その悪女は神をも誑かす

柴田

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約束された幸せな人生(3)




 メリーティアは帝都のホールトン邸を飛び出し、ハイゼンベルグ領にある実家に帰った。
 帝都からハイゼンベルグまでは馬車で二週間ほどかかる。実家に辿り着いた頃には両親も兄も事情を把握していたのか、メリーティアを快く出迎えてくれた。

 少し身体を休めてから、夕食の席につく。
 突然帰ってくるに至った理由を話すうちに、だんだんと気持ちが楽になっていった。ひさしぶりに両親の顔を見たせいか、身体からほっと力が抜けていく。冷静になった頭で考えると、グウェンダルがメリーティアを裏切るはずがない、という結論に至った。
 両親も兄もしきりにグウェンダルを庇う。それだけ彼は誠実な人なのだ。
 疑ってしまった自分が恥ずかしい。

 メリーティアが実家に帰ったと使用人から聞いたのか、グウェンダルからの手紙が早馬で先に着いていた。母から渡されて中身を読むと、「君を裏切るような真似は決してしていない。私が愛しているのはメリーティアただひとり。だがあの夜のことは何も覚えていないんだ。私を信じてくれ」と少し崩れた字で綴られていた。よっぽど慌てて書いたのだろう。
 多忙な日々が続いていたから、たまたま酒に酔って眠ってしまったのだろうか。
 ――それとも、グウェンダルへの想いを拗らせたトリーが何かしたのかもしれない。

 早く帰らないと! と立ち上がるメリーティアを、兄がどうどうと宥めて座らせる。今日ハイゼンベルグ領に着いたばかりだし、何よりも今は夜だ。こんな時間に出発するのは危ないと説得され、メリーティアは渋々腰を落ち着けた。

 理由はどうあれ、せっかくひさしぶりに実家に帰って来たのだ。少しゆっくりしてから帰ってもいいかもしれない。それに、まだ家族には妊娠したことを報告していなかった。メリーティアはこっそりとおなかを撫で、苦笑する。
 これから母親になるのだから、もっとどっしりとかまえていられるようにならないといけない。あんなゴシップ記事で動揺しているようでは、公爵夫人にも騎士団長の妻としても相応しくないだろう。何があろうと、自分だけはグウェンダルを信じてあげなければならない。

 ホールトン邸に帰ったら、グウェンダルにキスをしよう。不貞を疑ったことに対する謝罪の気持ちと、彼を変わらず愛しているという気持ちを込めて。
 グウェンダルはおそらくとても心配しているはずだ。騎士団長という責任のある立場でなければ、仕事をほっぽりだしてメリーティアを迎えにきていただろう。

 それから、あの日の夜に本当は何があったのか調べることをメリーティアは心に決めた。
 本当にトリーがグウェンダルを嵌めたのなら、それ相応の罰を与えなければならない。

「今夜だけでもゆっくりしていきなさい」
「はいお父様」
「そうだ。マイルズが補佐官試験に合格したの。来年度から第二皇子殿下のもとで働くのよ」
「まあ! お兄様、すごいじゃない!」

 マイルズは眼鏡のつるをしきりに押し上げて、照れくさそうにしている。皇族の補佐官と言えば、優秀な人の中でもたった一握りしかなることのできない憧れの職業である。
 しかも第二皇子は側室が産んだ子でありながら、誰もが認めるほど聡明かつ人格者だ。皇后の息子である第一皇子を差し置いて、次期皇帝に推す声は非常に多い。ハイゼンベルグ家もまた、その家門のひとつであった。
 両親も鼻が高いのか、うれしさが隠せていない。
 父はメイドを呼ぶと、一本のワインボトルを持ってこさせた。

「お祝いにとアイボリー家からとても希少なワインをいただいたんだ。せっかくだからメリーティアもいっしょに飲もう」

 ワイングラスに注いだものがそれぞれに配られる。
 ボトルに巻かれているラベルには、『ヴィネコット』と書かれていた。ワインに詳しくないメリーティアでも知っているような銘柄である。しかもかなりの年代ものだ。『ヴィネコット』はアイボリー領でのみ生産されているため、アイボリー家にかかれば用意することも難しくないのかもしれない。
 しかしそんな希少なワインをわざわざプレゼントしてくれるなど、なんて気前がよいのだろう。
 アイボリー家とはさほど親交が深くなかったと思うが、第二皇子の補佐官になるマイルズに媚びを売っておきたい狙いでもあるのだろうか。

 父はグラスを回し、匂いを嗅いで感嘆のため息をついている。
 葡萄から作られているはずなのに、そのワインからは不思議と桃のような香りがした。甘く芳醇な香りに惹かれて口をつけてしまいそうになり、メリーティアは慌ててグラスをテーブルに戻す。

「あら、どうしたの? メリーティア」
「メリーはワインが苦手かな?」
「ううん、違うのお兄様。ワインは好きよ。でも――わたし、子を授かったの」
「まあ!」

 唐突な発言に、母は口元に手を当てて目を瞠り、父はグラスをすべり落としそうになった。
 まだ目立たないおなかを撫でて微笑むメリーティアに、三人とも「おめでとう」と声をそろえる。

「わたしのことは気にせずにワインを飲んでちょうだい」
「あぁめでたい。めでたいなぁ」
「そうねあなた。孫の顔が楽しみだわ。男の子でも女の子でも、きっととってもかわいいでしょうね」
「僕の補佐官試験合格と、メリーティアの懐妊に乾杯しよう!」

 メリーティアも形だけグラスを掲げた。
 美味しそうにワインを味わう三人の顔を眺め、メリーティアは顔を綻ばせる。不安を感じていたわけではないが、妊娠を喜んでもらえてうれしかった。

「――うっ、げほ」

 慌てて飲んだのか、マイルズが目の前で咳き込む。兄に水を、とメイドに指示していると、母も父も同じように咳き込みだした。
 高いワインも飲み慣れているはずだが、とびきり高級すぎて舌に合わなかったのかもしれない――なんて呑気なことを考えていると、ひと際大きく咳をした途端三人がびちゃっと大量の血を吐いた。

「…………え」

 苦しげに呻きながら血を吐く姿を目にして、メリーティアは置かれた状況が理解できなかった。使用人たちの悲鳴や慌ただしい足音を聞きながら呆然とする。テーブルの上も、床も、一面が血の海だった。
 テーブルクロスを掴んだ父が食器もろとも倒れ込む。もがくように喉をかきむしっていた兄が突然こと切れたように頽れた。口元を押さえた指の隙間から血を溢れさせた母が、掠れた声でメリーティアを呼ぶ。震える手を伸ばすが、その瞬間母の目がぐるんと上を向いた。

「ああ……ああ……」

 メリーティアは声にならない悲鳴を上げた。この光景が現実だと信じたくない。夢なら覚めてと願っても、むせ返るような血の生臭さが残酷な現実をまざまざと突きつけていた。
 執事によって呼ばれた医者が息を切らして駆け込んでくる。
 彼は三人を診るとハッとして、それからただ首を振った。


 メリーティア・ハイゼンベルグの人生は輝きに満ちていた。だけどもう、過去の話。

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