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一章
極道、天使になる!
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一章
真っ白な壁に囲まれた広い病室は外来病棟から遠く離れており、都心にあるというのに異様なほどの静けさに包まれていた。
室内には2人、人がいた。だが、2人とも物音はまったく立てていない。ベッドに横たわる老人は、全身に転移した癌のために意識不明に陥っているため、もはや動きようがない。
そして、ベッドの脇で付き添っている、老人より少し若い妻も身じろぎ一つせず、小さな椅子に座っていた。一分の隙もなく着こなした薄紫の着物の裾を揺らすことすらない。
妻は夫の痩せこけた顔を見ながら、これまで2人で乗り越えてきた波乱万丈の日々を思い出していた。
ドアをノックする音が響いた。完璧に近い静寂だったため、その音はまるで工事現場の騒音のように聞こえる。
「申し訳ありません、若林です。少し、よろしいでしょうか?」
ドアの向こうから、中年の男の落ち着いた声が聞こえた。妻は静かに夫を見た。
「どうぞ。遠慮せずにお入り」
かすかに音を立てて開いたドアから姿を見せたのは、東京・六本木に本部を置く広域暴力団、旭誠会の総本部長・若林だった。若林は地味なグレーのスーツに身を包み、大物の威厳を漂わせた、まるで大企業の役員のような風貌だ。
社会の変化でかつての勢いは衰えたものの、今でも構成員、準構成員を合わせると5000人近い巨大組織のナンバー2ともなれば、見るからに“ヤクザ”では務まらない。
警察や堅気とも交渉できるビジネスマンのような物腰に話術、そして、何かが起これば1度に100人単位の荒くれどもを動かす統率力、そのすべてを持っているからこそ、旭誠会の総本部長を張っていられる。
若林はベッドに横たわる、全身にいろんな管を付けられた意識不明の老人に一礼すると、小声で言った。
「奥様、少しの間、隣の控え室に来ていただいてもよろしいでしょうか? 今後のことで、ご相談が・・・・」
旭誠会三代目会長・大道寺剛三の妻、杏子はベッドの夫をじっと見て、うなづいた。そして、言葉を返すはずもない夫に穏やかな声をかける。
「あなた、少々席を外しますけど、その間に死んだりしたら承知しませんからね」
杏子は椅子から静かに立ち上がった。若林は彼女のためにドアを大きく開けると、目を閉じたまま動かない大道寺に再び一礼した。
もう昏睡から覚めることなく、このまま息を引き取ると思われていた大道寺は、1人でいる間にほんのわずかな時間だが、奇跡的に意識を取り戻した。目玉だけを動かして部屋の中に誰もいないことを確認して、干からびた唇から小さく息を吐いた。その吐息が肺を刺激したのか痛みが胸に伝わり、わずかに顔をしかめる。
かつて大道寺は周囲から『狂犬』と恐れられ、気に入らぬ者は片っ端から叩き潰してきた武闘派ヤクザだった。
二代目より旭誠会を引き継いでからは、都内の小さな博徒集団だった組を血みどろの抗争の末に、神戸に本拠地を置く日本最大の暴力団、山王会でさえ気を遣う大組織に育て上げた。
しかし、癌に侵された78歳の今とあっては、大柄で筋肉質だった体は小さくしぼみ、かすかな吐息だけでも胸にズキンと響く始末だ。大道寺は自嘲めいた笑みを唇に浮かべ、白い天井を見つめた。
―初代と盃を交わして60年、好き放題やってきた・・・・何も思い残すことはねえ。四代目と役員人事は言い残してあるから、跡目相続も心配ねえだろう・・・・あの世じゃどうせ地獄行きだろうが、今度は鬼たち相手にひと暴れしてやるか・・・・―
大道寺は微笑みながら再び意識を失った。
その日の夜遅く、広域暴力団旭誠会三代目会長・大道寺剛三は、波乱に満ちた78年の生涯に幕を下ろした。医師によって臨終が確認されると、駆けつけた幹部組員全員がベッドに向かって一礼し、「お疲れ様でした」とささやいた。
「おい、起きろ! いつまで寝てんのや!? ええ加減にせえ!」
大道寺は耳元で響く怒鳴り声で目を覚ました。うっすら目を開けると、伸び放題の髪を後ろで結んだ、髭面の中年男が目を剥いて、寝そべっている自分の顔を覗き込んでいる。
瞬きしながら、ゆっくり上半身を起こした。自分はどうやら真っ青な青空の下に広がる、広大な草原で横になっていたようだ。
しかし、ここは妙な場所だった。地平線まで見える何もない平野なのに、吹き渡る風もなければ、雲ひとつない青空なのに、照りつける太陽の暑さも感じない。
寝ていた場所から少し離れたところに、石ころが転がる赤土むき出しの狭い道があった。道には大勢の人が歩いている。人々は年齢、性別、人種はバラバラだが、一つの方向を目指し、ゆったりした足取りで歩いていることだけは共通していた。
髭面の中年男は、あごをしゃくり立ち上がるように促した。
よろめくことなくスッと立ち上がる自分が、78歳の老人ではなく、死に装束こそ着ているものの、20代半ばの若々しい姿に戻っていることに気づいた。黒く太い眉毛を片方だけ上げて、傍らの中年男に言った。
「よう、おっさん。ここはあの世だな。あの世じゃ若い頃の姿に戻ると聞いたことがある。俺は死んだから、こうなったんだな」
そして、気づいたように首をかしげる。
「ところでおっさん、あんた誰? 俺になんか用か?」
中年男はムッとした表情になった。口からはリズミカルな関西弁が飛び出す。
「誰がおっさんやねん。わしは臨済宗大徳寺派の僧侶で宗純と言うモンじゃ。室町時代の名僧、一休さんと言うたら頭の悪いお前にもわかるやろ。これでも少しは尊敬する人がいてるんやから、おっさんなんぞ言うたら許さんぞ」
大道寺は驚いて男の姿を頭からつま先まで眺めた。ボロボロだが確かに黒い法衣を着ている。しかし、大道寺が知っている一休は、とんちで有名な小坊主だ。関西弁を使う薄汚い中年僧侶とは、あまりにイメージが違った。
「一休さんって言ったら、かわいい、とんち小坊主じゃないのか? それに何だよ、そのお笑いみてえな関西弁は」
一休は口を尖らせた。
「わしかて、かわいい小坊主の頃もあったわい。いきなりオヤジになるもんか。それに、わしは生まれてから死ぬまで、ずっと京・大阪に住んどったんじゃ。関西の言葉で話すのは当たり前や。そんなことより、お前の目の前には今、天下の一休禅師が現れてんのやで。少しは感激したらどうなんじゃ」
だが、大道寺は無表情だった。
「悪いが坊主には興味がない」
一休は大道寺をじっとにらんでいた。しかし、大道寺の様子が変わらないため、気が抜けたように軽くため息をついた。
「もうええわ。ほんまにヤクザは信心がないな。まあ、とりあえず、あれを見てみい」
そう言って、石ころだらけの狭い道をぞろぞろと歩いている人々を指差した。
「ここは、正確にはまだあの世やない。あの世に行く途中や。あそこを歩いてるのは病気や事故、事件で死んだ連中や。この道の先に閻魔大王のいてはる審判所があって、みんな自分があの世で落ち着く先を閻魔様に決めてもらうため、審判所に向こうてるんや」
話を聞いた大道寺の目は鋭くなり一休を見据える。そして、視線を死者の行列に移した。険しい顔だった。しばらくすると腹をくくったようにニヤリと笑った。
「じゃあ、俺も閻魔大王に会いに行くとするか。どうせ、行き先は地獄だろうけどよ」
大道寺の言葉に一休は不満げな顔を見上げる。立って並ぶと180センチ以上ある大柄な大道寺と小柄な一休とでは、頭一つ分違った。
「待たんかい。まだ、わしが現れた理由を言うてない」
そして、あきれ顔で肩をすくめた。
「お前は、ほんまに根っからの悪党や。恐喝、詐欺、監禁、傷害、殺人、銃や麻薬の密売・・・・・まったく、数えだしたら切りがないわ。ようもここまで悪事を働いたもんやなあ」
「そりゃ極道だからだ。何でもやらないと、旭誠会は大きくならなかった」
平然と言う大道寺に一休は「お手上げ」と言わんばかりに首を振る。
「正直に言うとな、お前は罪が重すぎて、地獄に落ちても該当する刑罰がありゃせんのや。地獄行きでも普通は何十年、何百年か経てば転生して現世に戻るが、お前はそのメドも立たん。近頃は地獄に落ちる者がぎょうさんおって、お前1人に延々と鬼たちを貼り付ける訳にもいかん。そこで閻魔大王は思案して、おもろいことを思いつきはった」
そして、ジロリと大道寺を見る。
「お前は閻魔様が『もうええ』とおっしゃるまで、現世に戻って悪事から人間を救え。そうやって刑罰の軽減でもせんと、地獄にもやられん。これはお願いやないで。閻魔大王の命令と言うこっちゃ。お前が若い頃の姿に戻ってんのは、閻魔様の命令を果たしやすくするためや。ヨボヨボの老人じゃ、身軽に動き回れんからな」
「・・・・現世に戻って悪事から人間を救えだと? 極道の俺が・・・・?」
眉をひそめる大道寺に、一休は表情を和らげて悪戯っぽく笑った。
「わしはな、お前が閻魔様の命令をきちんと果たすように見張る監視役や。実はわしも、お前とは理由が違うが、簡単にあの世に行かせてもらえん身や。わしは現世では風変わりな坊主やった。寺にこもらず、俗世で普通の者と同じように暮らし、一緒に泣いたり笑ったりしながら、人間のすべてを見続けてきた」
一休は優しい笑顔を見せた。
「仏道とは、人のすぐそばで道を明るく照らすもんや。わしにとっては人と関わることこそ、仏道を究める修行やった」
少し、一休は胸を張る。
「ところが、わしにも寿命はある。死ぬ間際、お釈迦様に『修行はまだ半ばです。もっと人間を見続けさせてください』とお願いしたところ、『じゃあ、この世とあの世の入り口までを行き来しながら、気の済むまで人間を見ておれ。当分こっちに来るな』と言われてしもうた。そんな訳やから、わしは現世に戻ることも、閻魔様に謁見することもできる。お前を見張り、命令を実行させる役目にもってこいちゅーこっちゃ」
一休の話をじっと聞いていた大道寺は、徐々に不機嫌な顔になっていった。ゆっくりと一休を見下ろし、吐き出すように言う。
「命令なんぞクソ食らえだ。俺は他人から指図されるのが大嫌いだ。いくら相手が閻魔大王でもだ。大体、言われた通りに働いても、結局、俺が行くのは地獄以外にないはずだ。わざわざ地獄に落ちるために命令なんか聞くか」
大道寺の悪態を一休は穏やかな顔で聞いていた。
「思うた通りの反応やな。わかりやすい男や。閻魔様もそんな返事を予想してはってな、お前が命令に従えば特別措置として、働き次第で恩赦を与えようと言うてくれてる」
「恩赦?」
「そうや。閻魔様は、もし罪を帳消しにするほどの良い働きをすれば、極楽行きを考えてやってもええと言うてくれてる」
そして、諭すように言う。
「極楽はええところやで。毎日うまいものを食い、うまい酒を飲んで遊び放題。しかも、周りにはきわどい衣を羽織った美しい天女たちがゴロゴロおるらしい。そんなところに行ける好機なんや。ここは大王にええとこ見せといた方が、絶対に得だと思わんか?」
だが、大道寺は眉一つ動かさない。ますます不機嫌になる。
「俺様が極楽という餌に釣られるとでも思ってるのか? このクソ坊主、何が『極楽はええところ』だ。見てきたようなこと言いやがって。てめえは、あの世の入り口までしか行けねえつったろ。だったら極楽なんか見たことねえはずだ。閻魔大王に言っとけ。大道寺剛三はあの世でも他人からの指図は受けんとな」
威圧感たっぷりの返事に、少し悲しそうな顔になった一休は、急に哀れみの目になった。
「ほんまに働かんのか? これは命令なんやで。逆らうことはできん。閻魔様の言うこと聞かんと、少々苦しい目に遭うけど、それでもよろしいか?」
「何だ、てめえは。俺を脅してるつもりか?」
目をむいた大道寺に一休は答えず、顔の正面に右手の人差し指と中指を立てて、何やら呪文を唱えだした。すると、突然、大道寺は胸を押さえ苦悶の表情を浮かべ始めた。喉の奥から絞り出すような声を出し、がっくりと草原に両膝をつく。
「・・・・こら・・・・これはてめえの仕業か・・・・」
一休は呪文を中断して淡々と言った。
「閻魔様から教えてもろうた術や。今、お前の体は心臓だけが78歳の死にかけた状態に戻ってる。その痛みは、若くて元気な体を支えきれない心臓が上げてる、切実な悲鳴やねん。ええ返事してくれんと、次は足腰の骨と神経、その次は肝臓と若い体のまま、じわじわ中身を死にかけた老人に戻すで」
そう言って、再び呪文を唱え始めた。大道寺の胸は絞り上げられるような激痛に襲われた。そのうち足や腰に力が入らなくなり、ついに体を折り曲げて、何の匂いもしない草原に額をついた。
味のない草を舐めながら、これは死ぬ時の苦痛だと思った。しかし、今の自分が死ぬことはない。死によって痛みから解放されることはないのだ。それは自分でもわかっていた。
―・・・・苦しい・・・やめてくれ・・・・―
傍らにたたずむ一休に、助けを求めるように震える手を上げた。一休は再度呪文をやめる。
「どうや。閻魔様のために働くか?」
「・・・・やる・・・・やるから、やめろ・・・・・」
一休は体の力を抜いて微笑み、手の甲で額に薄っすら浮かんだ汗を拭う。そして、差し出された大道寺の手首をつかんだ。
「アホんだら。早う言わんからじゃ。これからもお前が閻魔様の言いつけを守らんかった時は、わしは遠慮なくこの術を使うからな。閻魔様の言うには、何でもこの苦しさは地獄の責め苦を超えてるそうや」
肩で息をしている大道寺は、不承不承うなずいた。
すると、一休は目を閉じて先ほどとは違う念仏を唱え始めた。あっと言う間に大道寺の視界は暗くなり、一休につかまれた腕から次第に体の力が抜けていくのを感じる。意識は念仏を聞きながら急速に遠のいていった。
真っ白な壁に囲まれた広い病室は外来病棟から遠く離れており、都心にあるというのに異様なほどの静けさに包まれていた。
室内には2人、人がいた。だが、2人とも物音はまったく立てていない。ベッドに横たわる老人は、全身に転移した癌のために意識不明に陥っているため、もはや動きようがない。
そして、ベッドの脇で付き添っている、老人より少し若い妻も身じろぎ一つせず、小さな椅子に座っていた。一分の隙もなく着こなした薄紫の着物の裾を揺らすことすらない。
妻は夫の痩せこけた顔を見ながら、これまで2人で乗り越えてきた波乱万丈の日々を思い出していた。
ドアをノックする音が響いた。完璧に近い静寂だったため、その音はまるで工事現場の騒音のように聞こえる。
「申し訳ありません、若林です。少し、よろしいでしょうか?」
ドアの向こうから、中年の男の落ち着いた声が聞こえた。妻は静かに夫を見た。
「どうぞ。遠慮せずにお入り」
かすかに音を立てて開いたドアから姿を見せたのは、東京・六本木に本部を置く広域暴力団、旭誠会の総本部長・若林だった。若林は地味なグレーのスーツに身を包み、大物の威厳を漂わせた、まるで大企業の役員のような風貌だ。
社会の変化でかつての勢いは衰えたものの、今でも構成員、準構成員を合わせると5000人近い巨大組織のナンバー2ともなれば、見るからに“ヤクザ”では務まらない。
警察や堅気とも交渉できるビジネスマンのような物腰に話術、そして、何かが起これば1度に100人単位の荒くれどもを動かす統率力、そのすべてを持っているからこそ、旭誠会の総本部長を張っていられる。
若林はベッドに横たわる、全身にいろんな管を付けられた意識不明の老人に一礼すると、小声で言った。
「奥様、少しの間、隣の控え室に来ていただいてもよろしいでしょうか? 今後のことで、ご相談が・・・・」
旭誠会三代目会長・大道寺剛三の妻、杏子はベッドの夫をじっと見て、うなづいた。そして、言葉を返すはずもない夫に穏やかな声をかける。
「あなた、少々席を外しますけど、その間に死んだりしたら承知しませんからね」
杏子は椅子から静かに立ち上がった。若林は彼女のためにドアを大きく開けると、目を閉じたまま動かない大道寺に再び一礼した。
もう昏睡から覚めることなく、このまま息を引き取ると思われていた大道寺は、1人でいる間にほんのわずかな時間だが、奇跡的に意識を取り戻した。目玉だけを動かして部屋の中に誰もいないことを確認して、干からびた唇から小さく息を吐いた。その吐息が肺を刺激したのか痛みが胸に伝わり、わずかに顔をしかめる。
かつて大道寺は周囲から『狂犬』と恐れられ、気に入らぬ者は片っ端から叩き潰してきた武闘派ヤクザだった。
二代目より旭誠会を引き継いでからは、都内の小さな博徒集団だった組を血みどろの抗争の末に、神戸に本拠地を置く日本最大の暴力団、山王会でさえ気を遣う大組織に育て上げた。
しかし、癌に侵された78歳の今とあっては、大柄で筋肉質だった体は小さくしぼみ、かすかな吐息だけでも胸にズキンと響く始末だ。大道寺は自嘲めいた笑みを唇に浮かべ、白い天井を見つめた。
―初代と盃を交わして60年、好き放題やってきた・・・・何も思い残すことはねえ。四代目と役員人事は言い残してあるから、跡目相続も心配ねえだろう・・・・あの世じゃどうせ地獄行きだろうが、今度は鬼たち相手にひと暴れしてやるか・・・・―
大道寺は微笑みながら再び意識を失った。
その日の夜遅く、広域暴力団旭誠会三代目会長・大道寺剛三は、波乱に満ちた78年の生涯に幕を下ろした。医師によって臨終が確認されると、駆けつけた幹部組員全員がベッドに向かって一礼し、「お疲れ様でした」とささやいた。
「おい、起きろ! いつまで寝てんのや!? ええ加減にせえ!」
大道寺は耳元で響く怒鳴り声で目を覚ました。うっすら目を開けると、伸び放題の髪を後ろで結んだ、髭面の中年男が目を剥いて、寝そべっている自分の顔を覗き込んでいる。
瞬きしながら、ゆっくり上半身を起こした。自分はどうやら真っ青な青空の下に広がる、広大な草原で横になっていたようだ。
しかし、ここは妙な場所だった。地平線まで見える何もない平野なのに、吹き渡る風もなければ、雲ひとつない青空なのに、照りつける太陽の暑さも感じない。
寝ていた場所から少し離れたところに、石ころが転がる赤土むき出しの狭い道があった。道には大勢の人が歩いている。人々は年齢、性別、人種はバラバラだが、一つの方向を目指し、ゆったりした足取りで歩いていることだけは共通していた。
髭面の中年男は、あごをしゃくり立ち上がるように促した。
よろめくことなくスッと立ち上がる自分が、78歳の老人ではなく、死に装束こそ着ているものの、20代半ばの若々しい姿に戻っていることに気づいた。黒く太い眉毛を片方だけ上げて、傍らの中年男に言った。
「よう、おっさん。ここはあの世だな。あの世じゃ若い頃の姿に戻ると聞いたことがある。俺は死んだから、こうなったんだな」
そして、気づいたように首をかしげる。
「ところでおっさん、あんた誰? 俺になんか用か?」
中年男はムッとした表情になった。口からはリズミカルな関西弁が飛び出す。
「誰がおっさんやねん。わしは臨済宗大徳寺派の僧侶で宗純と言うモンじゃ。室町時代の名僧、一休さんと言うたら頭の悪いお前にもわかるやろ。これでも少しは尊敬する人がいてるんやから、おっさんなんぞ言うたら許さんぞ」
大道寺は驚いて男の姿を頭からつま先まで眺めた。ボロボロだが確かに黒い法衣を着ている。しかし、大道寺が知っている一休は、とんちで有名な小坊主だ。関西弁を使う薄汚い中年僧侶とは、あまりにイメージが違った。
「一休さんって言ったら、かわいい、とんち小坊主じゃないのか? それに何だよ、そのお笑いみてえな関西弁は」
一休は口を尖らせた。
「わしかて、かわいい小坊主の頃もあったわい。いきなりオヤジになるもんか。それに、わしは生まれてから死ぬまで、ずっと京・大阪に住んどったんじゃ。関西の言葉で話すのは当たり前や。そんなことより、お前の目の前には今、天下の一休禅師が現れてんのやで。少しは感激したらどうなんじゃ」
だが、大道寺は無表情だった。
「悪いが坊主には興味がない」
一休は大道寺をじっとにらんでいた。しかし、大道寺の様子が変わらないため、気が抜けたように軽くため息をついた。
「もうええわ。ほんまにヤクザは信心がないな。まあ、とりあえず、あれを見てみい」
そう言って、石ころだらけの狭い道をぞろぞろと歩いている人々を指差した。
「ここは、正確にはまだあの世やない。あの世に行く途中や。あそこを歩いてるのは病気や事故、事件で死んだ連中や。この道の先に閻魔大王のいてはる審判所があって、みんな自分があの世で落ち着く先を閻魔様に決めてもらうため、審判所に向こうてるんや」
話を聞いた大道寺の目は鋭くなり一休を見据える。そして、視線を死者の行列に移した。険しい顔だった。しばらくすると腹をくくったようにニヤリと笑った。
「じゃあ、俺も閻魔大王に会いに行くとするか。どうせ、行き先は地獄だろうけどよ」
大道寺の言葉に一休は不満げな顔を見上げる。立って並ぶと180センチ以上ある大柄な大道寺と小柄な一休とでは、頭一つ分違った。
「待たんかい。まだ、わしが現れた理由を言うてない」
そして、あきれ顔で肩をすくめた。
「お前は、ほんまに根っからの悪党や。恐喝、詐欺、監禁、傷害、殺人、銃や麻薬の密売・・・・・まったく、数えだしたら切りがないわ。ようもここまで悪事を働いたもんやなあ」
「そりゃ極道だからだ。何でもやらないと、旭誠会は大きくならなかった」
平然と言う大道寺に一休は「お手上げ」と言わんばかりに首を振る。
「正直に言うとな、お前は罪が重すぎて、地獄に落ちても該当する刑罰がありゃせんのや。地獄行きでも普通は何十年、何百年か経てば転生して現世に戻るが、お前はそのメドも立たん。近頃は地獄に落ちる者がぎょうさんおって、お前1人に延々と鬼たちを貼り付ける訳にもいかん。そこで閻魔大王は思案して、おもろいことを思いつきはった」
そして、ジロリと大道寺を見る。
「お前は閻魔様が『もうええ』とおっしゃるまで、現世に戻って悪事から人間を救え。そうやって刑罰の軽減でもせんと、地獄にもやられん。これはお願いやないで。閻魔大王の命令と言うこっちゃ。お前が若い頃の姿に戻ってんのは、閻魔様の命令を果たしやすくするためや。ヨボヨボの老人じゃ、身軽に動き回れんからな」
「・・・・現世に戻って悪事から人間を救えだと? 極道の俺が・・・・?」
眉をひそめる大道寺に、一休は表情を和らげて悪戯っぽく笑った。
「わしはな、お前が閻魔様の命令をきちんと果たすように見張る監視役や。実はわしも、お前とは理由が違うが、簡単にあの世に行かせてもらえん身や。わしは現世では風変わりな坊主やった。寺にこもらず、俗世で普通の者と同じように暮らし、一緒に泣いたり笑ったりしながら、人間のすべてを見続けてきた」
一休は優しい笑顔を見せた。
「仏道とは、人のすぐそばで道を明るく照らすもんや。わしにとっては人と関わることこそ、仏道を究める修行やった」
少し、一休は胸を張る。
「ところが、わしにも寿命はある。死ぬ間際、お釈迦様に『修行はまだ半ばです。もっと人間を見続けさせてください』とお願いしたところ、『じゃあ、この世とあの世の入り口までを行き来しながら、気の済むまで人間を見ておれ。当分こっちに来るな』と言われてしもうた。そんな訳やから、わしは現世に戻ることも、閻魔様に謁見することもできる。お前を見張り、命令を実行させる役目にもってこいちゅーこっちゃ」
一休の話をじっと聞いていた大道寺は、徐々に不機嫌な顔になっていった。ゆっくりと一休を見下ろし、吐き出すように言う。
「命令なんぞクソ食らえだ。俺は他人から指図されるのが大嫌いだ。いくら相手が閻魔大王でもだ。大体、言われた通りに働いても、結局、俺が行くのは地獄以外にないはずだ。わざわざ地獄に落ちるために命令なんか聞くか」
大道寺の悪態を一休は穏やかな顔で聞いていた。
「思うた通りの反応やな。わかりやすい男や。閻魔様もそんな返事を予想してはってな、お前が命令に従えば特別措置として、働き次第で恩赦を与えようと言うてくれてる」
「恩赦?」
「そうや。閻魔様は、もし罪を帳消しにするほどの良い働きをすれば、極楽行きを考えてやってもええと言うてくれてる」
そして、諭すように言う。
「極楽はええところやで。毎日うまいものを食い、うまい酒を飲んで遊び放題。しかも、周りにはきわどい衣を羽織った美しい天女たちがゴロゴロおるらしい。そんなところに行ける好機なんや。ここは大王にええとこ見せといた方が、絶対に得だと思わんか?」
だが、大道寺は眉一つ動かさない。ますます不機嫌になる。
「俺様が極楽という餌に釣られるとでも思ってるのか? このクソ坊主、何が『極楽はええところ』だ。見てきたようなこと言いやがって。てめえは、あの世の入り口までしか行けねえつったろ。だったら極楽なんか見たことねえはずだ。閻魔大王に言っとけ。大道寺剛三はあの世でも他人からの指図は受けんとな」
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「ほんまに働かんのか? これは命令なんやで。逆らうことはできん。閻魔様の言うこと聞かんと、少々苦しい目に遭うけど、それでもよろしいか?」
「何だ、てめえは。俺を脅してるつもりか?」
目をむいた大道寺に一休は答えず、顔の正面に右手の人差し指と中指を立てて、何やら呪文を唱えだした。すると、突然、大道寺は胸を押さえ苦悶の表情を浮かべ始めた。喉の奥から絞り出すような声を出し、がっくりと草原に両膝をつく。
「・・・・こら・・・・これはてめえの仕業か・・・・」
一休は呪文を中断して淡々と言った。
「閻魔様から教えてもろうた術や。今、お前の体は心臓だけが78歳の死にかけた状態に戻ってる。その痛みは、若くて元気な体を支えきれない心臓が上げてる、切実な悲鳴やねん。ええ返事してくれんと、次は足腰の骨と神経、その次は肝臓と若い体のまま、じわじわ中身を死にかけた老人に戻すで」
そう言って、再び呪文を唱え始めた。大道寺の胸は絞り上げられるような激痛に襲われた。そのうち足や腰に力が入らなくなり、ついに体を折り曲げて、何の匂いもしない草原に額をついた。
味のない草を舐めながら、これは死ぬ時の苦痛だと思った。しかし、今の自分が死ぬことはない。死によって痛みから解放されることはないのだ。それは自分でもわかっていた。
―・・・・苦しい・・・やめてくれ・・・・―
傍らにたたずむ一休に、助けを求めるように震える手を上げた。一休は再度呪文をやめる。
「どうや。閻魔様のために働くか?」
「・・・・やる・・・・やるから、やめろ・・・・・」
一休は体の力を抜いて微笑み、手の甲で額に薄っすら浮かんだ汗を拭う。そして、差し出された大道寺の手首をつかんだ。
「アホんだら。早う言わんからじゃ。これからもお前が閻魔様の言いつけを守らんかった時は、わしは遠慮なくこの術を使うからな。閻魔様の言うには、何でもこの苦しさは地獄の責め苦を超えてるそうや」
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すると、一休は目を閉じて先ほどとは違う念仏を唱え始めた。あっと言う間に大道寺の視界は暗くなり、一休につかまれた腕から次第に体の力が抜けていくのを感じる。意識は念仏を聞きながら急速に遠のいていった。
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時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写はすべて架空です。
月弥総合病院
御月様(旧名 僕君☽☽︎)
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
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