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アレス・グーテ

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 列車の発車を告げるアナウンスが流れて来た。「アクトン、アクトン、スイス・バーゼル行き列車が発車します。お乗りの方は…」アルプスおろしの冷たい風が再び2人の間に吹いて来た。どうやら風に別離を告げられたようだ。乾坤一擲手を差し伸べて、「さあ、行きましょう!マリアさん。サウンド・オブ・ミュージックの、あのスイスです。乗車券など列車の中で替えてもらえばいい」と云えるような俺ではもとよりない。暫しお互いを見つめ合う。このような状況で、似たような境遇で、このような人に巡り合えたということが、俺にはどうしても偶然だとは思えなかった。もう一度だけ視線で強く彼女をエスコートしてみる。『さあ、行こう!ぼくと。この出会いは偶然じゃあない。あなたとぼくはきっと…』などと彼女にとっては妄想きわまる、且つ勝手きわまるかも知れない熱い思念を、寒風を吹き飛ばすかのように送ってみせる。しかしそれへ…彼女は目をそらさずに無言のままで俺を見つめ返してくれた。『だったら…男を示してよ。何をすればいいか…わかるでしょ?』という彼女の心中の声が聞こえたような気もしたが、無論妄想だったろう。このような切事場で、自他に対する最後の踏ん切りを為し得ないないのが俺の業であり、心の中の暗い洞窟に住み続けて、明るい表に出られない理由なのだと、つくづくそう思う。始めてここに記すが、日本での安穏な生活を捨てて(俺は役人だった)ランボーの放浪旅に殉じたのも、またそのことをわかってもらえらず他人から馬鹿と思われようとも、どうにかしてこの最後の踏ん切りを為さんがためのことだったのだ。しかるに、その肝心の切事場で…運命の人から見つめられようともそれは…であった。
 ついに俺は「いや、お友だちがいるのなら、それはあなたにとっては、やはりパリの方がいいでしょう」などと心にもないことを云い、しかし今度は万感の想いを込めて「アレス、グーテ。幸運を祈ります」とドイツ語をまじえて別れを告げた。そのまま背を向けて、ふり返ることもなく列車の方へと歩き出す。列車の乗降口のタラップに足をかけた時もう一度だけ彼女を見遣る。ベンチに腰かけたままで心細そうに俺を見つめ続けている、赤いヤッケ姿の彼女が目に焼き付いたが、それをふり払うように首を一振りして俺は車中の人となった…。

        【彼女をこうして一人で行かせたくなかった…】

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