121 / 121
復讐のブルー・ペグランタン編
エピローグ:ブルーの決断
しおりを挟む
ああ、暗い。何も見えないし、何も聞こえない。私は何をしていたんだっけ。確か、夜にクソでけえハサミが窓をぶち破ってきて、そのハサミに触ったらナユタらしき野郎が現れて、それで。
「………ああ、そっか。まけたのか。おれ」
ナユタが死んだ。忌まわしき故郷、下威区をともに生きた、唯一の生き残り。世界でたった一人、家族と言える奴だったソイツは、今代の流川の当主に殺された。
だからナユタの忘れ形見を手に取って、奴を殺そうと目論んだんだ。ナユタが成せなかった無念に報い、そして最後の一人になっちまった虚しさを晴らすために。
「でも、ぜんぶおわっちまった。まけたんだから、そりゃそーだよな」
暗黒の世界は、どこまでも冷たい。目も見えず耳も聞こえず、自分を包み込むのは、深淵の虚無のみ。
この世界は、弱肉強食。どんな信念、思想を掲げたところで、負けた奴が悪く、勝った奴が正義だ。ナユタのために今まで積み上げてきたキャリアを投げ打って、流川の当主を弑しようとしたことを、今でも間違いだとは思っていない。むしろ仲違いしたことへの自分なりの贖罪だと思っているし、無念にも散っていった家族に少しでも報いたいという私なりの正義ですらある。
でも何を言ったところで、私は負けた。ならばその全てが戯言で、その全てが寝言でしかない。
ささやかな願いだけでなく、私なりの正義ですら体現するまでもないゴミだと嘲笑う。世界はいつだって、無慈悲で理不尽な箱庭だ。
「キシシ。お前、蹲んの好きだよな。楽しいか?」
聞き覚えがある声がして、思わず顔を上げた。
目の前に立っていたのは壁にもたれかかる、一人の少年。男の割に長い髪を後ろで結び、歯の隙間から息をこぼすような笑い方が特徴で、ツムジの形見を肌身離さず携えた、聞き覚えどころか見覚えしかない奴。
気がつけば、路地裏にいた。下威区から出る前まで、自分の居場所だった路地裏。生ゴミと腐乱死体、それらに集る蛆と小蠅が同居人と言えたその場所で、自分の身なりを改めて認識する。
泥だらけで煤だらけの足。今以上にボロボロで薄汚れたポンチョ。ボサボサで油ぎった髪。
そして、何日も水浴びしてねーゆえの、便所臭。
「…………ほっとけ」
視界が真っ暗になる。ポンチョに染みついた便所臭が鼻腔をべちゃべちゃと舐め回すが、いつものことだ。蛆と小蠅に集られて喰われる腐乱死体をぼうっと眺めて一日が終わるよりも、蹲って垢まみれの体臭でも嗅いでいる方がマシなんだ。
「なんてツラしてやがる。笑って生きろって、ツムジから言われてただろーが」
ナユタの声が、遠く聞こえる。
笑って生きる。言われたことがあるような気がするが、もはや遠い昔のようだ。そもそも言われたことがあったかも怪しいほどに、その記憶はあまりに淡い。
「…………けっきょく、あーしは…………あのときからかわってねーんだな」
ツムジとの記憶は今や消えいく泡沫のようだが、このときの記憶は今でも鮮明に覚えている。
ナユタの台詞の後、私は下威区を出ることを一方的に告げ、ナユタの制止を振り切って別れの言葉の一つも添えることもなく、今いる路地裏を去ることになる。
今この瞬間は、ナユタと最後に言葉を交わした一幕だ。
ナユタと袂を分かってから色んなことがあった。むーちゃんに助けてもらって、下威区を抜け出して、レクと出会って、請負人になって。アイツとなんだかんだ色んな任務を受けて日銭を稼いで、一日一日を過ごしてきた。
今いる路地裏と壁にもたれかかるナユタの姿は、実際は遠い過去の出来事。もう二度と戻ることの叶わない古の砌。ずっとずっと見てみぬフリをしてきたけれど、本当は後悔していた。たとえ自分以外の全てが変化してもなお、自分という存在はあのときの路地裏から何一つ変わっていない。
私の時間は、ずっとあの路地裏で止まっている。
「空を見てみろよ。今日は良い天気だぜ。太陽も笑ってらあ」
俯いたまま、目線だけ上を見てみる。
下威区では珍しく、心地良い晴天。いつもは曇っているか暴風雨か灼熱かのいずれかなのだが、今回は本当に珍しく心地良い風が絶え間なく吹いている晴天日和だ。あのときもこんな天気だっただろうか。
「…………まぶしーだけだろ」
だがまあ、天気程度で今の気分が晴れるわけもなく。むしろ太陽から差し込む光が網膜を焼くようで、痛みすら感じる。
草木も水もない荒れ果てた土地のせいか、年がら年中蒸し暑くしてくる煩わしいだけの日光を眺めているわけでもなし、心地良いはずの優しい太陽光が、今はものすごく痛い。
「キッシ。こんな日は、ツムジとアイツらで、飯食いてー気分だよな」
何を言ってやがるのか。ツムジもアイツらも、ただの一人もいないのに。それにあのとき、ナユタはこんなこと言っていたか。
「蹲ってちゃあ、何も見えねーだろ。本当に大事なもんってのがよ」
キシシ、とうざったいほど聞いてきた笑い声がいつもよりうざったく聞こえる。
大事なものなんて、私にはもう何もない。ツムジもガキたちも、そしてナユタも、みんなみんな。
「もう、ほっといてくれ。あーしはずっと、ここで……っておい!」
急に抱えられ、路地裏から引き摺り出される。当時から私は抱えるに丁度いいサイズだとか言われてツムジやナユタによく抱えられていたが、なんだか舐められているようで当時から良い思いはしていなかった。特に今は抱えられて許せる気分じゃない。
おろせ、と叫んで足掻くが、今の私には両腕が機能していないんだった。当時の私なら、ふり解けたかもしれないが。
「見ろよ、ほら」
空を指さされ、いやでも上を向いてしまう。
実質簀巻きにされていて首が痛いが、ナユタが指差した方向にあるのは、随分と見慣れた太陽だった。見るだけで目が痛くなるし、何故だか皮膚がヒリヒリ痛むしで苦手だが、今回はいつもと違うところが一つある。
「おかしなこともあるもんだろ。金色だぜ? 本物だったらさぞかし儲けもんだったろーな」
意気揚々と、しかし暢気に。確かによく見ると金色に見えなくもない。でもそんな気がするだけだ。本物の金ならいざ知らず、太陽なんて一川の価値もない。ただ夏は暑苦しくて、冬はロクに仕事しない、挙句日焼けの原因にしかならない公害だ。
「お前はすぐ薄暗い日陰に行こうとすっからな。こうやって、日向に無理矢理連れ出してくれる奴が必要なんだよ」
「……そんなやつ、いるわけが」
「何言ってんだ。もういるだろ。お前のそばに、ずっと」
「だからいねーってッ……!」
いってんだろーがしつけーぞ、って言葉が喉奥から飛び出そうとした矢先、アイツの姿が何故だか浮かんだ。
ソイツはナユタの次ぐれーによく知っている奴だ。仕事のしすぎてフィジカルが種族限界到達していて、仕事人間のくせして服装は貴族くさくて、同じ監督官のくせして勝手に音頭とって私を任務に連れ回して、先輩風まで吹かしやがる見た目だけはキザな奴。
ナユタが示した、太陽が放つ金色の光は、まさしくアイツの髪色にそっくりだ。
「さて。そろそろ時間だ」
ゆっくりと私を下ろすと同時、空が光り出した。金色の太陽が空の青い部分を覆い尽くし、空そのものが光の塊と化す。
本来なら空を覆い尽くすほどの光量、まともに見れば目が焼けてしまう痛みに苛まれるはずだが、何故だかずっと、見ていられた。私はその光の正体を、知っている気がしたんだ。
「お相手さん、待ってるみてーだぜ」
「オメーは」
「お前の隣は、もう俺じゃねーからな」
「そんなことねー……あーしにとって、オメーはまだ……」
「気持ちはありがてーがな。袂を分かったあのときに、決しちまったことだからよ」
飲み込む気なんかなかったのに、唾が喉に詰まってしまう。
そうだ、全ては過去に決まってしまった。私は下威区を出ることを選び、ナユタは残ることを選んだ。お互い相反する選択をした時点で、隣に立つことはできなくなった。そんなことは下威区を脱するため、両肘から下を失くすことになったあのときに決したことだ。
もはや、その砌が覆ることは二度とない。もし仮にナユタが生きていたとしても、きっと私は下威区に戻らなかっただろうから。
「もう蹲んなよ。前を向け。そして笑え。馬鹿みたいでもいい。歩くのをやめなきゃ、まあ大概のことは報われる。味方がいる、お前ならな」
空から照らす光のせいか、ナユタの姿が薄くなる。光が更に強くなった。
「じゃあな」
光量が臨界点を超える。私はなすすべなく、金色の太陽に飲み込まれた。
………………―――――――――――――――――。
「ルー……ブルー……ブルー!!」
「……な、にぐぅぇ」
光に飲まれたと思いきや、唐突なベアハッグ。肋骨がミシミシと悲鳴をあげる。やめろと声を出したくても、肺が潰れて声が出ない。ぎぶぎぶ。
「あ、ああすまん。つい……」
「し、しぬかとおもった……」
レクのベアハッグとか、下手しなくてもガチで死人が出るので勘弁してほしい。自分が生きているあたり手加減してくれていたんだろうが、それでも肋骨をバキバキにへし折られるかと思ったほどだ。
「ブルー、それで……だな……」
「ああ。わかってる」
今回の出来事の全ての元凶、その根源に意識を向ける。北支部の新人とは名ばかりの、流川の本家の当主へと。
「……何だ。まだ殺り合うってのか?」
右手に炎が宿る。私が意識を失う直前、全身が血みどろになるぐらい蜂の巣にしたのに、もう完全回復している。今更ながら辟易するぐらい忌まわしい不死性だ。それさえなければ、瞬殺できていただろうに。
「おいよせ、もう勝負はついただろ」
「わかってる……!」
レクが前に出て、その身体でガン飛ばしてくる澄男の視線を遮る。
澄男との距離はそう遠くない。十分に攻撃の射程範囲内だ。でも今の私にはどう足掻いたってよじ登れないぐらいに高い、崖の上から見下されているように思える。
それもそうだ。レクの言うとおり、勝負はついた。私が負けて、奴が勝った。それは覆しようがない。向こうがまだやりたいってんなら吝かじゃないんだが、相手の方が多勢だ。
澄男は不死で、タイマンでも殺しきれなかった。御玲やぬいぐるみたちをけしかけられでもしたら、果たして勝率はどれほどだろうか。考えるだけ徒労だ。
なにより私は、澄男の右横に佇むメイドとは、できれば敵対したくない。アイツには南支部合同任務のときに、助けられた恩がある。仇で返せば、それはいよいよ一線を越える行いなような、そんな気がするんだ。
「レク、わかってるから。もーたたかうきはねー。ただソイツにききてーことがあるだけだ」
レクはしばらく警戒していたが、私の眼を数秒見ると、肩をすくめてため息をつき、私の前から退いた。
「るせんのとーしゅ……ナユタはあーしにとって、かぞくだった。このクソッタレなせかいで、さいごにいきのこったゆーいつむにのかぞく」
「へー……」
「オメーにとってなかまがいちばんだいじなように、あーしにとってかぞくがいちばんだいじだった。オメーはそーゆーそんざいのことを、かんがえたことがあんのか?」
澄男が仲間をこの世で最も大事にするのと同じように、私がこの世で一番大事なのは家族だ。コイツはそれを奪った。自分が奪われる側になると怒り狂う奴が、奪う側になったとき、どんな気持ちを抱いているのか。答え次第によっては、私は―――。
「ない。と言ったら嘘になる」
完全に冷めていた感情が一瞬で熱くなるが、最後の一言で急速に冷めていく。
「ただ俺は流川、その本家の当主であり、大事なもんを死ぬまで背負うと決めた、一人の戦士でもある。手前の大事なもんを死んでも守り切る上で敵対してくる奴がいるのなら、一人残らず殺らなきゃならねぇ。たとえ、ソイツらに大事な奴がいたとしてもな」
「それで、あーしみたいなやつにうらまれても?」
「恨んで敵対してくるんなら、ソイツも殺すだけだ」
「それで、ぎゃくにぶっころされるとしても?」
「だったら俺は所詮その程度のカスだったってだけの話だな」
「……オメーはホントーに、それがただしいとおもってんのか?」
「どうでもいい。勝った奴が正義。負けた奴が無能。だから勝ちにいくんだろうが。テメェだってそのために俺と殺し合ったんじゃねぇのかよ、ああ?」
どこまでも、平行線。分かっていたことだ。私は元スラムのガキで、相手は流川で。その価値観は、決して交わることはない。きっとナユタも、似たような問いかけをして、あまりに乖離した価値観の相違に辟易したことだろう。
「で。この理屈だと俺はテメェをぶっ殺さなきゃならんわけだが……」
流川の本家当主サマは、気怠そうな言い草で、おもむろに立ち上がる。レクがすかさず立ち塞がる。
「関係ねぇ奴がしゃしゃってて邪魔なんだよなぁ……何がしてぇんだ、テメェ?」
矛先が遂にレクにも向く。関係ないのだから不干渉を貫いていれば自分の身を危険に晒すこともないのに、毎度のことながら仕事馬鹿な奴だ。
いやむしろ、幾度となく私に拒まれてなお、それでも私に関わることをやめなかったコイツに、不干渉なんて野暮でしかない。
「俺は戦いをやめてほしいだけだ。貴方が勝ったんだろう? ならもう、戦う理由はないはずじゃないか」
「それはテメェが決めることじゃねぇ。死にたくなきゃ失せろ。テメェに出る幕なんざありゃしねぇんだ」
「んいや、ある」
澄男の顔が怒りに歪む。砂埃が立ち込め、心なしか気温が上がる。
今は夏で、既に正午は過ぎている。一日の最高気温に達しようとしている頃合い、暑さを感じてもなんら不思議じゃないが、肌が感じる気温上昇は、噴火寸前の火山帯にいるような気分を想起させる。
「俺は……レク・ホーランとして、相棒を目の前で失うわけにはいかない。貴方がブルーを殺るというのなら―――」
鞘から剣を抜き、構える。
それは、レクがいつも愛用している長剣。刃先が平らで刺突に向かない、銘柄もなければ符呪も何も施されていない無骨な剣だが、レクは物理面だけなら種族限界を突破している。剣士でありながら大概の相手を素手で殺れてしまうフィジカルをもつレクが、あえて剣を出して戦う意味を、私は知っている。
「たとえ相手が流川でも、俺は戦う……!」
私を庇うように、長剣を構えて仁王立つ。
誰に対しても、常に気丈に振る舞い、如何なる強敵を前にしても決して冷静さを失わないレク。私はそんな彼と長い間、隣に立って戦ってきたからこそ分かる。剣を持つレクの腕が、ほんのわずかだが、小刻みに震えていることを。
「よせ、レク……あーしのために!」
レクの裾にこれでもかと力を込めて噛みつく。
レクと澄男、戦ったらどっちが勝つか。認めるのはクソ癪だが、澄男とレクじゃ基礎スペックが違いすぎる。
属性攻撃に対して何の耐性もないレクが、奴の火炎攻撃を喰らい続ければ、いくら物理面がタフでも無慈悲に焼き尽くされてしまうだろう。それになにより、澄男は不死だ。どれだけ攻撃したって死にはしない。弱点属性を浴びるほどぶつけてもなお殺しきれなかったぐらいだ。物理攻撃しか使えないレクじゃどういう結末を辿るか、分かりきっていた。
「ブルーさん。あなたは、どうしたいんですか?」
口を開いたのは、ずっと成り行きを無言で見届けていた御玲だった。
「このままだと堂々巡りです。私としましても、あなたがたと敵対するというのは気が進みませんが、主人に刃を向けるというのなら、槍を構えざる得ません」
がん、と槍の石突を地面に叩きつける。
「流川本家派直系が一柱、水守家当主``凍刹``―――水守御玲として問います」
石突を中心に霜が降りる。主人である澄男の熱とぶつかって、大気中の水蒸気を凝結させるほどの強烈な冷気、気にも止めていなかったが、澄男が流川の本家なら、御玲は本家側の人間、直系暴閥の水守家の当主。レクと同じく、人類の限界に至った数少ない存在。
「まだ、続けますか?」
彼女が放つ冷気は、``凍刹``の名に恥じない。戦えばレクも私も、その全てを凍てつかせられるほどに。
「……あーしは……」
対するは、流川と水守、その当主。巷では、四強と五大の一角を担うとされる、武市最上位の強者たち。
私だけならともかく、今ここにはレクがいる。私の身勝手でしかない復讐に、無関係なレクを巻き込むのか。
今のレクなら復讐がどうのこうのとか関係なく、私が戦うと決めたらそれを止めるために戦うだろう。たとえその先が死地だとしても、コイツなら絶対に迷わない。私が知るレク・ホーランって男は、本気になったら退かない人物でもあるのだ。
それになにより、今の私にはナユタが最後に言った言葉が、頭から離れない。
「……あーしは、もううしろはみねーって、やくそく……したから」
近くの瓦礫に、項垂れるように座り込む。ナユタの言葉が脳裏をよぎるたび、復讐にたぎっていた炎が冷や水をブチまけられて消されていく。
続きがしたいかと問われれば、したい。目の前に最後に残された家族を殺した奴がいて、私は死に損なった。だったらまた雌雄を決したいってのが偽らざる本音だ。
でもその選択をするってことは、本来全く関係のないレクを復讐に巻き込み、更にナユタが残した最後の言葉すらも裏切ることになる。
なによりアイツは復讐を始める前からずっと私に``生きろ``と言ってきた。今思えば、復讐のためにその命を張る。その行い自体が、ナユタへの裏切りだったことに今更だが気づいてしまった。気づいてしまったからには、矛を突きつける気にはなれない。
そしてもう一つ付け加えるなら―――南支部任務のとき、身を挺して命を救ってもらった恩人に槍を突きつけられるのが、堪らなく痛い。ナユタやツムジ以前に、恩を仇で返してでも復讐に身を落とす覚悟がない時点で、復讐なんてする資格は―――。
もはや、私にはない。
「ブルー……!」
レクが私を優しく抱き寄せる。
暖かい。レクの体温がポンチョを通じてほんのりと伝わってくる。その暖かさには、見覚えがあった。
ナユタが最後に見せた、故郷の景色。いつもは暑いだけの、干ばつと飢餓の原因にしかならない害悪な太陽が、そのときだけは暖かくて、優しい温もりと全ての闇を打ち払う光が、かつての居場所だった路地裏の日陰すらも照らしていた。
瞼から雫が滴る。まだ胸の奥底で燻る暗黒の汚泥が落としきれたわけじゃない。たとえ全ての泥を落としても、汚泥によってできた黒いシミは、きっと消えることはないだろう。それでも汚泥と腐敗に塗れた世界に沈むより、馬鹿みてーに前向いて、光が差し込む方向に足を進めた方が幸せだと今なら思える。
私の目の前には太陽がいる。明けることなんてなかったはずの、常夜を照らす黄金色の太陽が。常夜を生きてきた私にその光はあまりに眩しいけれど、いつかは光が照らす日向で、胸を張って歩ける奴になりたい。ナユタやツムジがいつしか夢見た、暗雲が立ち込めることのない、日向の世界を。
私に向かって風が吹く。夏だってのに温くもなければ冷たくもない優しい風が、私の肌とレクの金髪を靡かせる。雲の切れ目から差し込む光、それらを目一杯吸い込んだ髪は、一本一本を煌びやかに輝せた。全てを蝕む常闇を払い除け、一閃の道を指し示すかのように。
「………ああ、そっか。まけたのか。おれ」
ナユタが死んだ。忌まわしき故郷、下威区をともに生きた、唯一の生き残り。世界でたった一人、家族と言える奴だったソイツは、今代の流川の当主に殺された。
だからナユタの忘れ形見を手に取って、奴を殺そうと目論んだんだ。ナユタが成せなかった無念に報い、そして最後の一人になっちまった虚しさを晴らすために。
「でも、ぜんぶおわっちまった。まけたんだから、そりゃそーだよな」
暗黒の世界は、どこまでも冷たい。目も見えず耳も聞こえず、自分を包み込むのは、深淵の虚無のみ。
この世界は、弱肉強食。どんな信念、思想を掲げたところで、負けた奴が悪く、勝った奴が正義だ。ナユタのために今まで積み上げてきたキャリアを投げ打って、流川の当主を弑しようとしたことを、今でも間違いだとは思っていない。むしろ仲違いしたことへの自分なりの贖罪だと思っているし、無念にも散っていった家族に少しでも報いたいという私なりの正義ですらある。
でも何を言ったところで、私は負けた。ならばその全てが戯言で、その全てが寝言でしかない。
ささやかな願いだけでなく、私なりの正義ですら体現するまでもないゴミだと嘲笑う。世界はいつだって、無慈悲で理不尽な箱庭だ。
「キシシ。お前、蹲んの好きだよな。楽しいか?」
聞き覚えがある声がして、思わず顔を上げた。
目の前に立っていたのは壁にもたれかかる、一人の少年。男の割に長い髪を後ろで結び、歯の隙間から息をこぼすような笑い方が特徴で、ツムジの形見を肌身離さず携えた、聞き覚えどころか見覚えしかない奴。
気がつけば、路地裏にいた。下威区から出る前まで、自分の居場所だった路地裏。生ゴミと腐乱死体、それらに集る蛆と小蠅が同居人と言えたその場所で、自分の身なりを改めて認識する。
泥だらけで煤だらけの足。今以上にボロボロで薄汚れたポンチョ。ボサボサで油ぎった髪。
そして、何日も水浴びしてねーゆえの、便所臭。
「…………ほっとけ」
視界が真っ暗になる。ポンチョに染みついた便所臭が鼻腔をべちゃべちゃと舐め回すが、いつものことだ。蛆と小蠅に集られて喰われる腐乱死体をぼうっと眺めて一日が終わるよりも、蹲って垢まみれの体臭でも嗅いでいる方がマシなんだ。
「なんてツラしてやがる。笑って生きろって、ツムジから言われてただろーが」
ナユタの声が、遠く聞こえる。
笑って生きる。言われたことがあるような気がするが、もはや遠い昔のようだ。そもそも言われたことがあったかも怪しいほどに、その記憶はあまりに淡い。
「…………けっきょく、あーしは…………あのときからかわってねーんだな」
ツムジとの記憶は今や消えいく泡沫のようだが、このときの記憶は今でも鮮明に覚えている。
ナユタの台詞の後、私は下威区を出ることを一方的に告げ、ナユタの制止を振り切って別れの言葉の一つも添えることもなく、今いる路地裏を去ることになる。
今この瞬間は、ナユタと最後に言葉を交わした一幕だ。
ナユタと袂を分かってから色んなことがあった。むーちゃんに助けてもらって、下威区を抜け出して、レクと出会って、請負人になって。アイツとなんだかんだ色んな任務を受けて日銭を稼いで、一日一日を過ごしてきた。
今いる路地裏と壁にもたれかかるナユタの姿は、実際は遠い過去の出来事。もう二度と戻ることの叶わない古の砌。ずっとずっと見てみぬフリをしてきたけれど、本当は後悔していた。たとえ自分以外の全てが変化してもなお、自分という存在はあのときの路地裏から何一つ変わっていない。
私の時間は、ずっとあの路地裏で止まっている。
「空を見てみろよ。今日は良い天気だぜ。太陽も笑ってらあ」
俯いたまま、目線だけ上を見てみる。
下威区では珍しく、心地良い晴天。いつもは曇っているか暴風雨か灼熱かのいずれかなのだが、今回は本当に珍しく心地良い風が絶え間なく吹いている晴天日和だ。あのときもこんな天気だっただろうか。
「…………まぶしーだけだろ」
だがまあ、天気程度で今の気分が晴れるわけもなく。むしろ太陽から差し込む光が網膜を焼くようで、痛みすら感じる。
草木も水もない荒れ果てた土地のせいか、年がら年中蒸し暑くしてくる煩わしいだけの日光を眺めているわけでもなし、心地良いはずの優しい太陽光が、今はものすごく痛い。
「キッシ。こんな日は、ツムジとアイツらで、飯食いてー気分だよな」
何を言ってやがるのか。ツムジもアイツらも、ただの一人もいないのに。それにあのとき、ナユタはこんなこと言っていたか。
「蹲ってちゃあ、何も見えねーだろ。本当に大事なもんってのがよ」
キシシ、とうざったいほど聞いてきた笑い声がいつもよりうざったく聞こえる。
大事なものなんて、私にはもう何もない。ツムジもガキたちも、そしてナユタも、みんなみんな。
「もう、ほっといてくれ。あーしはずっと、ここで……っておい!」
急に抱えられ、路地裏から引き摺り出される。当時から私は抱えるに丁度いいサイズだとか言われてツムジやナユタによく抱えられていたが、なんだか舐められているようで当時から良い思いはしていなかった。特に今は抱えられて許せる気分じゃない。
おろせ、と叫んで足掻くが、今の私には両腕が機能していないんだった。当時の私なら、ふり解けたかもしれないが。
「見ろよ、ほら」
空を指さされ、いやでも上を向いてしまう。
実質簀巻きにされていて首が痛いが、ナユタが指差した方向にあるのは、随分と見慣れた太陽だった。見るだけで目が痛くなるし、何故だか皮膚がヒリヒリ痛むしで苦手だが、今回はいつもと違うところが一つある。
「おかしなこともあるもんだろ。金色だぜ? 本物だったらさぞかし儲けもんだったろーな」
意気揚々と、しかし暢気に。確かによく見ると金色に見えなくもない。でもそんな気がするだけだ。本物の金ならいざ知らず、太陽なんて一川の価値もない。ただ夏は暑苦しくて、冬はロクに仕事しない、挙句日焼けの原因にしかならない公害だ。
「お前はすぐ薄暗い日陰に行こうとすっからな。こうやって、日向に無理矢理連れ出してくれる奴が必要なんだよ」
「……そんなやつ、いるわけが」
「何言ってんだ。もういるだろ。お前のそばに、ずっと」
「だからいねーってッ……!」
いってんだろーがしつけーぞ、って言葉が喉奥から飛び出そうとした矢先、アイツの姿が何故だか浮かんだ。
ソイツはナユタの次ぐれーによく知っている奴だ。仕事のしすぎてフィジカルが種族限界到達していて、仕事人間のくせして服装は貴族くさくて、同じ監督官のくせして勝手に音頭とって私を任務に連れ回して、先輩風まで吹かしやがる見た目だけはキザな奴。
ナユタが示した、太陽が放つ金色の光は、まさしくアイツの髪色にそっくりだ。
「さて。そろそろ時間だ」
ゆっくりと私を下ろすと同時、空が光り出した。金色の太陽が空の青い部分を覆い尽くし、空そのものが光の塊と化す。
本来なら空を覆い尽くすほどの光量、まともに見れば目が焼けてしまう痛みに苛まれるはずだが、何故だかずっと、見ていられた。私はその光の正体を、知っている気がしたんだ。
「お相手さん、待ってるみてーだぜ」
「オメーは」
「お前の隣は、もう俺じゃねーからな」
「そんなことねー……あーしにとって、オメーはまだ……」
「気持ちはありがてーがな。袂を分かったあのときに、決しちまったことだからよ」
飲み込む気なんかなかったのに、唾が喉に詰まってしまう。
そうだ、全ては過去に決まってしまった。私は下威区を出ることを選び、ナユタは残ることを選んだ。お互い相反する選択をした時点で、隣に立つことはできなくなった。そんなことは下威区を脱するため、両肘から下を失くすことになったあのときに決したことだ。
もはや、その砌が覆ることは二度とない。もし仮にナユタが生きていたとしても、きっと私は下威区に戻らなかっただろうから。
「もう蹲んなよ。前を向け。そして笑え。馬鹿みたいでもいい。歩くのをやめなきゃ、まあ大概のことは報われる。味方がいる、お前ならな」
空から照らす光のせいか、ナユタの姿が薄くなる。光が更に強くなった。
「じゃあな」
光量が臨界点を超える。私はなすすべなく、金色の太陽に飲み込まれた。
………………―――――――――――――――――。
「ルー……ブルー……ブルー!!」
「……な、にぐぅぇ」
光に飲まれたと思いきや、唐突なベアハッグ。肋骨がミシミシと悲鳴をあげる。やめろと声を出したくても、肺が潰れて声が出ない。ぎぶぎぶ。
「あ、ああすまん。つい……」
「し、しぬかとおもった……」
レクのベアハッグとか、下手しなくてもガチで死人が出るので勘弁してほしい。自分が生きているあたり手加減してくれていたんだろうが、それでも肋骨をバキバキにへし折られるかと思ったほどだ。
「ブルー、それで……だな……」
「ああ。わかってる」
今回の出来事の全ての元凶、その根源に意識を向ける。北支部の新人とは名ばかりの、流川の本家の当主へと。
「……何だ。まだ殺り合うってのか?」
右手に炎が宿る。私が意識を失う直前、全身が血みどろになるぐらい蜂の巣にしたのに、もう完全回復している。今更ながら辟易するぐらい忌まわしい不死性だ。それさえなければ、瞬殺できていただろうに。
「おいよせ、もう勝負はついただろ」
「わかってる……!」
レクが前に出て、その身体でガン飛ばしてくる澄男の視線を遮る。
澄男との距離はそう遠くない。十分に攻撃の射程範囲内だ。でも今の私にはどう足掻いたってよじ登れないぐらいに高い、崖の上から見下されているように思える。
それもそうだ。レクの言うとおり、勝負はついた。私が負けて、奴が勝った。それは覆しようがない。向こうがまだやりたいってんなら吝かじゃないんだが、相手の方が多勢だ。
澄男は不死で、タイマンでも殺しきれなかった。御玲やぬいぐるみたちをけしかけられでもしたら、果たして勝率はどれほどだろうか。考えるだけ徒労だ。
なにより私は、澄男の右横に佇むメイドとは、できれば敵対したくない。アイツには南支部合同任務のときに、助けられた恩がある。仇で返せば、それはいよいよ一線を越える行いなような、そんな気がするんだ。
「レク、わかってるから。もーたたかうきはねー。ただソイツにききてーことがあるだけだ」
レクはしばらく警戒していたが、私の眼を数秒見ると、肩をすくめてため息をつき、私の前から退いた。
「るせんのとーしゅ……ナユタはあーしにとって、かぞくだった。このクソッタレなせかいで、さいごにいきのこったゆーいつむにのかぞく」
「へー……」
「オメーにとってなかまがいちばんだいじなように、あーしにとってかぞくがいちばんだいじだった。オメーはそーゆーそんざいのことを、かんがえたことがあんのか?」
澄男が仲間をこの世で最も大事にするのと同じように、私がこの世で一番大事なのは家族だ。コイツはそれを奪った。自分が奪われる側になると怒り狂う奴が、奪う側になったとき、どんな気持ちを抱いているのか。答え次第によっては、私は―――。
「ない。と言ったら嘘になる」
完全に冷めていた感情が一瞬で熱くなるが、最後の一言で急速に冷めていく。
「ただ俺は流川、その本家の当主であり、大事なもんを死ぬまで背負うと決めた、一人の戦士でもある。手前の大事なもんを死んでも守り切る上で敵対してくる奴がいるのなら、一人残らず殺らなきゃならねぇ。たとえ、ソイツらに大事な奴がいたとしてもな」
「それで、あーしみたいなやつにうらまれても?」
「恨んで敵対してくるんなら、ソイツも殺すだけだ」
「それで、ぎゃくにぶっころされるとしても?」
「だったら俺は所詮その程度のカスだったってだけの話だな」
「……オメーはホントーに、それがただしいとおもってんのか?」
「どうでもいい。勝った奴が正義。負けた奴が無能。だから勝ちにいくんだろうが。テメェだってそのために俺と殺し合ったんじゃねぇのかよ、ああ?」
どこまでも、平行線。分かっていたことだ。私は元スラムのガキで、相手は流川で。その価値観は、決して交わることはない。きっとナユタも、似たような問いかけをして、あまりに乖離した価値観の相違に辟易したことだろう。
「で。この理屈だと俺はテメェをぶっ殺さなきゃならんわけだが……」
流川の本家当主サマは、気怠そうな言い草で、おもむろに立ち上がる。レクがすかさず立ち塞がる。
「関係ねぇ奴がしゃしゃってて邪魔なんだよなぁ……何がしてぇんだ、テメェ?」
矛先が遂にレクにも向く。関係ないのだから不干渉を貫いていれば自分の身を危険に晒すこともないのに、毎度のことながら仕事馬鹿な奴だ。
いやむしろ、幾度となく私に拒まれてなお、それでも私に関わることをやめなかったコイツに、不干渉なんて野暮でしかない。
「俺は戦いをやめてほしいだけだ。貴方が勝ったんだろう? ならもう、戦う理由はないはずじゃないか」
「それはテメェが決めることじゃねぇ。死にたくなきゃ失せろ。テメェに出る幕なんざありゃしねぇんだ」
「んいや、ある」
澄男の顔が怒りに歪む。砂埃が立ち込め、心なしか気温が上がる。
今は夏で、既に正午は過ぎている。一日の最高気温に達しようとしている頃合い、暑さを感じてもなんら不思議じゃないが、肌が感じる気温上昇は、噴火寸前の火山帯にいるような気分を想起させる。
「俺は……レク・ホーランとして、相棒を目の前で失うわけにはいかない。貴方がブルーを殺るというのなら―――」
鞘から剣を抜き、構える。
それは、レクがいつも愛用している長剣。刃先が平らで刺突に向かない、銘柄もなければ符呪も何も施されていない無骨な剣だが、レクは物理面だけなら種族限界を突破している。剣士でありながら大概の相手を素手で殺れてしまうフィジカルをもつレクが、あえて剣を出して戦う意味を、私は知っている。
「たとえ相手が流川でも、俺は戦う……!」
私を庇うように、長剣を構えて仁王立つ。
誰に対しても、常に気丈に振る舞い、如何なる強敵を前にしても決して冷静さを失わないレク。私はそんな彼と長い間、隣に立って戦ってきたからこそ分かる。剣を持つレクの腕が、ほんのわずかだが、小刻みに震えていることを。
「よせ、レク……あーしのために!」
レクの裾にこれでもかと力を込めて噛みつく。
レクと澄男、戦ったらどっちが勝つか。認めるのはクソ癪だが、澄男とレクじゃ基礎スペックが違いすぎる。
属性攻撃に対して何の耐性もないレクが、奴の火炎攻撃を喰らい続ければ、いくら物理面がタフでも無慈悲に焼き尽くされてしまうだろう。それになにより、澄男は不死だ。どれだけ攻撃したって死にはしない。弱点属性を浴びるほどぶつけてもなお殺しきれなかったぐらいだ。物理攻撃しか使えないレクじゃどういう結末を辿るか、分かりきっていた。
「ブルーさん。あなたは、どうしたいんですか?」
口を開いたのは、ずっと成り行きを無言で見届けていた御玲だった。
「このままだと堂々巡りです。私としましても、あなたがたと敵対するというのは気が進みませんが、主人に刃を向けるというのなら、槍を構えざる得ません」
がん、と槍の石突を地面に叩きつける。
「流川本家派直系が一柱、水守家当主``凍刹``―――水守御玲として問います」
石突を中心に霜が降りる。主人である澄男の熱とぶつかって、大気中の水蒸気を凝結させるほどの強烈な冷気、気にも止めていなかったが、澄男が流川の本家なら、御玲は本家側の人間、直系暴閥の水守家の当主。レクと同じく、人類の限界に至った数少ない存在。
「まだ、続けますか?」
彼女が放つ冷気は、``凍刹``の名に恥じない。戦えばレクも私も、その全てを凍てつかせられるほどに。
「……あーしは……」
対するは、流川と水守、その当主。巷では、四強と五大の一角を担うとされる、武市最上位の強者たち。
私だけならともかく、今ここにはレクがいる。私の身勝手でしかない復讐に、無関係なレクを巻き込むのか。
今のレクなら復讐がどうのこうのとか関係なく、私が戦うと決めたらそれを止めるために戦うだろう。たとえその先が死地だとしても、コイツなら絶対に迷わない。私が知るレク・ホーランって男は、本気になったら退かない人物でもあるのだ。
それになにより、今の私にはナユタが最後に言った言葉が、頭から離れない。
「……あーしは、もううしろはみねーって、やくそく……したから」
近くの瓦礫に、項垂れるように座り込む。ナユタの言葉が脳裏をよぎるたび、復讐にたぎっていた炎が冷や水をブチまけられて消されていく。
続きがしたいかと問われれば、したい。目の前に最後に残された家族を殺した奴がいて、私は死に損なった。だったらまた雌雄を決したいってのが偽らざる本音だ。
でもその選択をするってことは、本来全く関係のないレクを復讐に巻き込み、更にナユタが残した最後の言葉すらも裏切ることになる。
なによりアイツは復讐を始める前からずっと私に``生きろ``と言ってきた。今思えば、復讐のためにその命を張る。その行い自体が、ナユタへの裏切りだったことに今更だが気づいてしまった。気づいてしまったからには、矛を突きつける気にはなれない。
そしてもう一つ付け加えるなら―――南支部任務のとき、身を挺して命を救ってもらった恩人に槍を突きつけられるのが、堪らなく痛い。ナユタやツムジ以前に、恩を仇で返してでも復讐に身を落とす覚悟がない時点で、復讐なんてする資格は―――。
もはや、私にはない。
「ブルー……!」
レクが私を優しく抱き寄せる。
暖かい。レクの体温がポンチョを通じてほんのりと伝わってくる。その暖かさには、見覚えがあった。
ナユタが最後に見せた、故郷の景色。いつもは暑いだけの、干ばつと飢餓の原因にしかならない害悪な太陽が、そのときだけは暖かくて、優しい温もりと全ての闇を打ち払う光が、かつての居場所だった路地裏の日陰すらも照らしていた。
瞼から雫が滴る。まだ胸の奥底で燻る暗黒の汚泥が落としきれたわけじゃない。たとえ全ての泥を落としても、汚泥によってできた黒いシミは、きっと消えることはないだろう。それでも汚泥と腐敗に塗れた世界に沈むより、馬鹿みてーに前向いて、光が差し込む方向に足を進めた方が幸せだと今なら思える。
私の目の前には太陽がいる。明けることなんてなかったはずの、常夜を照らす黄金色の太陽が。常夜を生きてきた私にその光はあまりに眩しいけれど、いつかは光が照らす日向で、胸を張って歩ける奴になりたい。ナユタやツムジがいつしか夢見た、暗雲が立ち込めることのない、日向の世界を。
私に向かって風が吹く。夏だってのに温くもなければ冷たくもない優しい風が、私の肌とレクの金髪を靡かせる。雲の切れ目から差し込む光、それらを目一杯吸い込んだ髪は、一本一本を煌びやかに輝せた。全てを蝕む常闇を払い除け、一閃の道を指し示すかのように。
0
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
チート魔力はお金のために使うもの~守銭奴転移を果たした俺にはチートな仲間が集まるらしい~
桜桃-サクランボ-
ファンタジー
金さえあれば人生はどうにでもなる――そう信じている二十八歳の守銭奴、鏡谷知里。
交通事故で意識が朦朧とする中、目を覚ますと見知らぬ異世界で、目の前には見たことがないドラゴン。
そして、なぜか“チート魔力持ち”になっていた。
その莫大な魔力は、もともと自分が持っていた付与魔力に、封印されていた冒険者の魔力が重なってしまった結果らしい。
だが、それが不幸の始まりだった。
世界を恐怖で支配する集団――「世界を束ねる管理者」。
彼らに目をつけられてしまった知里は、巻き込まれたくないのに狙われる羽目になってしまう。
さらに、人を疑うことを知らない純粋すぎる二人と行動を共にすることになり、望んでもいないのに“冒険者”として動くことになってしまった。
金を稼ごうとすれば邪魔が入り、巻き込まれたくないのに事件に引きずられる。
面倒ごとから逃げたい守銭奴と、世界の頂点に立つ管理者。
本来交わらないはずの二つが、過去の冒険者の残した魔力によってぶつかり合う、異世界ファンタジー。
※小説家になろう・カクヨムでも更新中
※表紙:あニキさん
※ ※がタイトルにある話に挿絵アリ
※月、水、金、更新予定!
勇者パーティーを追放されたので、張り切ってスローライフをしたら魔王に世界が滅ぼされてました
まりあんぬさま
ファンタジー
かつて、世界を救う希望と称えられた“勇者パーティー”。
その中で地味に、黙々と補助・回復・結界を張り続けていたおっさん――バニッシュ=クラウゼン(38歳)は、ある日、突然追放を言い渡された。
理由は「お荷物」「地味すぎる」「若返くないから」。
……笑えない。
人付き合いに疲れ果てたバニッシュは、「もう人とは関わらん」と北西の“魔の森”に引きこもり、誰も入って来られない結界を張って一人スローライフを開始……したはずだった。
だがその結界、なぜか“迷える者”だけは入れてしまう仕様だった!?
気づけば――
記憶喪失の魔王の娘
迫害された獣人一家
古代魔法を使うエルフの美少女
天然ドジな女神
理想を追いすぎて仲間を失った情熱ドワーフ
などなど、“迷える者たち”がどんどん集まってくる異種族スローライフ村が爆誕!
ところが世界では、バニッシュの支援を失った勇者たちがボロボロに……
魔王軍の侵攻は止まらず、世界滅亡のカウントダウンが始まっていた。
「もう面倒ごとはごめんだ。でも、目の前の誰かを見捨てるのも――もっとごめんだ」
これは、追放された“地味なおっさん”が、
異種族たちとスローライフしながら、
世界を救ってしまう(予定)のお話である。
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
仕事繁忙期の為、2月中旬まで更新を週一に致します。
カクヨム(吉野 ひな)様にも投稿しています。
悪徳貴族の、イメージ改善、慈善事業
ウィリアム・ブロック
ファンタジー
現代日本から死亡したラスティは貴族に転生する。しかしその世界では貴族はあんまり良く思われていなかった。なのでノブリス・オブリージュを徹底させて、貴族のイメージ改善を目指すのだった。
『異世界ガチャでユニークスキル全部乗せ!? ポンコツ神と俺の無自覚最強スローライフ』
チャチャ
ファンタジー
> 仕事帰りにファンタジー小説を買った帰り道、不運にも事故死した38歳の男。
気がつくと、目の前には“ポンコツ”と噂される神様がいた——。
「君、うっかり死んじゃったから、異世界に転生させてあげるよ♪」
「スキル? ステータス? もちろんガチャで決めるから!」
最初はブチギレ寸前だったが、引いたスキルはなんと全部ユニーク!
本人は気づいていないが、【超幸運】の持ち主だった!
「冒険? 魔王? いや、俺は村でのんびり暮らしたいんだけど……」
そんな願いとは裏腹に、次々とトラブルに巻き込まれ、無自覚に“最強伝説”を打ち立てていく!
神様のミスで始まった異世界生活。目指すはスローライフ、されど周囲は大騒ぎ!
◆ガチャ転生×最強×スローライフ!
無自覚チートな元おっさんが、今日も異世界でのんびり無双中!
異世界あるある 転生物語 たった一つのスキルで無双する!え?【土魔法】じゃなくって【土】スキル?
よっしぃ
ファンタジー
農民が土魔法を使って何が悪い?異世界あるある?前世の謎知識で無双する!
土砂 剛史(どしゃ つよし)24歳、独身。自宅のパソコンでネットをしていた所、突然轟音がしたと思うと窓が破壊され何かがぶつかってきた。
自宅付近で高所作業車が電線付近を作業中、トラックが高所作業車に突っ込み運悪く剛史の部屋に高所作業車のアームの先端がぶつかり、そのまま窓から剛史に一直線。
『あ、やべ!』
そして・・・・
【あれ?ここは何処だ?】
気が付けば真っ白な世界。
気を失ったのか?だがなんか聞こえた気がしたんだが何だったんだ?
・・・・
・・・
・・
・
【ふう・・・・何とか間に合ったか。たった一つのスキルか・・・・しかもあ奴の元の名からすれば土関連になりそうじゃが。済まぬが異世界あるあるのチートはない。】
こうして剛史は新た生を異世界で受けた。
そして何も思い出す事なく10歳に。
そしてこの世界は10歳でスキルを確認する。
スキルによって一生が決まるからだ。
最低1、最高でも10。平均すると概ね5。
そんな中剛史はたった1しかスキルがなかった。
しかも土木魔法と揶揄される【土魔法】のみ、と思い込んでいたが【土魔法】ですらない【土】スキルと言う謎スキルだった。
そんな中頑張って開拓を手伝っていたらどうやら領主の意に添わなかったようで
ゴウツク領主によって領地を追放されてしまう。
追放先でも土魔法は土木魔法とバカにされる。
だがここで剛史は前世の記憶を徐々に取り戻す。
『土魔法を土木魔法ってバカにすんなよ?異世界あるあるな前世の謎知識で無双する!』
不屈の精神で土魔法を極めていく剛史。
そしてそんな剛史に同じような境遇の人々が集い、やがて大きなうねりとなってこの世界を席巻していく。
その中には同じく一つスキルしか得られず、公爵家や侯爵家を追放された令嬢も。
前世の記憶を活用しつつ、やがて土木魔法と揶揄されていた土魔法を世界一のスキルに押し上げていく。
但し剛史のスキルは【土魔法】ですらない【土】スキル。
転生時にチートはなかったと思われたが、努力の末にチートと言われるほどスキルを活用していく事になる。
これは所持スキルの少なさから世間から見放された人々が集い、ギルド『ワンチャンス』を結成、努力の末に世界一と言われる事となる物語・・・・だよな?
何故か追放された公爵令嬢や他の貴族の令嬢が集まってくるんだが?
俺は農家の4男だぞ?
1×∞(ワンバイエイト) 経験値1でレベルアップする俺は、最速で異世界最強になりました!
マツヤマユタカ
ファンタジー
23年5月22日にアルファポリス様より、拙著が出版されました!そのため改題しました。
今後ともよろしくお願いいたします!
トラックに轢かれ、気づくと異世界の自然豊かな場所に一人いた少年、カズマ・ナカミチ。彼は事情がわからないまま、仕方なくそこでサバイバル生活を開始する。だが、未経験だった釣りや狩りは妙に上手くいった。その秘密は、レベル上げに必要な経験値にあった。実はカズマは、あらゆるスキルが経験値1でレベルアップするのだ。おかげで、何をやっても簡単にこなせて――。異世界爆速成長系ファンタジー、堂々開幕!
タイトルの『1×∞』は『ワンバイエイト』と読みます。
男性向けHOTランキング1位!ファンタジー1位を獲得しました!【22/7/22】
そして『第15回ファンタジー小説大賞』において、奨励賞を受賞いたしました!【22/10/31】
アルファポリス様より出版されました!現在第四巻まで発売中です!
コミカライズされました!公式漫画タブから見られます!【24/8/28】
マツヤマユタカ名義でTwitterやってます。
見てください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
おもしろい!
お気に入りに登録しました~
ありがとうございます。