百合御殿ノ三姉妹

山岸マロニィ

文字の大きさ
9 / 69
【壱】御茶ノ水発奥多摩行

しおりを挟む
 犬神零は、束ね髪のくせに、頭を掻く癖がある。当然、髪は乱れるのだが、それを適当に押さえつけておくだけで、特にこだわらないのが、この男の身だしなみの程度である。
 しかし、元が異常に良いから、そのズボラささえも格好が付くというのは、桜子からしたら恨めしい事この上ない。
 この日は当然、しばらくの逗留と分かっているのだろうが、そのズボラさから、フラリと買い物にでも出た風な手ぶらで、犬神零は改札を抜けて行く。
 二俣尾駅は、青梅線の終点である。この先、もっと路線を延ばし、採掘した石灰石の運搬用に、電気鉄道を走らせる計画があるようだが、それはまだしばらく先の話だ。
 駅の待合室の時計を見ると、午後三時を少し回ったところ。
 まばらな乗客たちと一緒に駅前に出ると、桜子は大きく伸びをした。座席に座っていただけとはいえ、さすがに疲れた。空の色は相変わらず灰色だけど、街中のような蒸し暑さはない。山間の爽やかな空気が肌に心地良かった。
 真新しい素朴な駅舎のすぐ前には、青梅街道が走っている。その向こうには、多摩川が湾曲しながら流れていく。その間の狭い土地にも田んぼがあり、藁葺き屋根が何軒か見えた。
 そして、青梅街道の路肩には、一台のハイヤーが停まっていた。その屋根に毛バタキをかけていた、白のカッターシャツに蝶ネクタイの男が、二人を見るとやって来た。
「犬神様でございますね? お待ちしておりました」

 桜子がハイヤーに乗るのは初めてではない。故郷にいた当時は、これでも豪農のご令嬢だったのだ。少し遠出をする時などは、ハイヤーを呼び寄せていた。もっとも、鉄道網が発達していないから、移動手段が他にないのが大きい。
 ここも同じで、二俣尾までは何とか鉄道が通ったのだが、ここから先は、石灰運搬用のトロッコしかなく、人は青梅街道を行く事になる。その際の交通手段の主流が、ハイヤーなのだ。
 整備はされているものの、舗装がされていないため、車内はガタガタと揺れる。ドアの把手を掴んで、体を支えなくてはならない。
 青梅街道は、多摩川沿いに東西に伸びる、青梅と甲府とを繋ぐ街道だ。所々に宿場町が整備され、昔の人はそこを利用しながら、何日もかけて歩いたのだ。乗り心地が悪いとはいえ、それに比べれば楽なものである。
 牛が引く大八車の横を通り過ぎる。菅笠を被った御者が、日に焼けた顔をこちらに向けた。同じ東京とはいえ、街中とは全く違う人々の生活が、そこにはあった。

「梅子様と竹子様に、同時にご手配を頂きましてね。――東京からお越しの、探偵さんとか」
 蝶ネクタイの運転手は、柴田しばたと名乗った。三十路くらいの身だしなみの小綺麗な男だ。水川産業の子会社である、ハイヤーの派遣を行う月原観光の社員と言う。
「以前は、水川村の奥にある月原洞窟へ観光客をお送りする事が多かったのですが、今は来住野家専属でやらせて貰っています」
 これに、犬神零の食指が動かないはずがない。彼はニヤリとした。
「ご主人は、帝国議会に出馬されるとか。それはお忙しいでしょう」
「はい。私は二俣尾までご送迎するだけですが」
「ご家族もご案内する事はあるんですか?」
「奥様は毎週、週末にご利用されます。ご実家で過ごされますので」
 それは、梅子に聞いた話の通りである。
「毎週里帰りをされるとは、何か特別なご用でも?」
「元は華族様ですから。こんな田舎では窮屈に思われるのでしょう」
「ご家族も付き添われるんですか?」
「いや、奥様だけですね。……あ、先日は、お嬢様がたもご一緒でした。お盆供養とかで」
 これも、梅子の話と合っている。
「お嬢様がただけでお出かけになる事は?」
「私の知る限り、ありませんね。……あ、松子様は別ですが」
 そこで犬神零は急に身を乗り出し、軽薄そうな笑顔を浮かべた。
「松子さんは、元帝東歌劇の大スター・花沢凛麗というじゃありませんか。ご主人はあの不知火清弥。お二人を乗せる事は?」
「ありますよ。いやあ、松子様は本当にお美しいです。現役当時と変わっていないどころか、深みを増して、さらに磨きがかかっておられます。あんな絶世の美女をご案内できるなんて、運転手冥利に尽きますね」
 そこで零は気付いた。この運転手は、敢えて不知火清弥の話題を避けている。だが彼は表情には出さずに続けた。
「やはり、演劇のお仕事で東京に行かれるんですか?」
「はい。引退されたとはいえ、繋がりが切れた訳ではないようで。お弟子さんの公演を観に行かれたり、演出家に相談を受けたり、そんな事をされているようです」
「花沢凛麗って、そこがまた魅力だったのよね。演出家の言いなりじゃなくて、自分で作品を作り上げていく才能。どの作品も、彼女らしさが出て素敵だったわ」
 桜子がうっとりと両手を組んだ。
「はあ……、彼女が座った座席に座れただけで、私幸せだわ」
「あ、松子様はいつもこちらに座られますね」
 柴田が零の方を指す。桜子に激しく睨まれ、零は苦笑した。
「ご夫婦でご一緒に行かれるんですか?」
「ご一緒の時もあれば、おひとりの時もありますね。……どちらかと言うと、清弥様おひとりの事の方が多いかもしれません」
 奥歯に物が挟まったような口ぶりに、零は目を細めた。――この夫婦にも、何かありそうだ。

 多摩川はくねくねと曲がり、青梅街道もくねくねと蛇行する。柴田は白い手袋をして華麗なハンドル捌きを見せる。
 街道の脇には、緑深い山々が迫る。ひんやりとした湿気と多摩川の流れる音が、開いた車窓から入ってくる。薄ぼんやりと雲に隠れた太陽は、既に西に傾き始めている。夏とはいえ、山間地の日暮れは早いのだ。
 柴田は釣りが趣味らしく、そんな話題になると、生き生きと語りだした。村の釣り仲間とよく、多摩川で鮎を狙うそうだ。今は梅雨で濁っているが、梅雨が明ければ、紛れもない清流が姿を現すという。

 一時間近く走っただろうか。急に景色が開けた。
 多摩川の支流・月原川の河口に広がる集落――ここが、水川村だ。
「右手の山に、大きな工場があるでしょう。あれが、水川産業のセメント加工場です」
 柴田が説明する。月原洞窟の近くに大規模な採掘場があり、トロッコで運んだ石灰石を砕いて他の材料と混ぜ、セメントにするための施設だそうだ。
「その手前が学校で、川沿いの通りが村の中心部です。以前は、月原川の向こうの西集落にある、水川宿の宿場町が中心でしたけど、水川産業のおかげで、今は東集落の方が栄えてますね」
 ハイヤーはコンクリートの橋を渡る。そしてすぐ、横に走る道を右に曲がる。
「ここが、月原山道の入口です。月原洞窟への巡礼へ向かう道ですね」
 確かに、この辺りは古い家々がぽつりぽつりと並ぶだけで、あとは田んぼが広がっている。廃れた旧市街である。
「来住野家は、左手の山を入ったところになります。お屋敷も立派ですが、お屋敷の裏手の百合園が見事でしてね。ですから村のモンは、『百合御殿』と呼んでいます。年に一度、天狗堂のお祭りの時にだけ解放されるんですがね、それを目当てに他所からも見物客が来るくらいです。それに、去年からですね……」
 柴田がニヤけた顔で振り向いた。
「奉納舞を松子様が舞われますので、それ目的のお客さんも大勢」
「実は、私もそれを期待してるの。……いいわよね、ちょっとくらい」
 満面の笑みの桜子に、零は苦笑を返した。

 やがてハイヤーは月原山道を逸れ、薮に囲まれたつづら折れの山道を上っていく。
 時刻は四時近く。日は山陰に傾き、山間やまあいの空気は夕方のものになっていた。
 幾つ目かのカーブを曲がったところで、灰色に陰った空に聳える三角屋根が見えてきた。村を見下ろす高台に悠然と佇むその屋敷の風格は、村の様子とは全く異質のものだった。
 柴田が言った。
「あれが、百合御殿です」



《添付図2》
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

屋上の合鍵

守 秀斗
恋愛
夫と家庭内離婚状態の進藤理央。二十五才。ある日、満たされない肉体を職場のビルの地下倉庫で慰めていると、それを同僚の鈴木哲也に見られてしまうのだが……。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

処理中です...