【完結】斎国華譚 ~亡朝の皇女は帝都の闇に舞う~

多摩ゆら

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航悠編

2、龍の字の男

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「旦那、たまには寄っていかないかい?」

「悪ぃな、今日は目的地があるんだ。また今度な」

「そう言って来たためしがないくせに、よく言う。……まぁいいさ、またね」


 ――夜。赤い光の灯る花街を、航悠はのんびりとした足取りで歩いていた。

 通い慣れた道を歩くと、あちこちから声がかかる。調子のいい客引きの声、よく土産を買っている屋台の主人の呼びかけ、そして馴染みのおんなたち。
 ここ半月、久しく触れていなかった空気だ。雑多な喧騒を懐かしいと思いつつ、袖を引く女たちに手を振って航悠は目的地を目指す。

 着飾った美しい彼女たちを見るのは嫌いじゃない。その柔らかい体を抱けば憂さが晴らせるという年齢はとうに過ぎたが、たまには発散させることも大事だろう。

(松雲と青竹はともかく、梅林とか飛路とか溜まんねぇのかな……。生身が目の前にいても、あれじゃあな)

 『あれ』の澄ました顔を思い浮かべ、苦笑を浮かべる。出会いこそガキのなりをしていたが、たしかに美人だし、着飾れば花街の女も目ではないだろう。
 だが目で楽しむだけでは、残念ながら体は満たされない。若い連中の禁欲ぶりをなかば尊敬しつつ、航悠は薫風楼の正門をくぐった。


「――あらぁ、航さん。久しぶりじゃないの」

 この時間ならまず接客中だろうと思っていたが、目的の妓女――藍良はたまたま今日が休みだったようだ。本来の意味での目当てには、残念ながらならない女だったが。
 陽連一の人気を誇る女は、華やかな顔にふさわしい美しい笑みを浮かべた。

「この間、雪華も来たのよ。……そうそう。刻み煙草、受け取った?」

「ああ。タダでくれたんだってな、悪いな」

「いいのよ。応援代ですもの」

 少し厚めの唇を赤い袖で隠し、藍良が笑う。初見の客には冷たいとさえ思えるあしらいをするが、馴染みになるとこうして飾らない笑みを見せる。その落差がたまらないと評したのは、青竹だったか。

 品良く着崩した着物から垣間見える、肉感的な肢体。もともとの美貌は巧みな化粧でさらに際立ち、男心をいやでもそそる。
 だがそれは生来の恵まれた容姿に加え、本人のたゆまぬ努力でつちかわれたものだ。それを表にはちらとも出さずにやってのけるから、航悠はこの妓女に好感を抱いていた。

 加えて、客との距離の取り方が上手い。必要以上に踏み込まず、それでも客が何か困っているようなら助言を与えることもあるという。そういう頭のいい女は嫌いじゃない。

「何を応援してるんだ?」

「あら、分かってるくせに。……そうねぇ、航さんが今夜相手してくれるって言うんなら、教えてあげないこともないけど」

 航悠が問い返すと、藍良は目を細めて艶めいた笑みを浮かべた。そんな気はさらさらないと分かりきっているその応酬に、航悠もまた芝居めいた笑みで応える。

「じゃあ分からないままにしとくしかねぇな。あんたはいい女だが、あいつに殴られるのは痛い。それに青竹にも恨まれるしな」

「まぁ! のろけられちゃったわ。それに他の男の名前を出すなんて、無粋な人ね」

「そう思うんなら、少し真剣に相手してやってくれ。ああ見て、マジ惚れしてるらしいから」

「あたしに惚れたって、手に入るわけじゃないのにね」

 好意を寄せている部下の名を告げたが、藍良は軽く鼻で笑っただけだった。妓女が本気で恋愛などしても苦しいだけだから、航悠もそれ以上は追及しない。

 酒を注ぎながら、藍良がゆったりと笑う。……いい女だ。だがそれ以上の感情は持たない。
 しばらく女の酌で酒を味わっていると、ふいに藍良がぽつりと漏らした。

「ねぇ……『龍』って人のこと、知ってる?」

「龍? 誰だそりゃ」

「前にここでね、雪華と会ってた旦那なんだけど……。あ、お茶を飲んでただけみたいだから、あの子の男とかそういうのじゃないんだけど」

「…………」

 ――龍。聞いたことがない。だが小さないぶかしみは、すぐに確信へと変わる。
 龍の字を持つ、一人の男――

「……その龍とやらが、どうかしたのか?」

「ううん、その方はすごく真面目そうな感じだったんだけど……雪華と会ってたあとに、ちょっと色々と聞かれたのよね」

「龍にか」

「違うわ、別の人たち。名前は聞かなかったけど……役人ぽかった。雪華の名前とか、所在とか。全部適当にはぐらかしといたけど、何かに巻き込まれてないといいなぁ…って。あ、雪華には言ってないんだけど。何かあったって感じじゃなかったし」

「…………」

 ――龍。おそらくは……胡龍昇。陽帝宮の外朝で対峙した、冷えた視線を送ってきた男の姿が目に浮かぶ。
 女官姿の雪華に付き従うように佇んでいた。黒い髪、黒い目。硬めの口調と表情――よく似ている二人だと思った。

 皇帝がじきじきに雪華のことを調べさせているとは思えない。名前も所在も、あの男は知っているはずだ。
 おそらく護衛か尾行してきた官が、独断で調べさせているのだろうが――

「……面白いな」

 その正体が知れたら、官吏はどう動くのだろう。そして皇帝は、どう動くつもりなのか。
 場合によっては――

 その先を想像し、航悠の口にほの暗い笑みが浮かんだ。隣で藍良が怪訝な視線を向けてくる。

「――悪い、帰るわ。なんかやる気が削がれた。嘉南かなんには適当に謝っといてくれ」

「え…? ちょっと、航さん……!?」

 今晩の相手となるはずだった妓女の名を告げ、立ち上がる。藍良の美しい顔に手を振り、航悠は薫風楼に背を向けた。


 雪華が誰と関係を持とうが、自分には関係ない。実際に今までも静観してきたし、もし一緒になりたいという相手がいるなら組織を抜けても構わないと思う。

(だが……)

 雪華が築いてきた穏やかな生活が、もしも崩されることがあれば――自分も、動く日が来るかもしれない。

「……らしくねーなぁ」

 凍える冬の夜空につぶやくと、息が白く染まった。思いがけず苦くなった口調に苦笑を漏らし、航悠は蒼月楼までの道のりをまたゆっくりと歩いた。


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