【完結】斎国華譚 ~亡朝の皇女は帝都の闇に舞う~

多摩ゆら

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十一の月

8、【龍昇】続・陽帝宮にて

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 龍昇との遭遇から数日後。いつものように書物を抱えて回廊を歩いていた雪華は、柱を曲がったところでこちらに近付く影に気付き、慌てて膝を折った。
 視界に、おそらく上級官吏のものだろう上質な絹の着物が映る。すぐに通り過ぎるだろうと思われたそれは、雪華の足元でぴたりと止まった。

(なんだ……?)

 外朝に入ってから、すでに数日。その間、こうして立ち止まり「顔を上げよ」と言ってきた官吏が何人かいた。多くはニヤついた笑みを浮かべて。
 また新手のやからだろうか――。面倒なことになったら嫌だなと嘆息しつつ、官吏が行ってくれるのを待つ。だがその男は雪華に声をかけることも先に進むこともなく、じっとその場に立ちつくしていた。

 さすがにおかしい。……誰だ。しかしふと鼻をくすぐった伽羅きゃらの香りに、雪華ははっと顔を上げる。

「…………」

 予想通り――供も付けていない皇帝が一人で立ちつくしていた。雪華は立ち上がると、書物を抱えなおしさっさときびすを返す。
 先日の一件がいまだに尾を引き、顔を合わせたくなかった。わざわざ皇帝が来なさそうな場所を歩いていたのに、その努力をふいにする男の行動が恨めしい。背中を見せた雪華に、我に返ったような声が飛んでくる。

「少し……時間を貰えないか。あなたと話がしたい」

「…………」

 振り返って冷ややかな視線を向けると、毅然とした顔の龍昇と目が合う。そこには、先日あったような憐れみや悔いの色はない。わずかに逡巡しゅんじゅんし、やがて雪華はゆっくりと頷いた。

「……いいだろう」



 不自然に見えない程度の距離を保って、龍昇の後ろをついて歩く。姿勢のいい背中を見ていると、ふいに古い記憶が頭をよぎった。
 昔、よくこうして……龍昇の後ろをついて歩いた。あるときは迷子になった香紗を連れて帰るために。あるときは少し困ったような顔をしながらも、せがむ香紗を断りきれずに龍昇が手を引いて。


『龍昇…! 龍昇』

『なんですか? 姫。そんなに強く掴まなくても、逃げませんてば』

『うふふ。……ねぇ龍昇。ずっとずっと、いっしょにいてね?』

『……はい。約束です、香紗姫――』


(……嘘ばかり。私もこいつも、幼く愚かだった……)

 つまらない感傷を、頭を軽く振って追い払う。もうあの頃とは互いの立場が違う。だが龍昇の姿勢の良さだけはそのままで、何か不思議な気持ちになった。


「……どうぞ」

 扉をみずから押し開き、龍昇が執務室へと雪華を迎え入れた。周囲を確認してから身を滑り込ませ、雪華は部屋に置かれた椅子へ勝手に腰かける。

「城内とはいえ、不用心だな。普通は侍従や女官をぞろぞろ連れて歩くものだろう」

「執務室の近くでぐらい、自分の好きにさせてもらう。生まれついての皇太子でも皇帝でもないからな。いまだに常時、誰かがそばにいることに慣れない」

「ま、皇帝だろうと鬱陶しいものは鬱陶しいだろうな」

「……否定はしないな」

 わずかに苦笑した龍昇が姿勢を正す。彼は一度目を閉じると、深い思慮をたたえた静かな瞳で口を開いた。

「先日は、すまなかった。俺の不用意な発言であなたに不快な思いをさせた」

「…………。別に、もういい。私も変に気が高ぶって言いすぎた」

 呼び出された時から薄々予想はしていたが、やはりこの話題か。
 龍昇の謝罪を、雪華は冷静な気持ちで聞いていた。先日は怒りが先に立ってしまったが、数日経つとさすがに自分の言動もかえりみることができた。

 龍昇の言葉はたしかに不快だったが、雪華も雪華でずいぶんと大人げない挑発をしたように思う。目を逸らしてぼそりと告げると、龍昇が静かに首を振る。

「あなたが詫びることなど何もない。俺に非があったんだ。……あれから、あなたに言われた事をずっと考えていた」

「…………」

「あなたの言ったとおり――俺はたしかに、あなたと『香紗姫』を、重ねて見ていたように思う。……あなたがかつて皇女だったことは紛れもない事実だ。だから重ならない部分がないとは言えない。だが今のあなたを本当に見ていたのかと言われると、正直……自信がない」

 龍昇の目には迷いがあった。その顔を見つめ返すと、彼は目を伏せて静かに続ける。

「あなたを通して、皇女のまま成長していたらどうだっただろうと無意識のうちに仮定をしていたような気もする。あなたには、あなたの歩んできた人生があるのに……勝手な想像だな。あなた自身を否定する気はまったくなかったが、あなたが怒るのも道理だ。……すまなかった。だがあなたをおとしめるとか、憐れむ気持ちは本当になかったんだ。それだけは伝えておく」

 龍昇が深く頭を下げる。雪華は呆然と、短い黒髪が揺れる様を見つめていた。
 窓の外で木々がざわめく。そうして、しばらくの時が経ったあと――

「……皇帝が、そんなに簡単に頭を下げるな」

「心底申し訳ないと思ったら、自然に頭は下がる。皇帝だろうと平民だろうと変わらない。それを忘れては人として終わりだ」

 龍昇がようやく頭を上げた。引き結んだ唇はそのままだが、その目は雪華を静かに見つめている。その視線に、思わず小さな溜息が漏れた。

「たかだか女一人の愚痴に、律儀なことだ。そんなことをいちいち気にしていたら、いつか胃に穴が開くぞ」

「下手な自尊心を守って間違ったことを詫びず、ずっと気に病むよりはよほどいい」

 一本芯の通った、と言えば聞こえはいいが――悪く言えば、融通の利かない奴だ。そんな男の姿に、もう一度溜息が漏れる。

「もういいと言った。……謝るな。そう何度も謝られると居心地が悪い」

「……分かった。だが本当に、すまなかった」

 龍昇はもう一度軽く頭を下げると、ようやくほっとしたように目元を和らげた。その様を見て、雪華も体の力を抜く。……知らぬ間に、自分も力んでいたようだ。

 龍昇が立ち上がり、茶を淹れて戻ってくる。何度目かになるその行為を雪華はもう驚かない。
 茶杯が目の前に置かれ、静かにそれをすすった。向かいの席に腰掛けた龍昇が、わずかな苦笑を浮かべたまま口を開く。

「この前、伝えたかったのは……本当はもっと違うことだったんだ」

「……?」

「その……あなたがあそこにいて、もちろん驚いたが……本当は、嬉しかったんだ。また会えて」

「…………」

「あなたがこの街を出てしまえば……いや、身をくらまそうと思えば、俺は二度とあなたに会うことはないだろう。実際、前の祭りの時にあなたにそう言われて……もうこれで会えないのかと思ったら、ひどく苦しかった。今まで何年も会わずにいたのに」

 龍昇の言葉が予想外すぎて、雪華は目を見開いた。そんな雪華を見つめたまま、龍昇は畳みかけるように言葉を重ねる。

「あなたは俺に、会いたくなかったと言っていた。俺たちの過去を思えばそれは当然だと思う。でも、俺は――あなたに再会できて、嬉しかった。本当に……嬉しかったんだ」

「……っ」

 一点の曇りもなく、龍昇の視線はその言葉が真実であると告げていた。自分を見つめる穏やかで深い眼差しに、雪華は正直、返す言葉がなかった。
 嫌悪したのではない。それとは逆だ。まっすぐな龍昇の感情に、ただひたすらに戸惑っていた。

「…………」

「雪華…?」

「……見るな」

「え……」

 不覚にも、頬が熱くなった。耳まで赤くなっているのを自覚して顔を背ける。
 龍昇の視線を感じたが、彼は何も言わずにただ黙って雪華の返答を待っていた。やがて頬の熱さも収まった頃、龍昇が静かに切り出す。

「あなたは……俺を、憎んでいるか」

「……憎んでいる」

「……そうか」

 間髪入れずに返すと、龍昇が自嘲するように苦く笑む。だが続く雪華の言葉に彼は目を見開いた。

「――と、思っていた。あんたに会うまでは。でも、今は……よく分からない」

「…………」

 黒い瞳を見つめ、正直な心情を吐露とろした。龍昇の瞳がわずかに揺れる。
 龍昇は深く息を吐くと、空になった雪華の杯に静かにおかわりを注いだ。そして穏やかな瞳のまま告げる。

「憎んでいても……いいんだ。それは当然だと思うから。忘れられたり、無関心でいられるよりは憎まれている方がいい」

「そうか……?」

「俺のことを、あなたが少しでも考えてくれるなら……その方がいい」

「…………」

 体に染みていくような、静かな声色だった。わずかに戸惑う雪華を、龍昇はまっすぐに見つめる。

「雪華。……あなたのことを、教えてくれないか。今のあなたのことを俺はもっと知りたい」

「何を――」

「あなたが今まで何を見て考えてきたかを、知りたいんだ。朱朝を滅ぼした胡朝の皇帝としても、胡龍昇個人としても。……俺はもっと、あなたと話がしたい」

「……っ」

 真摯な眼差しに、再び首筋が熱くなる。すっかりぬるくなってしまった茶を飲み干すと、雪華はぼそりとつぶやいた。

「あまり……面白くはないぞ? あんたやあんたの父親に対する恨み事ばかりかもしれない」

「それでもいい。俺たちがどう思われているのか、俺はちゃんと知っておきたい」

「仕事のことだって、あんたには言えないようなこともたくさんしてきたぞ。ここに衛士えじがいたら、間違いなく捕らえられるような」

「それは……逆にいいな。俺のところにも裏側の情報は入ってくるが、直接それを生業としている人に聞けるなら、それ以上のものはない」

「酔狂な……」

 思わずくすりと笑いがもれた。それに龍昇は目を和ませる。

 すべてを伝えることは、おそらくできないだろう。龍昇に言ったとおり、口にできないような事も今まで数多くやってきた。けれど――

 この男が知りたいと言うのなら、自分のことを少しは話してもいいかという気持ちになった。
 同じく、龍昇のことを少し知りたいと思った。離れていた間に、彼にあったことを。

 その心境の変化が、何を生むかは分からない。
 けれど二人はその日、たどたどしくも――これまで互いが歩いてきた道を、ほんの少しだけ語り合うことができた。


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