百合御殿ノ三姉妹

山岸マロニィ

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【壱】御茶ノ水発奥多摩行

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 ――大正十年、七月十八日。

 青梅線の車窓から眺める空は、霞んで重々しかった。多摩山系が連なる稜線はぼんやりとにじみ、遠く望む多摩川は、荒々しい水を湛え灰色に濁っている。梅雨の終わりのじっとりと重い湿気は、気持ちをも重くさせる。
 これがもう数日もすれば梅雨も明け、青空の下に黒々と山々が並び、多摩川は翡翠色の水を満たしていたのだろう。車窓からの風も清々しく、この慌ただしい小旅行も、少しは行楽気分に浸れたかもしれないのに。椎葉桜子しいば さくらこは忌々しく灰色の空を睨み、じっとりと肌を包む湿気をおしぼりで拭った。
 不快なのはそればかりではない。向かいの席に納まる人物。彼は膝に置いた弁当をつつきながら、何食わぬ顔で言った。
「食べないんですか?」
 桜子は顔を正面に戻すと、ことさら大きく溜息を吐いた。――そうなのだ。この小旅行は仕事なのだ。
 彼女の雇い主である彼は、女物のような柄物のしゃを着流し、湿気を多分に含んだ風に長い前髪を揺らして、精一杯の愛想笑いを浮かべている。
「このだし巻き、絶品ですよ」
「――いただきます」
 桜子は不貞腐ふてくされた表情を隠し切れないまま、パキンと音を立てて割箸を割った。
 桜子は、この男と一緒に出掛けるのが、心の底から嫌なのだ。容姿に自信のない桜子に対し、絶世の美男子、しかも長身な上にいつも目立つ格好をしているから、否が応でも人目を引く。行く人来る人、桜子と彼を見比べて、不釣り合いだの見劣りするだの、心の中で桜子を嘲笑っているに違いない。腹立たしい。存在だけで腹立たしい。
 その上、今回の小旅行は、桜子の意図するところではなかった。せめて、前の日に電話の一本でも連絡をくれれば良いのに。桜子は恨めしい目で彼――犬神零いぬがみ れいを睨んだ。

 この小旅行は、休み明けの月曜日である今日、彼女が雑用係として勤める「犬神怪異探偵社」へ出勤した時に始まる。
 いつものように、モダンガールを気取ったワンピース姿で出勤した桜子は、扉を開け、麦わら編みのクロッシェ帽を取り、いつものように挨拶しようとした。
「おはようございま……」
 すると、犬神零はそれを遮るように、桜子の腕を掴んだ。
「行きますよ」
「……は?」
「時間がありませんので」
「…………?」
 抗議するいとまもなく、桜子は御茶ノ水駅へと引っ張られた。慌ただしく切符を買い、そのままホームへ駆け込むと、すぐさまやって来た列車に乗り込んだのだが……。
「いやあ、間に合って良かったです」
 席に落ち着き、満足そうに額の汗を拭う零に対し、桜子は不満が爆発した。
「何なのよ、いきなりどこへ連れてくつもりなのよ?」
 すると、零は澄まして切符を見せた。
二俣尾ふたまたおまで。そこでハイヤーが待ってますので、もう少し奥まで行きます」
「二俣尾? どこよそれ」
「奥多摩です。青梅の少し先ですね。そこからハイヤーで向かうのは、水川村みなかわむらという、青梅街道の宿場町です。温泉もある風光明媚な観光地らしいですよ」
 彼としては、桜子の憤りを鎮めるために、行先が良い所であるとアピールしたかったのだろう。しかしそれは、桜子の怒りに油を注いだ。
「はぁ? 何言ってんの?」
 桜子はキッと零を睨んだ。
「温泉? 観光地? なんであんたと行かなきゃいけないのよ!」
 今にも張り手を食らわしそうな勢いだ。そこでようやく気付いたように、零は表情を引き攣らせ、顔の前で両手を振った。
「も、もちろん、個人的なお誘いなんかじゃありませんよ。仕事ですよ、仕事」
「仕事?」
「はい。依頼人からご依頼を受け、調査に向かうんです。場所が場所で時間が掛かりますから、急いでいました。説明が遅くなり申し訳ありません」
 そこで桜子は思い至った。
「……もしかして、日帰りで帰れないとか、ないわよね」
「はい。何日か逗留する事になるかと」
「はあ??」
 桜子は般若の形相で立ち上がった。
「泊まる準備、何もないんだけど」

 男はいいわよ、化粧品も必要ないし。特にこの人は、格好の割に身だしなみにこだわらない方だから、着たきりでいいもの。でも、女はそうはいかないのよ。この時期、汗と湿気でスカートは皺になりやすい。着替えのひとつも持たずに泊まりとか、不安しかないのだが。
 それに、何日も帰らなければ、桜子の住むアパートメントの大家であるシゲ乃が心配するだろう。頃合をみて、電話の一本もしなければならない。
 そんな配慮を一切合切いっさいがっさい何もせず連れ出した犬神零に対し、桜子の憤りは収まらなかった。
 何度か乗り換え、青梅線の三等車に腰を落ち着けたところで、途中買った駅弁を広げだしたのだが、互いに気まずく、黙々と箸を運んだ。

 列車は山間に入り、多摩川の流れが間近に見えてきた。
 ようやく弁当を片付けた桜子は、土瓶どびんのお茶を飲みながら零に目をやった。
「……で、どんな依頼なの?」
 探偵社というところへ勤めだした因果だけでなく、元々の性分もあるだろう。桜子は好奇心が人一倍強かった。弁当で腹が落ち着くと、乗りかかった船、どうせならこの好奇心を満足させてやろうと、気持ちを切り替えたのだ。
 それは零にとっても有り難かった。気まずい空気を払拭しようと満面の笑みを浮かべ、懐から取り出したのは、一冊の雑誌だった。――洋髪の少女のはにかんだ笑顔が、色とりどりの花柄で飾られた表紙。少女向けの雑誌「少女画報」だ。桜子は唖然とした。どう見ても、いい歳をした男が読むものではない。
 桜子は目を細め、不審な視線を零に送った。
「そういう趣味があるのね」
「いや、違いますって。……ここです」
 零はページを開き、桜子に見せた。それを見て、彼女は目を丸くした。
「……街で見かけた良い男……、って、何これ」
 見出しの横に載っている写真の男は、どう見ても犬神零だ。いつもの格好でポーズを取りながら、笑顔を向けている。
「先日、日本橋を歩いていたら、取材を申し込まれまして。探偵社の宣伝になるかと、お受けしました」
「へえ……」
「どうせだからと、連絡先も載せて貰ったんです。そうしたら、効果がありましてね……」



 依頼人が彼を訪ねたのは、昨日、七月十七日の午前十時頃の事だった。
 犬神零はその時、事務所の椅子に身を預け、暇を持て余した挙句、新聞を眺めていた。
 日曜日だから、事務所は休みである。本来、事務所にいる必要などないのだが……。
 零は応接の奥にある扉にチラリと目をやった。その奥は納戸になっているのだが、そこに引きこもる居候の少年は、休みだろうと関係ない。相変わらず納戸を我が城と決め込んでいるので、留守にするのを憚られたのだ。それに、ちょうど仕事の手も空いており、雨のしとしと降る中を、出かけねばならない用もなかった。
 ――もしこの時、彼が物見遊山にでも出かけていれば、彼はこの事件に関わらずに済んだのだ。そう考えると、運命を感じずにはいられない。そういう星の下に、この男は生まれているのだろう。
 それはさて置き、犬神零の顔を新聞から上げさせたのは、ノックの音だった。コンコン、コンコンと入口の扉が叩かれたので、彼は不審に思いながらも扉に向かった。
 応接の横を通り過ぎ、扉を開けた途端、零は驚いた。
 扉の先に立っていたのは、ドレスを可憐にまとった、可愛らしい少女だったのだ。
 眉の線で切り揃えられた前髪、長く胸元に垂らした美しい黒髪。右の耳の上に、白百合をあしらった髪飾りを付けている。
 首元から袖先までをレースで覆ったドレスには、フリルやレースの装飾が多用されている。肩から二の腕をふんわりと包む提灯ちょうちん袖、それに膝丈のかさのあるスカートがまた、何とも少女趣味である。
 体付きからすると、歳の頃は十二、三といったところだろうが、透き通るように白い肌に桃のような頬、黒水晶のように輝く丸い目は、もっと幼く見える。余りに現実離れした容姿は、無機質でできているようにも見えた。――まるでフランス人形だ。零は思った。
「……おや、何のご用でしょう? あいにく、今日は休みなんですがね」
 まさかこれが依頼人とは思わず、零は戸惑いを顔に浮かべた。すると、彼を見上げる黒水晶の瞳が潤み、たちまち桃の頬に涙が伝い落ちるからたまらない。零は焦った。
「と、とにかく、中へどうぞ。お話をお聞きしましょう」
 促されるまま、少女は応接の長椅子へ座ると、エナメルのハンドバッグを膝に置いた。レースのタイツに覆われた脚に、黒々と光る革靴を揃えて座る姿は、育ちの良さを感じさせる。
 チラチラと彼女を気にしつつ、零は奥の流しで紅茶の用意をした。そして、カップをテーブルに置いた刹那、彼女はうわっと泣き出した。
 レースの夏手袋をした両手で顔を覆い、肩を震わせて慟哭どうこくするさまを、零は正面に腰を据えて静かに見ていた。経験上、このように取り乱す女性は、気の済むまで泣かせた方が良いと、彼は知っていた。
 果たして彼女も、泣きたいだけ泣き尽くすと、ハンドバッグからハンカチを取り出して目元を押さえた。そして未だに震える声で、途切れ途切れにこう言った。
「どうか……どうか、お助けください……。私、きっともうすぐ、村の人たちに殺されてしまうのです」
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