お義兄さまの頭の中には悪魔と淫魔が住んでいる

柴田

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10.波乱の狩猟大会

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 婚約式よりも前に、外せない行事があった。
 皇家主催の狩猟大会だ。
 これはゲーム内でもあったイベントのため、レニャにも馴染みが深い。とはいえほかの攻略対象のルートでしかプレイしていないため、エリアスルートでは何が起こるのか知らなかった。ハラハラするようなハプニングが起きたり、どきどきの告白があったりと、ゲーム内でもなかなか重大な行事として描かれていた。
 とはいえ、実際に参加するのは今回が初めてだ。
 狩猟大会に参加するのは基本的に男性貴族だ。帝都にある皇家所有の森で行われるため、シュタルフリヒト公爵領にこもっていたマクシミリアンは参加したことがない。レフも同様だ。見学だけでも参加できるが、アカデミーに通っている間は授業があったため見学すらしたことがなかった。

 シュタルフリヒト公爵家に与えられた天幕内で、レニャはマクシミリアンが着替え終わるのを待っていた。
 やがて衝立の向こうから現れたマクシミリアンの乗馬服姿を見て、ついつい目を奪われてしまう。
 正装姿ともまた違う、カッチリとしたスタイルは彼の新たな魅力を引き出していた。ぴったりと脚の線に添うパンツはその長さを強調しているかのようだ。黒のジャケットは前が短くなっており、うしろは膝の上あたりの長さになっている。ついぺろりとめくってみると、丸く形のいい張りのあるおしりが隠れていた。

「……レニャ、お兄様の尻なんか見て何が楽しいんだ?」
「お兄様もわたしのおしりが見たいと思ったことはありませんか?」
「あるな」
「それと同じです」

 マクシミリアンは腑に落ちたという顔で頷いていた。

「ところでお兄様、狩りなんてできるんですか? 血も苦手なのに」

 そもそもマクシミリアンが運動をしているところすらほとんど見たことがない気がした。服の上からでは正確なことまではわからないが、それほど鍛えている感じも見受けられない。

「獣の血くらいは平気さ。それにお兄様たちは射るだけで、獲物の回収は侍従がしてくれる。お兄様はこう見えて剣術、弓術、槍術はひととおりできるよ。公爵家の騎士団長に子どもの頃から稽古をつけてもらったからね。自分の身くらいは守れる力が欲しかったんだ。実際にこの半年間、暗殺者をすべて撃退してる」
「あ、暗殺者!?」

 そんなこと、誰からも報告を受けていない。邸宅内に暗殺者が入れば、さすがにレニャにも報告の一つくらいは来るはずなのに、マクシミリアンによって箝口令が敷かれていたのだろうか。

「茶会で皇后を挑発したせいだろうな。だが皇后もシュタルフリヒトを敵に回したくはないらしい。私がひとりでいるところしか狙ってこないんだ」
「なんともなかったんですか? 本当に大丈夫なのですか?」
「けがはしていないよ。きちんと護衛を雇っているから、ほとんどお兄様が出るまでもなく片づいている。レニャが心配するようなことはないよ。ふふ、皇后も焦っているようだ。その辺の傭兵では私を殺せないと気づいたのか、だんだん見境がなくなっていっている」
「……皇后陛下はどうしてそこまでお兄様を殺そうとするのでしょうか……」
「怖いんだろう、私の存在が。大人しくしていれば死ぬのは皇后ひとりで済むというのに」

 マクシミリアンは鼻の付け根にしわを寄せ、口の片端を持ち上げる。マクシミリアンは焦ったマルガリータがボロを出すのを待っているのだ。
 暗殺者に襲われていたことなど微塵も気づかせないようなマクシミリアンであっても、レニャは不安にならずにはいられなかった。胸にざわざわと嫌な感覚がせり上がってくる。〝見境をなくす〟ということは、すなわち〝手段を選ばない〟ということだ。
 知らないうちに危険な橋を渡っているマクシミリアンの身が、心配でたまらない。

 レニャはポケットからハンカチを取り出すと、マクシミリアンのパンツのベルトループに結んだ。狩猟大会に参加する意中の男性にハンカチやリボンを贈るのが、貴族女性の間で流行しているらしい。至って特別な意味はないけれど、マクシミリアンからハンカチが欲しいとせがまれたときのために刺繍を入れていたのだ。

「……まさかレニャからハンカチをもらえるとは思っていなかったな」

 何を刺したらいいか悩みに悩んだ末、結局家門の紋章という味気ない刺繍になってしまった。それでもマクシミリアンがうれしそうにしているから、苦労して作った甲斐はあったのだろう。

「捕った獲物はすべてレニャに捧げよう。お兄様がお前を優勝させてやる」
「お気持ちはうれしいですけど、けがだけはしないように気をつけてくださいね」
「まだお兄様の狩りの腕を疑っているな?」
「だってお兄様そんなに鍛えてないじゃないですか」
「ほう……意外と脱いだらすごいんだが、ほんの少しだけ覗いてみるか?」

 クラヴァットをほどき胸元を開けようとするマクシミリアンを諫め、天幕の外に引っ張り出す。ふたりきりでいるとすぐにいやらしい雰囲気にしようとするから困ったものだ。
 ――でもちょっと、脱いだらどうすごいのか見てみたかった気もするような、しないような。

「マクシミリアン様、本日はどうぞよろしくお願いいたします」
「バレンティンか。……しかし私とともに回るというのはいいが、本当に大丈夫か? 馬にもまともに乗れた試しがないだろう。私はレニャに優勝を捧げなければいけないのでね。最悪の場合は置いて行くからな」
「ううっ、兄が風邪をひいたというので、家門で参加できるのが僕だけなんですよ……あぁ皇家の森で迷って笑いものにはなりたくない……! 足手まといにならないようにだけ気をつけます」

 普段は切れ者という雰囲気をまとっているバレンティンだが、今日は様子が違っていた。どうやら運動が苦手らしい。しきりにメガネを上げる仕草から、彼が相当緊張しているのが伝わってくる。
 マクシミリアンはその様子にため息をついて、バレンティンの背中をバシッと叩いて喝を入れた。

「痛ったいですッ」
「ちょっとは緊張が解けたか? それで、ハーミット侯爵は来てるのか?」
「着いて早々、両陛下のもとに挨拶に向かわれたようです」
「ほう、それはおもしろい。少しからかってくるとしよう」

 マクシミリアンが皇家の天幕へ向かうのを見送る。バレンティンの父であるハーミット侯爵がマーガレットに挨拶に行くことの何がおもしろいのか、レニャにはいまいちわからなかった。

「レニャ!」

 不意に呼ばれて振り向く。エリアスと、それから懐かしい顔ぶれがふたり、親しげに手を振っていた。レニャは思わず駆け寄っていく。

「ビクトール先輩、オレイグ先輩、おひさしぶりです!」

 武のサジェスの嫡男ビクトール・サジェスと、知のセルゲイの嫡男オレイグ・セルゲイだ。アカデミーで一年先輩だったこのふたりとも、それなりに友好を深めていた。ゲームでは歴とした攻略対象である。家門のイメージどおり、ビクトールがマッチョ系爽やかイケメンで、オレイグは知的メガネイケメンだ。
 ビクトールがレニャの頭の上に手を置いて、ぐしゃぐしゃと撫でまわしてくる。

「レニャ、皇太子殿下と婚約するんだって? おめでとうな!」
「ちょ、ちょっとビクトール先輩! 声が大きいです! まだそうとは決まってないんですから!」
「そ、そうなのか?」

 ビクトールはオロオロとしながらエリアスを窺った。エリアスは口の軽い男ではないので、彼が話したとは考えにくい。婚約式は十日後に迫っている。準備などで足繁く皇宮に通っていたせいか、どこからか噂が流れてしまったようだ。
 エリアスがごめんと手を合わせてジェスチャーしてくる。

「あ、あー……んん、ビクトール先輩、すごいハンカチの数ですね」

 レニャは話を変えようと視線を彷徨わせ、ビクトールのベルトループの賑やかさに気がついた。武のサジェスの嫡男だけあり、ビクトールはあらゆる武芸に長けている。いずれは父である公爵の後を継ぎ帝国騎士団の団長になると言われていた。
 今大会の筆頭優勝候補である。
 そして顔もよく爽やかで人当たりがいいので、女性人気が高いのだ。

「あ、ああ、これな! レニャは誰かにハンカチあげたのか?」

 ビクトールがそう言った瞬間、エリアスの視線が向けられた気がした。しかしながらエリアスの分のハンカチは用意していない。彼の腰を見てみると、皇太子にもかかわらず一つもハンカチが結ばれていなかった。
 レニャのハンカチを待っているのだとしたら、非常に気まずい。

「レニャ嬢の家門からは誰が出場するのですか?」

 知的メガネは空気が読める。オレイグの質問に一瞬助けられたと思ったものの、今このタイミングで最も聞いてはいけないことであった。
 レニャの背後に立った男を見て、三人が息を呑む。

「私だ」
「お兄様!」

 レニャの腰を抱き寄せたのは、マクシミリアンであった。
 ビクトールもオレイグも、アカデミー時代にレニャから兄の話を何度も聞かされている。本人に会うのは初めてなのに、はじめましての気持ちがしなかった。しかし、レニャが言っていたより随分と雰囲気のある男だ。少なくともただの〝優しくてすてきなお兄様〟ではない。

「アカデミーでは私のレニャと仲良くしてくれたようで礼を言うよ。帝国を支える、同じ公爵家のよしみだ。今後は私とも親しくしてくれるとうれしい」

 にっこりと微笑むマクシミリアンは、言葉とは裏腹に牽制しているようだった。
 ビクトールとオレイグは思わずたじろぐ。
 そんな中エリアスは、マクシミリアンの腰に一枚だけハンカチが結ばれていることに気がついて歯噛みする。どう考えてもレニャからもらったものだろう。この男がレニャ以外からハンカチを結んでもらうところなど想像できない。

「ああ、こちらこそよろしく」
「よろしくお願いいたします」

 マクシミリアンがふたりと握手を交わしていると、狩猟大会の開始を告げる空砲が鳴る。
 皇家主催の行事のため、まずは皇帝より激励の言葉を賜る時間が設けられた。もちろんマクシミリアンがそんなものをありがたがって大人しく聞くはずもなく、レニャの耳元に顔を寄せてまったく関係のない話を振ってくる。
 マクシミリアンはアカデミーでのレニャの交友関係が気になるようだ。
 アカデミー時代は前世の記憶がないにもかかわらず、しっかりとビクトールやオレイグと仲良くなっているミーハーな自分にレニャ自身も軽く驚いている。決して下心はなかったが、彼らに何か惹かれるものがあったらしい。
 前世の記憶を思い出してから初めて二人に会ったため、芸能人に会ったときのような謎の感動を覚えていた。

「レニャはお友だちにお兄様の話ばかりしていたみたいだな」
「そ、そうみたい、ですね……」

 改めて指摘されると恥ずかしい。誇張でもなんでもなく、身に覚えしかなかった。あのときは初めて公爵領からひとりで出てきて寂しい思いをしていたのだ。自分でアカデミー行きを決めたくせに、マクシミリアンのことが恋しくて仕方なかった。
 赤く染まったレニャの耳を見て、マクシミリアンは満足そうに微笑んだ。

「おっと、お兄様はもう行かなくては」
「がんばってくださいね」
「ああ。行ってくるよ」

 皇帝の激励も終わり、参加者が集められる。矢筒を背負い弓を片手に持った男性貴族たちが、各々馬に乗る姿は壮観だ。たくさんの参加者たちの中にいても、レニャの目にはマクシミリアンが真っ先に飛び込んでくる。
 黒馬を華麗に乗りこなす姿は様になっていた。本人が言っていたとおりレニャの知らないところでしっかりと鍛えているようで、馬が歩いても一切体幹がぶれていない。
 再び空砲が鳴らされると、参加者たちは一斉に森の奥深くへ入っていってしまった。最後尾でバレンティンが必死にマクシミリアンに着いて行く姿が見えて、ちょっと笑ってしまう。

 男性たちが狩りを行う間、夫人や令嬢たちはお茶会をするのが慣習だ。
 狩猟大会に参加するのは初めてのため勝手がわからないが、夫人と若い令嬢は別テーブルで集まっているらしい。

「レニャ! こっちよ」
「まぁアビーじゃない! ひさしぶりね。元気にしてた?」

 アカデミーの友人から声をかけてもらい、レニャも令嬢たちのテーブルに混ざりに行く。アビーは侯爵家の令嬢だ。サバサバとものを言う性格が好ましく、アカデミーで最も仲がよかった。
 若い令嬢だけで集まると、社交界のギスギスした空気も多少和らぐように感じた。アカデミーでの顔見知りが多いせいか、思い出話に花が咲く。
 それらが尽きるとはじまるのが、婚約や結婚についての話題であった。レニャのいるテーブルの令嬢たちはちょうど結婚適齢期。アカデミーの同期生の中でもすでに結婚している者もいれば、幼い頃からの婚約者とそろそろ結婚の準備をはじめているという者ばかりだ。
 レニャはというと、ロイマン帝国の貴族家の方針では珍しく自由恋愛推奨である。

「聞いたわよレニャ、皇太子殿下と婚約するんですって?」

 アビーがめでたいとばかりに切り出した。絶対に話題に出されると予想していたものの、いざ言われると反応に困る。レニャは笑顔の下で冷や汗をかいた。
 婚約式の準備をしているのは事実だが、レニャには婚約するつもりはない。しかしエリアスとの賭けのことを大っぴらに話すわけにもいかず、どうにかして誤魔化すしかなかった。
 肯定も否定もしない煮え切らない返事に友人たちは不満そうな声を上げる。

「アカデミー時代から付き合っていたのだと思っていたわ」
「今も昔もただの友人よ」
「レニャがお嫁に行くとなると、シュタルフリヒト公爵家は例のお兄さんが継ぐのかしら? 『成人式典』のときにはじめてお顔を拝見したけれど、レニャの言うとおりほんっとうにお美しかったわ! 背もすっごく高くてすらーっと脚が長いの。眼帯がちょっとワイルドでまたいいのよね。ロイマン帝国一の美男だわ。わたくしがシュタルフリヒト公爵家に嫁ごうかしら」
「アビーは婚約者がいるでしょ」
「うふふ。冗談よ」

 レニャがブラコンなだけではなく、他人の目から見てもマクシミリアンは美男なようだ。

「ちなみにだけどお兄さんは婚約者がいたりするのかしら?」

 アビーの質問に、周囲の令嬢がそわそわと落ち着きなく耳を傾けているのが伝わってくる。
 マクシミリアンの容姿を抜きにしても、シュタルフリヒト公爵家への嫁入りは魅力的だろう。黄金のシュタルフリヒトの一員になれば、帝国で最も贅沢な暮らしができると思われているのだ。
 実際はそんなに贅沢三昧はしていない。ただ母をはじめとしたシュタルフリヒト公爵家の血筋を持つ人々は、商才に長けているのと同時に豪運も持ち合わせており、デスクに座っているだけでザックザックと金が舞い込んでくる。
 使い道は主に領内の環境整備や福祉の充実、寄付や、若い芸術家への支援などだ。
 贅沢しようと思えばし放題ではある、が母は無駄遣いに厳しかった。令嬢たちが思い描いているような暮らしとは、おそらくやや違っているのではないかと思う。
 残念ながらレニャには商才も公爵としての力量もないため、マクシミリアンが望むなら公爵位は譲るつもりである。反逆の意思がないのなら、優秀な彼に公爵位を継いでもらうのが一番いいだろう。

 乙女ゲームという性質上ビクトールやオレイグ、エリアスにも婚約者がいないため、結婚適齢期の令嬢たちはこの四人の妻の座をこぞって狙っているようだ。

「お兄様に婚約者はいないわ」

 絶賛口説かれ中です、なんて言えやしない。

「さっきもいろんな令嬢がハンカチを渡そうとしていたけれど、彼、誰からも受け取らなかったのよ。さては一枚だけ結んであったあのハンカチ、レニャでしょう?」
「そ、そうだけど……」
「レニャがブラコンだからもしかしてって思っていたけれど、お兄さんもシスコンなのね?」
「私、あの方ならシスコンでもいいわ!」
「ちょっと抜け駆けはだめよ! 私のこともお兄さんによろしく伝えておいてくださいな」
「…………でもあの方、もとはただの平民でしょう?」

 不意に発せられたその言葉に、場が水を打ったように静まり返る。
 それを口にしたのは、アカデミー時代から何かとレニャを敵対視する侯爵家の令嬢であった。彼女はエリアスにかねてから想いを寄せており、彼と仲良くしているレニャのことが気に入らないのだ。レニャのほうが家格が上のため直接嫌がらせなどはされたことはないが、ちくちくと言葉で刺してくるのが彼女の常套手段であった。エリアスとレニャの婚約の噂が流れているせいで、余計に神経がひりついているのだろう。
 こんな場所でマクシミリアンの素性を話すわけにはいかない。
 だがマクシミリアンが第一皇子であろうと平民であろうと、今はシュタルフリヒト公爵家の一員だ。家族をばかにされて黙っているほどレニャは温厚ではなかった。

「だからなんだって言うの?」
「多少顔がいいくらいで持て囃されていても所詮は平民ってことですわ。しかも貧民街の孤児だったんですってね。平民以下じゃない。人間ですらないわ。そんなのを公爵に据えるというならシュタルフリヒト公爵家もこれまで――……」

 危うく手が出るところだった。
 しかし堪忍袋の緒が切れるよりも前に、森のほうで赤い煙が上がっていることに気を取られる。あれは信号弾だ。森の中で参加者の身に何かが起きたようだった。目撃した者からざわざわと波打つように騒がしくなっていく。騎士たちが慌ただしく森の中へ入って行った。
 狩猟大会で信号弾が上がるような事態はまずない。皇家所有の森のため、危険な動物は放していないのだ。そのため考えられる可能性としては、森の中で迷ったか、落馬でけがをしたか。きっと大したことはない。
 だがしかし、レニャの胸に言い知れぬ不安がよぎった。

 信号弾を見つめるレニャのかたわらで、マクシミリアンを愚弄した令嬢にアビーが紅茶を浴びせかけている。「なにするのよ!」と絶叫する令嬢に対し、「マクシミリアン公子は大商会の主なのよ!」とアビーが応戦した。「それが何よ!」「平民出身でも一から自分で地位を築いてがんばってるの!」と言い争いが続き、やがて往復ビンタの応酬に発展していく。

 そんなやり取りもレニャの意識の外であった。じっと目を凝らし、森のほうを注視する。
 しばらくすると、森の中から一頭の馬が駆けてくるのが見えた。
 あの白馬はたしか、エリアスが乗っていた覚えがある。医療班の天幕の前でエリアスが馬から降りた。どうやらもう一人うしろに乗っていたようで、馬上にはまだ人の姿がある。鞍からずるりと落ちそうになるのを、エリアスが慌てて支えた。
 ――そのとき、その人物から滴った血がエリアスの足元にボタボタと落ちるのが遠目に見えた。

「きゃあああ!」

 そう叫んだのはレニャではない。
 女性たちが叫ぶ声を背中で聞きながら、レニャはふらふらとした足取りでエリアスのもとへ近づいて行った。医療班の天幕から出てきた医者たちに抱えられ、馬上から慎重に下ろされているのは――マクシミリアンだ。

「お、お兄様……っ」

 弱々しい声で呼ぶと、ぐったりとしていたマクシミリアンが目を開ける。顔色は真っ青で、身体は震えて目が充血していた。全身が血で汚れているが、見たところけがをしているのは肩だけのようだ。だがそれにしてはマクシミリアンの様子がおかしい。
 マクシミリアンはレニャに気がつくと、医者やエリアスを振り切って自分の足で向かってくる。

「……ごめん、少しけがをしてしまった」
「ちっとも少しじゃないです……」
「心配しなくていい……ほとんど返り血だ……死にはしない、はぁ……」
「何があったんですか?」

 マクシミリアンは引き攣った笑みを浮かべながらレニャの前に立つと、寄りかかるように抱き着いた。荒い息遣いが聞こえる。

「暗殺者だ。森に潜んでいた」

 耳打ちされた衝撃の言葉に、レニャは息を呑んだ。

「剣に、毒が塗ってあった……皇宮医は信用ならない。馬車を呼んでくれ」
「はい、はい……っすぐに屋敷に帰りましょう」

 マクシミリアンを支えるように抱き締める。立っているのもやっとの様子だ。マクシミリアンの心臓の音や息遣いを確かめることに必死で、エリアスやアビーが心配して声をかけてくるのも耳に入らなかった。
 馬車の待機場はすぐ近くにある。急いでやって来た馬車に乗り込むと、マクシミリアンは意識を失ってしまった。


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