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十一の月
2、【龍昇】豊穣祭
しおりを挟む「……いや、悪いが一人で行ってくるよ。お前たちも好きに動きたいだろうし」
「おや、フラれちまった。残念だったな、飛路」
首を振って航悠の誘いを断ると、急に矛先を向けられた飛路が目を瞬いた。
「え、なんでオレ……? 誘ったのは頭領でしょう」
「一人で、ってことはお前も駄目ってこった。うちの女王様の審美眼は厳しいな」
「別に、そういうつもりで言ったんじゃない。……出かけてくる。適当にふらふらしてるよ」
「はいはい、行ってらっしゃい」
酒楼に残る二人を適当にあしらい、雪華は財布だけ懐に入れると一人で雑踏へと踏み出した。残った二人は呆れた視線でその後ろ姿を見送る。
「……本当に女一人で行っちまったよ。あいつ、周りの目とか気にしなさすぎだろ」
「そういうとこ、ほんと頭領にそっくりですね」
「俺はあんなに無頓着じゃねぇよ。……さて飛路。フラれたもん同士、寂しく酒でも飲むか?」
「……寂しくないんで、遠慮しときます」
雪華に袖にされたとて他にも引く手あまただろう色男の提案を、飛路は苦笑いで受け流した。
「さすがに盛況だな……」
屋台が多く出ている通りまで歩いてくると、赤い提灯が吊るされた市街地は普段と様子が一変していた。
夜が深まるにつれて、活気も増してきているようだ。通りは人でごった返し、流れに沿って歩くしかない。
雪華たちが普段生活している花街も不夜の街だが、やはり祭りで飾り付けた市街地とはだいぶ雰囲気が異なる。行きかう人の顔には今年も実りを得られたという安堵と満足感が、笑みとなって浮かんでいた。
(さて、甘味の前に適当に腹ごしらえするか……)
ざっと見たところ、甘味を扱っている屋台がちらほらと見つかった。中には異国の甘味を売っている店もある。
興味は引かれるが、甘味ばかりでは腹が膨れないし何より太る。ここは慌てず量より質で攻めるべきだろう――そんなことを考えながら、雪華は屋台を物色した。
食べ歩きながらふと見上げると、酒楼の露台で談笑する人々の姿が目に入った。そこから視線を転じると、煌々と照らされた城門と陽帝宮の外朝が遠くに見える。
「…………」
豊穣祭と元日の日にだけ、陽帝宮は夜通し松明を燃やして明かりを灯し続ける。陽連の人々は夜でも明るい城を見て、その美しさに国の安泰を信じるのだと、昔誰かから聞いた。
詳しくは知らないが――今宵、城では皇帝による祭祀が執り行われるはずだ。斎の民なら誰でも見ることができるが、代替わりした見目良く若き皇帝を一目見ようと、女性たちがこぞって向かうだろうと藍良が言っていた。
(……私には、関係のないことだ)
外朝から目を逸らし、城へと向かう人の流れに逆らって雪華は雑踏を歩く。急に一人でいることがなんとなくいたたまれなくなり、溜息をついた。
「……帰るかな」
来たばかりだが、気分が乗らなくなってしまった。だが宿へと歩き出すと、道端に並んだ露店にふと興味を引かれて足を止める。
そこは、宝石商の露店のようだった。大きな台の上に所狭しと耳環やら首飾りやらが並べられ、光を放っている。
身を飾ることにはそう頓着しない性質だが、自分も一応は女のはしくれだ。こういう装飾品に興味がないわけではない。すると雪華の視線に気付いた店主がすかさず声をかけてくる。
「お姉さん、何かお探しで?」
「え? ああ……いや、とりあえず見ているだけだが」
「自慢じゃないですが、赤字覚悟の値打ち品が多いですよ。あんた別嬪だから、特別にまけてもいい」
「たしかに、物はいいな」
値段もそう高くないし、一つ買って帰るのもいいかもしれない。店主の説明を聞きながら、並べられた装飾品を物色する。
「じゃあ……この耳飾りを」
少しして雪華が選んだのは、真珠が一粒ずつ付いた耳飾りだった。耳につければ、きっと涼やかに揺れるだろう。
「かしこまりました。お包みしますか?」
「ああ、頼む」
代金と引き換えに品物を受け取り、雑踏へと戻る。よく見ると他にも様々な商品を扱う露店が並んでいて、興味深く眺めた。帰ろうと思っていたが、これはこれで結構面白いかもしれない。
そうこうしているうちにどこかから銅鑼の音が鳴り響き、道行く人が一斉に城の方向を眺めた。
……これは、知っている。あと三十分ほどで宮城の祭祀が始まるという合図だ。
「…………」
ここから城までは、ちょうど三十分程度。雪華の足ならば十分に間に合う。
(間に合う……? 何にだ)
決まっている。皇帝の――龍昇の祭祀にだ。自然と心に浮かんだその名に眉をひそめる。
……自分は見たいのだろうか。彼が皇帝として、祭祀を執り行う様を。
先日の任務で見た、正装で玉座に座っていた男の姿を思い出す。若々しくも、威厳に溢れていた。あんな顔は見たことがなかった。
「…………」
胡朝は嫌いだ。その治世は決して悪くないとは思うが、それが成立する時に起こった出来事を思い出すとどうしても暗い気持ちになる。
だが龍昇を――皇帝でない一人の男のことを、自分はどう思っているのだろう。
(別に、どうとも思っていない)
それどころか、憎んでいるのかもしれない。龍昇に会うと、自分は平静ではいられなくなる。
憎しみ、怒り……もう消えたと思っていた感情を、あの男は平気な顔で引きずり出す。
(あいつがもっと、居丈高で偉そうだったら。憎しみだけ抱いて、すぐに忘れられたのに――)
そこまで考えて、雪華はふと顔を上げる。さっきから、龍昇のことしか考えていないではないか。
「……埒が明かないな」
結局、行ってみたいのだ。けれどそれを認めたくなくて、行かずに済む理由をあれこれと考えている。
迷うよりも、行動してしまう方が性に合っている。そう腹をくくると、雪華は城に向かって歩きはじめた。
一般開放されている城門をくぐると、当然ながらそこはすでに人でごった返していた。若い女性が多い。藍良の言ったとおり、龍昇が目当てなのだろうか。
辺りを見渡すと、人気のない建物の影へと忍び込む。周囲に人の目がないことを確認して、雪華は静かに建物の壁へとよじ登った。
「簡単すぎるぞ……。外朝のさらに外とはいえ、警備が甘い」
自分の行いは棚に上げてぼやくと、そろりそろりと屋根の上を移動する。
祭祀が行われる屋外神殿を見渡せる位置まで進み、屋根に座り込むとちょうど真下で銅鑼の音が鳴った。……始まるらしい。
外朝の方から最初に入ってきたのは、神官の一団だった。長ったらしい口上を、雪華はあくびをしながら聞き流す。
(そういえば昔も、これが退屈すぎて死にそうだったな……)
口上が終わると、にわかに周囲が騒がしくなった。外朝の方角から、ゆっくりと何人かの集団が近付いてくる。その中央にいるのは皇帝――龍昇だ。
正装に身を包んだ龍昇は、重々しい足取りで神殿へと足を踏み入れ、奉礼のために設えられた台座に上る。両端に置かれた松明にかがり火が灯され、神殿の周囲は柔らかな炎の色で満たされた。
龍昇の真剣な表情が、火の色に染まる。荘厳な光景に周囲のざわめきは静寂へと姿を変え、神殿は水を打ったように静まり返った。
まずは神官が、清めの水を龍昇の額に擦りつけた。頭を垂れてそれを受けた龍昇は、持っていた木簡をおもむろに開く。そして斎国の現皇帝は、朗々とした声でそれを読み上げた。
(これ……)
その口上は過去何百年にもわたって、斎国皇帝に受け継がれてきたものだ。今年の豊穣を天に感謝し、また来年の実りと国民の健康を天へと祈るもの。
子供の頃から、父が読み上げるのを幾度となく神殿の皇族席で聞いていた。意味などよく分からないままに。
だが今聞くと――なんと美しく聞こえるのだろう。
こんなものは、長い間受け継がれて慣習となった儀式にすぎない。皇帝が土を耕すわけでも実りを収穫するわけでもないのに、ただ祈るだけで豊穣が得られるだなんて思い上がりもいいところだ。
本当に豊穣を願うのなら、政治の場でやるべきことが多々あるはずだ。皇女でなくなった雪華は、冷静な頭でそう思う。
けれど今、この場にいる民たちはきっと……龍昇が祈りを捧げるその『神』を、龍昇の背中を通して見ているのではないかと、そう思った。そう思わせるだけの荘厳さが、その佇まいと表情には溢れていた。
「…………」
目を閉じると、龍昇の低い声が鼓膜を静かに震わせる。……今、気付いた。彼はなかなかいい声をしている。
高すぎず低すぎず耳に馴染む張りのある声音は、生来の生真面目さを表しているが、決して硬くはない。むしろ深い艶が見え隠れして、女たちが騒ぐのもなるほど無理はないと思えた。
(こんな声をしてたのか……)
かつて別れた時は、まだ声変わりをする前だった。そして再会してからこれまでも何度か顔を合わせたが、落ち着いて聞いたのは今日が初めてのような気がする。
口上が終わると榊を持った神官が、龍昇に向かって枝を数度振る。これは皇帝に天の加護あれ、という意味だ。それで、祭祀は終了だった。
龍昇の表情が少し緩み、周囲にもまたさざめきが戻ってくる。それを見届けて、雪華は城の屋根を歩きはじめた。
適当なところで地面へと下り、見物人の流れに沿って花街へと歩きはじめる。市街地へと戻っていく人々が、興奮したように龍昇のことを語った。
「いやぁ、今度の皇帝は男前だな。初めて見たよ」
「でも若すぎやしないか? 親父さんがもう少し生きるかと思ったが、やっぱ朱朝の恨みが効いたのかねぇ」
「滅多なこと言うなって。……俺は今の皇帝、好きだがね。切れ者って感じじゃないが、若いわりには落ち着いてる」
「そうさなぁ。でも、私生活は落ち着いてないんだってな。まだ後宮に側室もいないんだと」
(……そうなのか)
見知らぬ人々の雑談を雪華は意外な思いで聞いていた。……そういえば、前に藍良がそんなようなことを言っていた気がする。
「堅物なのかねぇ。それともそっちの気があるとか。だったらマズいよなぁ」
「ばーか、そんな訳ないだろ。斎の貴族の令嬢やら異国の姫やらを見定めてるんだろ。誰が側室や皇后になるかで政治が変わるって言うし」
「あーそうか、そうだよな。最近シルキアとどうも仲悪いとかって話も聞くし、婚姻は大事だよなぁ」
「ま、俺らには関係ないけどな。お前もさっさと身を固めろよ」
「はいはい、いつかはな。あー、そそる感じの美女がどっかにいねぇかな~。薫風楼の妓みたいな」
「お前にゃ百年かかっても無理だな」
呑気に話しながら大通りへと消えていく男たちを見やり、雪華は蒼月楼へと帰りついた。
夜も更けて静まり返った自室でまぶたを閉じると、今日の龍昇の姿と声が頭の中に浮かんでくる。……いい顔をしていたと、素直にそう思う。けれどそれで、複雑な想いが消えるわけでもない。
(私は一体、あいつの姿に何を望んでいたのだろう……)
関わりたくないと思うのに、気付けば自然と目が追っている。忘れたいと思っていたのに、再会して以来、奴の存在がこの心を波立たせる。
「………寝よう」
考えても堂々巡りになり、思いもかけない答えが出てきそうな気がして、誰にともなくつぶやくと雪華は寝台へと入った。
その夜――陽連郊外の貴族宅にて、第二の爆発事件が発生した。
今回もまた威嚇目的だったようで、死者こそ出なかったものの、怪我人が何人も出たとあとから伝え聞いた。
やはり下手人は分からず、ただその被害者の貴族が皇帝擁護派だったことが、前回の事件との共通点だった。
これ以降、陽連では「皇帝と親しい貴族が狙われる」という噂がまことしやかに流れ、貴族は表立って皇帝を庇うことを避けるようになる。
そんな未来を予測することができるはずもなく、その夜雪華は深夜まで続く街の喧騒をものともせずに、深い眠りについていた。
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