剣と迷ひ猫の夜

孫真

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剣聖と肥前の影

剣聖と肥前の影

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 佐賀城下、秋の陽が傾くころ、肥前藩の広庭は熱気と緊張に満ちていた。観衆のざわめきが空気を震わせ、土埃が薄く舞う。宮本武蔵は、向かい合った田原安左衛門の眼光を鋭く捉える。安左衛門の構えはタイ捨流、肩を落とし、重心を低く保つその姿は、まるで岩が動くかのようだ。火縄銃の名手として知られる男だが、剣の腕も一級品。武蔵は唇の端を吊り上げ、木刀を中段に構えた。
「田原どの、遠慮は無用。存分に参れ!」 武蔵の声は、まるで雷鳴のように広庭に響く。安左衛門は目を細め、笑みを浮かべる。
「剣聖ともあろうお方が、拙者に花を持たせる気か? ならば、遠慮なく!」
木刀が風を切り、両者の間合いが一気に詰まる。武蔵の刃先が安左衛門の喉元を狙い、鋭い突きが放たれる。だが、安左衛門は体を捻り、木刀で受け流す。返す刀で、横薙ぎが武蔵の脇腹を狙う。観衆の息が止まる。武蔵の足さばきは、まるで水面を滑る鳥の如く軽やかだ。一歩後退し、その一撃をかわす。木刀のぶつかり合う音が、鼓動のように響き、土埃が舞い上がる。
「ほう、火縄の安左衛門、剣も鋭いな!」 
武蔵は笑いながら言うが、目は真剣だ。安左衛門の剣は力強く、しかしどこか遊び心がある。武蔵はそれを楽しむように、一撃一撃を受け、返す。木刀が空を切り、月光に刃先が白く光る。観衆のどよめきが、まるで波のように広がる。安左衛門が踏み込む。木刀が弧を描き、武蔵の肩を狙う。武蔵は主刀で受け、脇の刀で反撃。刃が交錯し、火花が散る。安左衛門の動きは、まるで巨岩が崩れるような重さだ。だが、武蔵の二刀は、風のように軽やかで、しかし嵐のように猛烈だ。十数合の応酬の末、武蔵はわざと隙を見せる。安左衛門の木刀が、武蔵の肩先に触れる。だが、武蔵の主刀もまた、安左衛門の胸元にピタリと止まる。
「これは……引き分けか?」
 安左衛門が息を整えながら言う。額に汗が滲む。
「そうなるな。田原どの、良い剣だ」 武蔵は木刀を下げ、笑みを深める。観衆が拍手を送るが、武蔵の心中には別の思惑があった。この御前試合、鍋島直茂の病床を気遣い、事を荒立てぬための引き分けだった。直茂の病は重く、藩の空気はどこか澱んでいる。武蔵は、花を持たせることで、その重さを和らげたのだ。試合後、武蔵は一人、広庭の端で刀を拭う。秋の風が冷たく、遠くで松明が揺れる。肥前の地、ただならぬ匂いがする。 彼の鼻腔を、血と鉄の匂いがくすぐる。沖田畷の亡魂か、それとも別の何かか。武蔵は目を細め、夜の闇を見つめる。

翌日、武蔵は高伝寺へと足を運ぶ。鍋島直茂の側室であり、家康の養女とされる高源院に拝謁するためだ。寺の裏庭、楓の葉が赤く染まる中、武蔵は高源院と対面する。彼女は白絹の衣をまとい、静かな微笑みを浮かべている。だが、武蔵の勘は、彼女から漂う武の匂いを捉える。血と汗、鉄と殺意が混じる、戦場を知る者の匂い。それは、貴婦人のものではない。
「宮本どの、ご壮健で何より。肥前にようこそおいでなされた」 
高源院の声は柔らかだが、どこか底知れぬ響きがある。武蔵は一礼しつつ、彼女の目を見つめる。その瞳には、まるで夜の獣のような光が宿っていた。
「恐れ入ります。殿のご病状はいかがに?」 
武蔵は探るように問う。直茂の病は、藩の重い空気の原因だ。だが、高源院の答えは曖昧だ。
「医者によれば、日に日に衰えゆくとか。……さても、宮本どのの剣、拝見したかったものよ」
 高源院は話題を逸らし、笑みを深める。武蔵は心中で首を振る。この女、ただの側室ではない。何かを隠している。高源院は茶を勧め、武蔵は静かに盃を取る。だが、その指の動きに、忍びの気配を感じる。彼女の仕草は、貴婦人のそれだが、どこか計算された鋭さがある。武蔵は、わざと盃を落とす。盃が畳に転がる瞬間、高源院の手が素早く動く。まるで短刀を隠すような仕草だ。
「これは失礼。拙者の手が滑った」 
武蔵は笑みを浮かべ、盃を拾う。高源院の目が一瞬、光る。「宮本どの、お気になさらず。肥前の茶は、如何かな?」 
彼女の声は穏やかだが、武蔵は確信する。この女、鼠子待衆の生き残りか。だが、家康の養女という立場ゆえ、迂闊に探れぬ。
「肥前の茶、深い味だ。だが、どこか血の匂いがするな」
 武蔵の言葉に、高源院の笑みが一瞬、凍る。彼女はすぐに微笑みを取り戻すが、武蔵は見逃さぬ。その反応は、彼女が何か隠している証だ。
「血の匂い? さすが剣聖、面白いことを仰る。沖田畷の戦の跡でも、訪ねてみては?」 
高源院の言葉には、試すような響きがある。武蔵は笑みを返す。
「さよう、沖田畷か。龍造寺隆信が討ち死にした地。興味深いな」
 武蔵の言葉に、高源院の目が鋭く光る。こやつ、隆信の名に反応した。やはり、ただ者ではない。武蔵は寺を後にする。秋の風が、楓の葉を揺らす。高源院、いや、三毛とやら。貴様の正体、必ず暴いてやる。 武蔵の胸に、剣士の勘が燃える。

その夜、武蔵は田原安左衛門の屋敷に招かれる。簡素ながら清潔な屋敷の座敷で、酒と肴が振る舞われる。安左衛門は、火縄銃を手に、笑みを浮かべる。
「武蔵どの、今日の試合、拙者に花を持たせてくれて感謝するぜ」
「田原どの、剣は心だ。花を持たせるも、斬るも、俺の心次第よ」 
武蔵は盃を傾け、笑う。だが、その目は、屋敷の奥に現れた少年を捉える。龍造寺又七郎、12歳。だが、その体躯は成人並みだ。肩幅は広く、目は隆信を思わせる強い光を宿す。武蔵は一瞬、息を飲む。この少年、只者ではない。
「宮本どの、こやつが拙者の弟子、又七郎だ。タイ捨流の初目録、なかなかの腕前よ」 
安左衛門が自慢げに言う。
「ほう、12でこの体格か。熊若丸と呼ばれるだけはあるな」 武蔵は笑い、又七郎をじっと見つめる。少年は無言で頭を下げるが、その目に宿る光は、まるで刃のようだ。
「武蔵どの、俺と一手合わせしてくれ!」
 又七郎が突然、声を上げる。安左衛門が苦笑するが、武蔵は手を振って制す。
「よかろう。庭で試してみよう、熊若丸」
庭に出ると、秋の夜気が冷たく漂う。月光の下、又七郎の木刀が振り上げられる。タイ捨流の構えは堂に入っている。武蔵は二刀を構え、少年の動きを観察する。この気迫、12歳とは思えぬ。龍造寺の血か、それとも何か別のものか。又七郎の木刀が、風を切る。刃先が武蔵の胸を狙うが、武蔵は軽く受け流す。少年の剣には、年齢を超えた力が宿る。木刀が月光に光り、まるで白い獣が跳ねるようだ。武蔵は一歩踏み込み、又七郎の肩を木刀で軽く叩く。
「気迫は良い。だが、剣は心だ。もっと己を知れ、又七郎」 武蔵の声は穏やかだが、鋭い。又七郎は唇を噛み、なおも木刀を振るう。その一撃は、まるで隆信の咆哮を思わせる。武蔵は二刀で受け、火花を散らす。少年の目は燃え、だが、その奥には何か揺れるものがある。この少年、母の影に縛られているな。稽古の後、又七郎は息を整え、武蔵を見つめる。「武蔵どの、俺、強くなれるか?」
武蔵は笑みを浮かべ、刀を肩に担ぐ。
「強さは、己を知ることから始まる。お前には、その目がある。だが、鎖を断ち切れ、熊若丸」
又七郎は無言で頷く。その目に、龍造寺の光と、少年の葛藤が宿る。武蔵は思う。この少年、肥前の闇を背負っている。だが、剣は彼を自由にするかもしれぬ。
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