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龍昇編
2、遠い日々
しおりを挟む――遠い、遠い記憶。自分と彼女がまだ、幼い幸せに浸っていた頃の――
『――しょう! 龍昇…!』
入り組んだ内朝の庭で、少女が自分を呼ぶ声が聞こえた。歩揺の揺れる音を頼りに、龍昇は回廊を駆ける。
『香紗姫。どうしましたか』
『あっ……、いた! 探してもいないから、外朝に戻っちゃったのかと思ったわ』
建物の影から現れたのは、桃色の絹を身にまとった少女だった。
複雑に結い上げられた髪には可愛らしい歩揺が揺れ、贅を尽くされた衣装がよく似合っている。だが何よりも目を引くのは、幼いながらも整った小作りな顔立ちだ。
『きっとお母上のようなお美しい姫におなりですよ』と女官にもてはやされる、朱朝の姫。その姫におそらく自分が一番信頼されているということが、龍昇は少し誇らしかった。
『龍昇、あのね……』
『はい』
少女――香紗姫は愛らしい顔をほころばせ、何かを隠すようにじっと龍昇を見上げた。龍昇もまた大切な姫を見下ろす。
龍昇は元服が近い。本来ならばそろそろ内朝にも出入りできなくなる年頃なのだが、父親の官位と何より香紗姫たっての希望で、今でもこうして自由に姫と会うことができた。
『どうしましたか? 香紗姫』
いつまで待ってももじもじと話を切り出さない姫に、龍昇は問いかける。こうすれば堰を切ったように「あのね…!」と口を開くのを、龍昇は経験から知っていた。
だが香紗姫は少し唇を尖らせ、拗ねたようにつぶやく。
『……名前』
『え?』
『二人のときは、もう一つの名前で呼んでくれるって言ったわ。……ねぇ、呼んで?』
香紗姫はわがままな性格ではないが、ごくまれにこうして「お願い」をしてくることがある。その小さな願い事は、龍昇を優しい気持ちにさせる。
『すみません。……雪華姫。これでいいですか?』
『うん…! あのね、龍昇。料理長と一緒にお菓子を作ったの! 東屋に用意したから、こっちに来て』
小さな手を伸ばし、香紗姫が龍昇の手を引く。そのか細くも温かい力に龍昇が抗えるはずもなく、引きずられるようにお伴をする。
香紗姫が菓子を作るのは、これが初めてではない。今まで何度か龍昇はその恩恵に預かっていた。だがその出来ばえを思い返すと、龍昇は子供の顔に大人びた苦笑を浮かべざるを得ない。
まずいわけではないのだが、なんというか――とても、豪快な見た目に仕上がってしまうのだ。
料理長が付いていながら、なぜ…と思わなくもないが、そこは姫には黙っておくこととする。大人びた少年は、すでにして処世術を身に着けていた。
幸せな子供たちは、光の中を歩いていく。それからたった数年で、その光景が崩れることなど夢にも思わずに。
そして夢想は、突如として暗転する。
『父上…ッ!! どうして……!』
ごとりと重い音を立てて、黒い塊が寝台の下に沈んだ。
辺りは一面の血の海だ。駆けつけて目の当たりにした光景に、龍昇は声を失った。
呆然としたまま振り仰ぐと、父は苦渋の表情を浮かべていた。居並ぶ父の部下たちも、みな変わらない。
だがどれほど苦悩を示していても、手にしたままの血濡れた剣が彼らの凶行を明らかにする。
『そんな――』
首を落とされたのは、皇帝とその息子……皇太子。鮮やかな女物の着物がないことに、心のどこかで安堵する。そんな自分に嫌悪を覚えた。
なぜ――。うろたえて、周囲を見回す。すると皇帝の居室の入り口に立ち尽くしている、小さな影を見つけた。
『ッ……!』
『あ――』
龍昇と目が合うと、少女――香紗姫は、大きく震えて踵を返した。
遠ざかっていく小さな足音に、居並んだ官たちがはっと視線を交わし合う。それを確認する前に、龍昇はその場から走り出していた。
『龍昇様!?』
呼びかけに答える余裕はない。とにかく追わなければ、と思った。
城内には兵が沢山いる。むやみに走ってはいけない――!
小さな足音を追いかける。だが騒然とした城内の音にかき消され、すぐにそれを見失った。龍昇は息を切らしながら、香紗姫が立ち寄りそうな場所を早足で駆ける。
(姫!! 香紗姫……!)
声に出して呼ぶことはできなかった。兵に見つかれば、姫がどうなるかは分からない。
……いいや、分かっている。本当は分かっている。分かっているからこそ、呼べない。
だがどうしても見つけたい。誰かが見つけるよりも早く、誰かに見つかるよりも早く……!
『……っ。――ッ!?』
そうして中庭の茂みを通り過ぎようとしたそのとき、ふいに飛び出した小さな影が体当たりでぶつかってきた。
『龍昇…っ!!』
『……姫……!』
しがみついてきた少女は、今までに見たこともないほど髪も着物も乱れきっていた。顔を真っ赤に染め、大きな目から涙を溢れさせている。
『たす……助けて……! 父さまと、兄さまが…っ』
香紗姫は震えていた。しゃくり上げながら龍昇にしがみつく。その凶行を龍昇の父・黒耀が行ったことなど気付いていないのかもしれない。
ただ龍昇だけがすべてというように身を預ける少女を、龍昇は思わずかき抱いていた。
――助けたい。強く、そう思った。少女の恐怖と慟哭が、震える体から伝わってくる。
――助けたい。誰より大切なこの姫を、自分が守ってやりたい……!
(でも、どうやって……?)
二人で内朝を抜け出すのか?
陽帝宮を出るには、さらに外朝を抜ける必要がある。何人の兵が集っているかも分からぬ宮城を抜けたとて、それからどうする……?
香紗姫の小さな体を抱きながら、龍昇はうめいた。
親の庇護なしでは何もできない。自分たちはあまりにも――子供だ。
(なんて……無力なんだ……)
遠くから太い声が聞こえてきて、龍昇は振り返った。耳を澄ますと、聞き覚えのある声が『香紗姫!』と叫んでいる。
これは――禁軍の、宗大将軍の声だ。彼は皇帝、ひいては朱朝に絶対の忠誠を誓っていた。あの人なら、姫を助けてくれるかもしれない。
そして、唐突に思い至った。自分は香紗姫の親の仇の息子……つまりは、すでに姫の敵となっていることを。
『……っ』
涙が滲む。悔しくて悔しくて、歯を噛みしめた。
どうにもならないことが――今、ここにある。
まだ泣きじゃくっている香紗姫を一度だけ強く抱き寄せると、龍昇は力を込めて小さな体を突き飛ばした。呆気ないほど簡単に、香紗姫は地面へと倒れる。
『きゃあ! ……りゅう、しょう……?』
立ち上がった香紗姫は、何が起こったか分からないという顔で手を伸ばしてくる。その白い手を、龍昇は振り払った。
『!』
そして姫の顔も見ずに、その場から走り去った。
途中で大柄の体を揺らして駆ける宗将軍とすれ違った。宗将軍は龍昇の顔を見ると、眉を歪めて再び駆けていく。
息が切れるまで走り、空気を求めて顔を上げる。
夜空が滲んで見え――龍昇はやっと、自分が顔を歪めて泣いていることに気付いた。
『……あ……』
――助けられなかった。
誰よりも信頼されていたのに……助けられなかった。彼女を裏切った。
手が痛い。自分が叩かれたわけでもないのに、切り落としたいほどに手が痛い。
彼女を振り払った無力なこの手ごと、落としてしまいたい……!
『――あ……っ、ああ……、うああぁぁあっ…!!』
膝を折り、その場に崩れ落ちる。
両手を掲げ、龍昇は――時の皇太子となった少年は、天を仰いで絶叫した。
守ったものは……身分、安泰、将来。
失ったものは……夢、情、信頼―――少女の笑顔。
どう詫びればいい。どう……償えばいい。
姫の断末魔は聞こえてこなかった。だがその幻聴は、その後の彼を長く苦しめることになる。
「…………」
空が瑠璃色に染まる時間帯。龍昇は、溜息とともに褥から起き上がった。
まだ夜が明けるには早い。だがもう眠りにはつけないことを、長年の経験から知っていた。天蓋のついた寝台で軽く額を押さえる。
「久しぶりだな……」
かつては夜毎のように見た夢だ。毎晩少しずつ場面を変えながらも、最後は必ずあの日の光景で飛び起きた。少女の泣き声が、耳にこびりついて離れなかったものだ。
絹の褥から冷えた床に足を下ろし、窓辺に近寄る。まだ暗い中庭を眺め、瞳を閉じた。
ここから見える光景は何一つ変わってはいないのに――なんと、長い年月を経てしまったことだろう。
(だが……)
枕元に置いた小卓に目を向け、龍昇は視線を和らげた。卓の上に置かれたそれは、飾り気のない茶筒。……雪華が置いていったものだ。
決して舌に美味くはないが、その茶葉の効能は感嘆に値するものだった。
だが龍昇にとって大事なのは、そこではない。彼女がそれをくれたということが、何にもまして重要だ。
(やっと――会えた)
ずっと探していた。だが表立って行動するわけにもいかず、彼女に巡り合うことは雲を掴むのにも等しかった。
即位してからは日々の仕事に忙殺され、自由に動くこともままならなかった。生きているのかどうかすら分からなかった。
あの造反の後、宗将軍は皇后の首を陽帝宮へと持ち帰ってきた。その功績で咎を逃れた彼は、しかしそのまま朝廷を辞した。
彼にも家族があったから、苦渋の決断だったのだろう。忠誠を捧げる相手を失い、稀代の大将軍は表舞台から姿を消した。
彼はどれほど問われても、皇女の行方は知らないと言っていたという。
それはつまり、香紗へと続く手掛かりを龍昇は何一つ得られなかったということだった。
――あの日までは。
シルキアの高官を案内に、街に下りた時のこと。
『雪華』と誰かが呼んだ。すでに遠い記憶となりかけていたその名に顔を上げ――目を疑った。遠い日の悔恨が、ついに幻となって目の前に現れたのかと思った。
怜悧な美貌、突き刺すような言の葉。静かな怒りと憎しみをたたえた、鋭い眼差し。そのすべては『香紗姫』にはなかったものだ。
己の預かり知らぬところで成長し、生きてきたかつての幼馴染。その鮮烈な存在感は龍昇の胸を突き動かした。
香紗姫ではない。名を変え、姿を変え、たくましく生き抜いてきた一人の女性の姿に、龍昇は目を奪われずにはいられなかった。
(幻想を押し付けるな、か……。まったくだな。勝手に想像して、あなたが怒るのも無理はない)
再会してからの、研ぎ澄まされた剣のような彼女の態度に動揺しなかったと言えば嘘になる。それが当然とは分かっていても。
だがその眼差しが、ここ最近少し緩んできたように感じるのは……きっと、うぬぼれではない。小卓の茶筒を再び見やり、龍昇は目を細める。
今はこの陽帝宮から去ってしまった、美しい女官。凛としたその姿は、ままならぬ外政に疲弊した龍昇の心をたしかに引っ張り上げた。
龍昇は小さく苦笑すると、窓辺から離れる。
「単純だな、俺も……」
明日は週に一度の休日だ。街に下りる日という認識しかなかったその一日が、今は待ち遠しい。
あの人は――来てくれるだろうか。
少年のような期待と不安を冷静な表情の下に隠し、多忙な皇帝は今日の政務を開始した。
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