらりと本をめくる。

 「在天願作比翼鳥
  在地願爲連理枝」

 なんとなく目についたページを眺める。知ってる漢字ばかりで、なんとなく意味は分かった。

「……比翼連理」

 前世でも聞いたことのある四字熟語。
 友達の結婚式のときとかに見た記憶が、なんとなぁく。
 夫婦仲がいい、とかいう意味だっけ?

「あ、読めた? あの、なんていうか、いい言葉だと俺は思うよ」

 なぜだか遠くを見て言う憂炎様に、私は尋ねる。

「具体的な意味って、ご存知ですか?」
「ええと」

 憂炎様は照れたように口を開く。……照れてるように見えるのは、夕陽で赤いせいかもしれないけれど。

「比翼っていうのは、鳥のこと」
「鳥?」
「そう。雌雄それぞれ目と翼が一つずつで、常に一体となって飛ぶって言われてる。それから、連理は連理の枝っていって……別々の二本の木が、幹や枝が途中でくっついて成長してる」
「ああ、それならば見たことがあります」

 私は頷く。前世でも、神社なんかでは御神木とされてたりしてたなぁ。

「そんな風なひとが、いるのでしょうか」

 そう呟いた声が憂炎様に聞こえていたのかいないのか、返事はなかったーーというのも、司馬様たちがちょうど到着したからだ。

参見御目通り感謝なのです皇上おかみ

 青龍山から司馬様が連れ帰ってきたのは、長い、長い髪の女の子だった。
 前髪も、鼻のあたりまで伸びていて、顔の様子はほぼ見えない。

「このアタシの修行を邪魔するくらいです……もん、ね~。なにかよほど火急の用事で世界が破滅しそー、なのです……よね?」

 気怠げな、変わった話し方をする女の子だった。呆気にとられてじっと見つめる。

(……知ってたら、忘れなさそうだけれどな?)

 こんな個性的な女の子。

「そんな事態だったらてめーの師匠呼んでるわボケ」
「相変わらず妾の愚兄は口が悪い……です」

 うろうろと林杏りんしん様の視線は定まらない。

「まぁ世界は分からないけれど、それなりに火急ではあるよ、林杏」

 憂炎様のその言葉に、林杏様は視線を上げた(ように見えた。髪の毛でよくわからない)。

「概ねは、この愚兄から聞いて、おりま……す」
「何回も愚兄愚兄言うんじゃねぇ、愚妹」
「ふ、」

 鼻で笑われていた。
 つ、と私と目が合う。思わず見つめ返すと「嫦娥様とおっしゃいま、したか」と声をかけられる。

「あ、は、はい」
「ふーん」

 じろじろと見られているのが、なんとなく分かる。

「見損ないました、憂炎」

 ふん、と林杏さんは鼻を鳴らす。

皇后おくさまには~、てっきり阿兎あとをお選びになるとばかり、妾は」
「? 誰かな、それ」
「えっ」

 呆然と林杏さんは憂炎様を見つめたあと、ものすごい勢いで近づき、匂いを嗅ぐ。

「わ、な、なんだよ」
しゅの匂いはしない……」

 訝しげに、林杏様は憂炎様から離れた。

「じゃあなんで? 憂炎が阿兎を忘れるはずがない」
「あー、もしもし? 林杏?」
「とにかく~」

 きっ、と、私は林杏様に睨み付けられる。

「妾は、この人が、娘子おくさまなんて、認めませ、んからっ」

 ばさりと前髪を払い、私を正面から見つめるその目は、司馬様と同じ虎のような金色、だった。
しおりを挟む

処理中です...