ゼフィルス、結婚は嫌よ

多谷昇太

文字の大きさ
上 下
29 / 33
10年後への求婚

縁生の舟(3)

しおりを挟む
思えばそれほどに、この日この時のことを夢見て幾星霜…であったのだろう。では義男の口上を聞こうではないか。
「惑香さん、その特攻隊員…あなたは身近な誰かのことをお忘れではありませんか?」
「え?身近って…」
「鳥居義雄。ははは。あなたの叔父様ですよ」
「ああ…わたしの叔父」
「そうです!帝国大学経済学部在籍中、学徒出陣で沖縄菊水作戦に赴かれ、沖縄近海で殉じられた方です。見事敵駆逐艦を撃沈されました。あなたのお母様からお聞きおよびのことと思いますが?」
「え、ええ…」云われてみれば確かに迂闊だった。特攻で戦死した叔父のことは惑香の母・春子から聞かされたし、義男の父・一郎からも一度聞いたことがある。いまから10年前のこと、惑香が大人と一応まともな口の利ける中学生になるのを待っていたかのように、久しぶりに訪ねて来た一郎が「惑香ちゃん、小父さんはね、惑香ちゃんの叔父さんがいなかったら、実はいま頃こうして惑香ちゃんの前で生きていなかったの」「え…?」「うん、実は小父さんがね、帝大生のころ…い、いや、大学生の頃にね…」で始まった話は概ね以下の通りだった。1945年往時結核に罹患して死線をさまよっていた一郎のために、親友だった義雄が医学部始め方々の伝手をたどって、当時まだ開発されたばかりの碧素・ペニシリンをを手に入れてきてくれたのだった。自分が特攻で死ぬ直前のことで、碧素のお陰で劇的に症状の回復した一郎はしかし直後に義雄の特攻死を知り、いたたまれずに嗚咽にむせんだのだった。話すうちに感極まった一郎は図らずも往時と同じく中学生に過ぎない惑香の前で嗚咽してしまう。「いやだ、小父さん…」対応に窮する惑香だったが母・春子が「まあまあ、一郎さん。もういいですよ。惑香に話しても仕方ないし、兄もあなたが回復するのを見てさぞや本望だったでしょう」と間を取り持った。しかしそれを聞いて「は、春子さん…!」とばかりに一郎はさらに万感が迫ってしまい横を向いて顔をハンカチで覆ってしばし嗚咽し続けるのだった。思えばそれ以来一郎は残された義雄の母・敏子と当時まだ12才に過ぎなかった春子の面倒を生涯見ようと決心し、以来幾星霜だったのである。
しおりを挟む

処理中です...