前世記憶有少女中華(風)後宮奮闘記〜悪逆女帝にはなりたくない!〜

にしのムラサキ

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【小話】【浩然視点】

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 あの夏のうちに、嫦娥の手を取って逃げなかったことを、未だに俺は悔やんでいる。
 去年の夏。
 北国のらんの、短く煌めくような夏のこと。

「あーつーい」

 嫦娥は川縁に座って、膝まで衣をたくし上げている。
 その曝け出した雪のように白い足を水につけて、そう言って笑った。
 嫦娥の義母、あの心根が腐り切ったあの女の命令で、市の先にある薬師のところへ煎じ薬を貰いにいった、帰りのこと。
 こっそりと回り道をして、俺と嫦娥はのんびりと休憩を楽しんでいた。

「……はしたないですよ、嫦娥様」
「また敬語~」

 口を尖らせて、俺をみて笑う嫦娥。
 太陽の日差しで、その白い肌は輝いて。
 苒で1番の大河、渭水いすいの水面は夏の陽を反射して、雲母が煌めくみたいに輝いていた。
 反対側が霞んで見えるほどの大河。

「信じられないよね」

 嫦娥は川に目線を戻して笑う。

「この大きな川が、凍るんだよ? 冬にはさ」

 どんだけ寒いんだって話だよね、と嫦娥はその手を水につけて、それから口の端をほんの少し、上げた。

「なにする気だ」
「なにするって、えーい」

 ぱしゃり、と俺にかかる水飛沫。
 快活に笑う嫦娥ーー。
 このとき、俺は、知らなかった。
 嫦娥が義母どもに疎まれているのは、知っていた。家事なんかを押しつけられていることも、罵詈雑言を浴びせられていること、も。

(だけれど)

 俺は後になって思う。
 どこかで、俺はそれを喜んではいなかったか?

(嫦娥のいまの立場なら、司馬家との婚姻などないだろう)

 そう思って。
 司馬家との話を聞いたのは、嫦娥のお父上、馬高様がまだ御存命のころ。
 詳しくは知らない。
 けれどある日、「どうやら縁があって司馬家にあの子は嫁ぐことになりそうだよ」と馬高様は言った。

「まだ嫦娥には内緒だよ」
「……馬高様」

 このとき俺は、きっとものずこく情けない顔をしていた、のだろう。

「そんな顔をして、浩然」

 馬高様は苦笑い。

「……」

 俺は言葉が出なかった。

(そりゃ、そうだ)

 そう思ってーー考えて、納得しようとして。できなくて。

「そうだなぁ」

 馬高様は言う。

「もしお前が科挙に通ったら、まぁ、もしかしたら、だが」

 儂も、考え直そう。
 そう、言われたからーー頑張ってきた。ずっと、いつか科挙に受かって官僚になって、堂々と嫦娥に妻になってくださいと言う。
 だけれど、馬高様が亡くなって。
 嫦娥は「お嬢様」として扱われなくなってーーおそらく、司馬家との縁談も消えたのだろうと思っていた。
 あの義母は、何か隠している風ではあったけれど……でも。
 もうすこし、したら。
 嫦娥とこの家を出て、所帯を持とう。

(仕事も見つかりそうだ)

 あまり安全な仕事ではなかったけれど、市で知り合った人が来春には斡旋してくれると約束してくれていた。
 きっと嫦娥は、頷いてくれる。
 実際、あの雪の日。
 愚鈍な俺が嫦娥が何をされてるのか、やっと気がついた日。
 嫦娥は嬉しそうにしてくれた。
 一緒に逃げようと、そう告げた俺に微笑みかけてくれた。
 なのに。
 今でも、思い返す。
 あの日のことを。
 困惑顔の嫦娥は、皇上おかみの腕の中ーー。

(取り返す)

 この国の、1番高い頂にいる男の手から。
 なにがあろうと、何年かかろうと、必ず。
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