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阿兎

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「こらてめぇらなんて格好してんだボケ!」

 司馬様の声が私の居室へやに響く。憂炎様が私に上衣うわぎを、頭から被せる。うわぁ。
 林杏りんしん様も、司馬様のをかけられていた。

「なんで浴衣よくいのままでいるの?」

 憂炎様は少し耳が赤い。だ、だらしがないと思われたかなぁ。
 でも、私が浴衣バスローブ 姿……思い切り身体の線が出てしまう、なのは、ええと。

「着替えさせてくれないんです……」

 私にぴったりくっついている林杏りんしんさん。
 なぜか片手に、司馬家伝来(?)の怪我に効く軟膏の陶器の入れ物。

「いやこの小娘、ものすごい手の返しようじゃ」

 呆れたように離れたところからこちらを見ているのは玉藻ぎょくそうさん。敷いた小さな絨毯の上で、火鉢にできるだけくっついて暖をとっていた。

(毛が焦げそう……)

 この国の春の夜は酷く冷えるから、寒いのは分かるんだけれど。

(私も少し冷えてきたなぁ)

 お風呂上がりとはいえ。

「で、ごめん。何がなんだか、説明してもらえる?」

 憂炎様の言葉に、私は首を傾げた。

「私も、詳しくは少しも要領を得ないのですが……」

 林杏さんがとにかく「愚兄を呼んで愚兄を呼んで」と騒ぐので、とりあえず宮女さん経由で憂炎様にお伝えしたのです。
 そして今に至る、というか。

「だって~、今からしゅを解かなきゃ、だからぁ、薄着の方が」
「しゅ、呪!?」

 私は叫んだ。私、呪、かけられてたの!?

「うん」

 悪びれもなく、林杏様は言う。

「かけてた」
「てめえは!」

 司馬様が目を剥く。

「なぁにやってんだ!」
「? だって」

 林杏様は首を傾げた。

愚兄おにいさまが苦しいと言ったから」
「……?」

 司馬様は思い切り変な顔をして林杏様を見つめる。

アタシが山に入る前だから、3年くらい、前、に~」

 一息ついて、林杏様は続ける。

「市場で阿兎を見かけた、って愚兄が言ったんです」
「……俺が?」

 司馬様は思い切り眉間にシワを寄せた。

「記憶ねーけど?」
「だって呪がかかっているもの」

 林杏さんは言う。

「は!? 俺にも!?」
「というか~。本来は、愚兄おにいさまに、かけたもの、だもの」

 ぽかんとする司馬様。

(たしかに、そのぐらいの時期は)

 私は思い返す。
 お父様の病が重くなっていた時期で、できるだけ滋養のいいものを探して、市はうろついていた記憶があるけれど……。

「その日からぁ、なんか苦しそうだったんだもの~、愚兄」
「苦しそう?」
「そう、だから妾、聞いたの」

 そうしたらね、と林杏さんは顔を傾けた。

「阿兎のこと、思い出すと苦しくて辛いって。妾、だから、阿兎に火傷させたこと、気に病んでるんだと思って」

 透明な目線で林杏さんは続ける。

「忘れさせてあげることにしたの」
「……は?」
「? だから、愚兄が、阿兎の記憶、思い出せないように~、呪をかけたよ」
「おまっ……は?」
「で、もし~、阿兎が愚兄に会ったときにぃ、愚兄が覚えてなくて、阿兎が傷ついたら~、かわいそう、でしょう?」

 だから阿兎にも呪をかけたの。
 そう言って、林杏様は立ち上がる。

「あのう、林杏様」

 私は声をかけた。

「なぜ私、阿兎うさぎちゃん、なのですか?」
「初めて会ったとき、阿兎のお父上が、阿兎のこと"わたしの兎ちゃん"って」
「あ」

 私は思い出すーーお父様が、ふざけて私を「兎ちゃん」と呼んでいた時期があった。

「嫦娥は、月の仙女というより兎だね」

 そう言って、優しく笑っていたお父様ーー。

「妾、それを名前だと思いこんでいたのね」

 小さかったからごめんなさい、と林杏様が言った。

「ええと、それはつまり」

 憂炎様が言葉を引き取る。

「この2人から、お互いの記憶を消していたってこと?」
「そ、ですね」
「……あのさぁ」

 憂炎様はにこにこと笑う。
 なんだか「腹黒そう」な笑顔。

「その記憶、戻さなくてもいいんじゃない?」
「なんで? せっかくだから、妾、阿兎に妾のこと思い出して欲しいかな」
「いやお前、勝手にヒトの記憶消しといてだな」

 司馬様が突っ込む。

「もー、愚兄はウルサイ。さぁ背中を出して」
「は?」
「脱いで服を」
「嫌だよ、何言い出すんだよ」
「呪を抜くから背中を出して」

 さあ、と林杏さんは全く一切、根こそぎくまなく悪気のない顔で、そう言って笑った。
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