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龍昇編
23、名前
しおりを挟む出立を翌日に控えたその夜。幾分か緊張した面持ちの部下を励ますため、雪華たちは蒼月楼で最後の宴を開いた。
節度を忘れて杯を重ねる部下たちに、顔色も変わらない航悠が呼びかける。
「あんま飲みすぎんなよ~。出発が昼だからって、二日酔いで行けるほど甘くねーぞ」
「大丈夫っすよー。あー、うめ~。帰ってきたら、ぜってーもう一度これ飲もっと」
上機嫌で答えたのは梅林だ。その手に握られた酒瓶を見て、隣の卓の青竹が細い目を吊り上げる。
「あっ! てめえそれ俺の酒だろうが! おい飛路。お前も見てないで止めろよ」
「ゴメン。でもいいじゃん、みんなで飲めば。どうせここの酒だろ?」
「ちげーよ! それは俺の私物だっての!」
相変わらず騒がしい部下たちを眺めながら、雪華は奥で一人、杯を重ねていた。
残念ながら、はしゃぐ気分にはなれない。そんな雪華のもとに一人の男が近付いてくる。
「おいおい。シケた面してんなー、お前」
航悠が椅子を引き、断りもなく腰かけた。見透かすような視線に、雪華は小さく目を伏せる。
「まあ、な。色々と思うところあってな。……またこうして、みんなで無事に酒が飲めるといいな」
「ああ……まあな。いくら戸籍ができようと、先に死んじまったら元も子もねぇしな」
「明日か……。なんだか会合から忙しかったから、あっという間だった気がするな」
つぶやくと、今度は相槌が返ってこなかった。聞こえなかったかとちらりと見上げると、航悠が小さく苦笑を浮かべている。
「話、微妙に逸らしてんなよ。お前が本当に気になってんのは、別のことだろ? ここ数日、よく沈んでたもんなぁ」
「……っ」
――考えないようにしていたのに、気付かれていた。しかもあえて指摘された。
いつものうすら笑いを浮かべる相棒を、雪華はじとりと見上げる。
「お前……本当に嫌な奴だな」
「だてに十三年も一緒にいたわけじゃねーからな」
鼻で笑った航悠は、いつもと変わらず飄々としていた。その態度に、乱れた雪華の心も少し平静を取り戻す。
「……皇帝も、明日進軍するんだってな。陽連でのんびり構えてりゃいいのに、ご苦労なこった」
「戦いには直接参加しなくとも、戦況を最前線で見極めたいんだと。大将軍にも反対されたらしいが、一存で押し切ったらしい」
「はは……。相変わらず、結構無茶苦茶する」
航悠が杯を飲み干し、酒を継ぎ足す。
その手元を眺めながら、雪華はいつかの雪の日に龍昇の手をぼんやり眺めたことを思い出した。節張った手とその喉元に、初めて彼の性を意識した日のことを。
「お前は……どう思う」
「は……? あいつのことか? 俺にどう、って聞かれてもな」
「違う。その――。……いや……何でもない」
無意識のうちにとんでもない問いかけを口にしそうになり、慌てて口をつぐんだ。
戦いに赴く前に、会うべきだろうか……などと、航悠相手に聞きそうになってしまった。
だが敏い男は濁した言葉を酌むように、にやりと雪華に笑いかける。
「俺なら、行く。それだけ惚れてるなら仕方ないだろ。男の趣味は最悪だが、後悔はしたくないからな」
「……っ。……でも、行ったら行ったで後悔するかもしれない」
「行かない方が、後悔しないか? ……言いたかねぇが、生きて帰れる保証はどこにもない。あいつにも、お前にも。だったら――俺なら、望むままに行動するね」
雪華はうつむき、瞳を閉じた。こうして悩んでいる間にも、時間は刻々と過ぎていく。
望むままに、心が思うままに……。そうやって振る舞える機会は、今夜しかない。
(私は――)
顔を上げて立ち上がると、雪華は迷いなく航悠に告げた。
「……明けには、戻る」
「おう。衛士に見つかるようなヘマはすんなよ」
どこか緊張感をはらんだ陽連の街を駆け抜け、雪華は陽帝宮へと急いだ。
込み上げた衝動が、もっと早くと足を進めさせる。
明日の昼には、自分たちの命を賭けた戦いが始まる。二人きりで会う好機は、今夜しかない。
そうして陽帝宮までたどり着くと、感慨を抱く間もなく雪華は城壁に張り付いた。
「よっ……と」
閉ざされた城門を横目に、衛士の目を盗んで城壁によじ登る。長年の経験がまさかこの場所で発揮されるとは、人生何が役に立つか分からないものだ。
静かに内朝の中庭に着地すると、雪華はある一室を目指して走り出した。
龍昇の私室の場所など分からない。けれど、なんとなく確信があった。
勝手知ったる懐かしい庭だ。どこを走れば見つかりづらいかなど分かりきっている。見回りの目を避けて、雪華はある露台の下までたどり着いた。
(ここだ……)
露台の奥の部屋からは、薄く明かりが漏れていた。その部屋の住人がまだ起きている証拠に、安堵の息が漏れる。
「切れるなよ……」
かぎ縄を手すりに引っ掛けて、露台によじ登った。身を潜めて、閉じられた大きな窓から室内を伺うと薄布ごしに中の様子が見える。
そこは簡素な書斎のようになっていて、この部屋の住人は一人で何か書き物をしているようだった。雪華が侵入して来たことにも気付いていないようだ。
(……結構鈍いな。大丈夫なのか?)
しかしこのままだといつまでたっても気付いてもらえなさそうで、雪華は一つ苦笑すると指で窓を叩いた。
『っ! ……誰だ!』
一瞬の殺気とともに視線が向けられる。しかし、それはすぐに驚きにとって変わった。
夜着をまとったこの内朝の主――龍昇が、窓まで駆け寄ってくる。
『な――。雪華…姫…!?』
窓の向こうの薄布を払った龍昇が、大きく目を見開く。
こんなに驚いている顔は珍しい。できればもっと堪能していたいが、状況が状況だけにそうも言っていられない。
「ここだと目立つ。中に入れてくれないか」
鍵を示すと、龍昇は慌てて窓を開けてくれた。すかさず室内に滑り込み、薄布を閉ざす。
「ふう。さすがに見つかるかと思った」
「姫……。あ…なたは、何をしてるんだ」
「あんた、無用心だな。私が刺客だったら今頃殺されてるぞ」
呆れと驚愕を張り付けて見つめる龍昇に、雪華は唇を吊り上げて言ってやった。
我に返った龍昇が、小さな苦笑を浮かべる。
「……そうだな、気を付けよう。それと、警護にも注意をしなければ」
「ああ、手ぬるすぎる。いくら私が内部に詳しいといっても、もう少し予算をさいて厳重にした方がいい」
事務的にそう告げ、室内を見渡した。小卓の灯りに、ほの暗く室内が浮かび上がる。
その部屋は、調度こそ男性向けに代わっているものの懐かしい感慨を雪華に抱かせた。窓越しの庭に目を移せば、見える景色はあの頃と何一つ変わっていない気がする。
ゆったりとした夜着をまとった龍昇と、見覚えのある室内の対比に雪華は目を細める。
……そう、この部屋はかつては雪華の――皇女香紗の居室だった。
「本当に、この部屋にいるとはな……」
根拠もないまま一直線にここを目指してきたが、本当にこの部屋に彼がいたことに今さらながら瞠目した。
そして、なぜかそうだと信じて疑わなかった自分にも驚く。
「あなたの、部屋だっだから」
「……何?」
返ってくるとは思っていなかった答えに顔を向けると、龍昇は室内を見渡してから雪華に視線を戻した。そして静かに告げる。
「あなたはこの部屋を本当に気に入っていた。窓から見える庭が綺麗だと言って、俺に見せてくれた」
「…………」
「この部屋で、あなたと二人で他愛無い話をたくさんして、笑い合った。その部屋を、誰かに渡すのはどうしても嫌だったんだ。自分たちで奪っておいて何を今さらと思うが……あなたの気配が残っている部屋に、他の誰かが割り込むのは我慢できなかった。俺の子供じみた自己満足に過ぎないが……」
静かに、しかし思いの丈を込めて告げた龍昇が自嘲するように目を伏せた。そんな彼に、雪華は軽く首を振る。
「いや……。まさかもう一度、この部屋に入れるとは思ってなかったから……。あんたが使ってくれてて、良かった。ありがとう」
「……っ」
自分でも驚くほど素直に感謝の言葉が出て、雪華は内心うろたえた。すると、ふいに柔らかく抱きすくめられる。
「あ……」
「……雪華姫」
「姫は、やめろと言っただろ……」
「そうだった。……雪華」
静かに名を呼ばれ、胸の奥から何とも言えない感情が湧いてくる。それに押し流されるように龍昇の背中に手を回すと、おそるおそる抱き返した。
一呼吸ごとに龍昇の温かな体温が、確かな心音が伝わってくる。それはひどく、雪華を安堵させた。
(ああ……。私、本当はずっとこうしたかったんだな――)
「明日……忙しいな」
「そうだな……」
明日の昼には、自分たちはそれぞれ部下を率いて戦いに赴かなくてはならない。
そしてその戦いのあとに、お互いが生きていられるという保証などどこにもなかった。
戦に勝ってお互い生きて戻れたとしても、それこそ龍昇は守った領土の統治や何やらと、皇帝としての責務を今以上に求められることだろう。
そして近いうちに妃を迎え、国を背負っていく。
できることなら、そばで支えたい。
でも自分では、やはり駄目なのだ。……それが考えに考えた、結論だった。
出会い、別れ、今また奇跡的に重なりあっても――自分たちの道が、これから交わることはない。
戦いの後は、きっともう会うこともない。だから――
「夜が……。夜が明けるまでは、ここにいていいか……?」
最後のためらいを捨て、龍昇の腕の中で一息に告げる。
それが本心だ。最後の最後に残ったのは、ただ求め合いたいという欲望だけだった。
(一度でいい。一度だけでいい。私は……この男が欲しい。未来が手に入らなくても、今夜一晩だけ、私のものになってほしい)
「……っ」
頭上で龍昇が小さく息を呑んだ。雪華を抱きしめた腕が、わずかに強張る。
「その意味を……分かって言ってるのか?」
「それを私に言わせるのか? ……色々考えていたら、逆に分からなくなった。だから心の思うままに、ここに来た」
龍昇の胸に額を預け、雪華は逆にその背を抱く力を強めた。彼の腕の中で顔を上げると、その黒い瞳を見つめて告げる。
「……龍昇」
「はい。…………えっ……」
反射的に返した龍昇が、しばらく沈黙したあと目を見開いた。雪華はもう一度、視線を合わせたまま口を開く。
「龍昇。あんたは……あんたはどうしたい?」
「あ――」
――『龍昇』。再会してから初めて、その名を呼んだ。
かつて数え切れないほどに紡いだその音を、唇が覚えている。声に出すと、懐かしさに心が震えた。
今まであえて呼ばなかった。呼べば、今まで固く積み上げてきた何かが崩れてしまう気がしたから。
だがその壁を――今夜壊す。
「龍昇」
「雪華……」
龍昇の顔が赤く染まっていく。唇が震え、彼はこらえるように眉を歪めるとゆっくりと苦笑を浮かべた。
「……参ったな。やっぱり俺は、いつまで経ってもあなたに翻弄されっぱなしだ。そんな風に呼ばれたら――必死で我慢してたものが、全部崩れてしまいそうだ」
「我慢……してたのか?」
「ああ、とても。なんの修行かと思ったぐらいだ。この体勢も、実はかなりきつい」
どこか情けない顔で笑った龍昇が、ふいに真剣な眼差しになる。雪華の顔を覗き込むと、彼は熱を注ぎこむように告げた。
「ずっと……あなたが好きだった。叶わぬことと知りながらも、それでも好きだった。妄執と呼ばれてもいい。諦められなくて……あなたを探した。だが皇帝になってからはそれも叶わず、俺は過去の俺を、憎んだ。そうして諦めかけたところで――あなたが、現れた」
二つの視線が重なり合い、懐かしさと、愛おしさと、そして今までにない熱情が生まれた。
静かに、そして万感の想いを込めて龍昇が口を開く。
「愛してるんだ。皇帝として間違っていたとしても、胡龍昇としての俺はあなただけを愛している。だからずっと……抱きたかった」
「……ああ」
「愛している――」
激しい囁きとともに、龍昇が唇を重ねてくる。雪華はそれに応え、二度と来ない夜に溺れていった。
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