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【弐】祭リノ前夜
①
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ハイヤーは間もなく停まった。
ここが目的地なのは、言われずとも分かる。鬱蒼とした薮が途切れたところに石垣が姿を見せ、その上に、かつての陣屋を思わせる、立派な門が現れたからだ。
漆喰の重厚な長屋門の向こうに、夕日を受け黒々と入母屋の屋根が聳えている。しかし、つづら折れから見た屋根とは形が違う。別棟もあるのだろうか。車を降りた零は、目を細めそれを見上げた。
代官の住居及び役所となるのが陣屋である。役所であるため、領地の中心部にある場合が多いが、中には戦国時代の城跡がそのまま使われる場合もあった。この屋敷は後者の方だろう。山城らしい荒々しい石垣が、それを物語っている。
「取り次いで来ますので、少々お待ちを」
柴田が、数段上がった長屋門の潜り戸に消える。
すると後に残されたのは、エンジン音に負けじと騒ぐ、けたたましい虫の声だ。夜闇を迎える直前、門灯に灯はない。道のすぐ脇の、薮の奥の暗闇を心細く感じたのだろう、桜子が零に囁いた。
「凄いお屋敷ね」
「はい。予想はしていましたが、こんな山奥とは思いませんでした」
二人が感じる威圧感は、建物以上に、村を見下ろすこの場所にある、という要素が大きいのかもしれない。それだけ、建築に掛かる労力も大きいはずで、それは即ち、権威の象徴でもある。そんな威容に気圧され、何となく零も小声になる。
「ひとつ、心得ておいて欲しいのですが」
「何?」
「今から、竹子さんと梅子さんのご依頼の件で、少なくともお祭りが終わるまでは、お屋敷に滞在する許可を頂きたいんですがね。ご当主の十四郎氏が、梅子さんに聞いた通りのお方だとすると、追い出される公算が高いです」
「……え? じゃあどうするの?」
「竹子さんと梅子さんを頼りに、何とか居座れるよう、説得するしかありません。……が、男の私は難しいかと」
「…………」
「最悪、桜子さんだけでも残れるように、頑張ってください」
「は? ……まさか、それが私を引っ張り出した本当の目的?」
零は知っていた。この椎葉桜子という人物、実は薙刀の達人である。薙刀はなくとも、手頃な棒切れさえあれば、並みの男では相手にすらならない。しかし、年頃の娘としては腕っぷしを自慢にしたくはないのだろう、桜子はあまりその腕を見せたがらなかった。
それを、用心棒に利用しようというのだから、桜子が機嫌を損ねるのも無理はない。
そんな桜子の眉が釣り上がる直前、柴田が戻ってきたので、零は胸を撫で下ろした。
「東京からのお客様と、下男に通しましたので。どうぞ」
潜り戸から中に入る。
長屋門は、左右を小屋に挟まれた門である。目の前のそれは、江戸の当時そのままの威厳を残していた。
かつては門番の詰所として使われたのだろう、左右の小屋それぞれに、格子のはまった窓がある。そこへの出入り口らしいものは、潜り戸を通っただけでは見当たらない。
そこから続く石畳の両側には、手入れされた庭木と石灯籠が配置されている。
そして正面に、外から見た入母屋屋根の平屋が構えていた。門に比べ、比較的新しい建物だ。明治以降に建て替えられたのだろう。豪邸には違いないが、武家屋敷ではなく民家の造りだ。
その格子戸になった玄関の前に、尻端折りに股引の男が立っていた。下男の貞吉である。
「後は、彼が案内しますので」
貞吉がペコリと頭を下げたのと同時だった。玄関の奥から、男の激しい怒声が響いた。
「出て行け! 私の言う通りにすればいいんだ!」
その声に、柴田がギクリと背を伸ばす。
「……誰か、旦那様にお客様かな?」
「へえ。寄合の言伝だと、『多摩荘』の旦那と『まるいや』の若旦那が」
貞吉は平然と答えた。途端に柴田はソワソワとしだし、慌てた口ぶりで、
「じゃあ、私はこれで」
と、玄関に背を向け、そそくさと出て行った。
不穏な背中を見送る二人を、貞吉は急かした。
「どうぞ、お上がりくだせえ」
欅の一枚板の上がり框を上がる。正面には蒔絵の衝立が置かれ、その左右に伊万里焼の大壺が並べられている。高価なものではあるだろうが、些か悪趣味に、零には思えた。
廊下はそこから左右に伸びており、貞吉が向かったのは右だった。
廊下の左手の壁には、額に入った日本画か幾つか掛けられている。左手は硝子窓になっており、長屋門から続く竹垣の向こうに、薮を這うつづら折れが見下ろせた。
定吉に続く三人は、そこで、正面の観音開きの扉から出てきた二人の男とすれ違った。
一人は、「多摩荘」という屋号が染め抜かれた藍染の法被を着ている。五十過ぎだろう。でっぷりとした布袋様みたいな体格だ。ツルツルに艶のある頭が、むしろ若々しく見える。
もう一人は、もう少し若い。四十くらいか。短く刈った頭に日焼けした肌。刺し子の着物の首に「まるいや」の号の入った手ぬぐいを巻いている。
二人は一様に暗い顔をして、こちらに軽く会釈だけして通り過ぎた。
零と桜子は顔を見合わせた。絶対に状況は悪い。今行ったところで同じ目に遭うのが目に見えている。ならば、日を改めた方がマシではないか?
ところが、貞吉は容赦なく、二人が今出てきたばかりの観音開きをノックした。
「東京からのお客様がおいでです」
そして、返事も聞かずに扉を開ける。仕方なく、零と桜子は貞吉の後に従った。
「東京からの客? 誰だおまえたちは」
中から浴びせられた第一声はこうだった。
そこは、屋敷に似つかわしくない洋間だった。十二畳ほどもあるだろうか。白壁は腰のところで板壁に切り替わっている。床は深紅の絨毯。若草色のカーテンが掛けられた、十文字に格子の入った窓からは、水川村の遠景が一望できる。
彫刻の施された木製サイドボードに、白亜の大理石のマントルピースなど、調度品がバラバラで、玄関の装飾品と同様、趣味は良くない。
そして声の主は、正面の壁に立つ柱時計の前の、ビロードのソファーに腰を据えていた。
歳は五十前だろう。浅黒い肌は色艶が良く、精悍な印象を受ける。だが、眉間に縦に深く刻まれた皺が、この男の心情を示していた。
――この男が、この屋敷の主、来住野十四郎である。
開襟シャツにスラックスというラフな格好から、年齢の割に引き締まった体格が透けて見えるようだ。顔立ちと共に、男前と呼んでいい部類である。
その豊かな髪の下から、明らかに友好的でない視線に射竦められ、零は覚悟を決めて名乗った。
「神田で探偵社をしております、犬神零と申します。こちらは、助手の椎葉桜子です」
「探偵? そんな者は知らん。呼んだ覚えはない」
棘のある言葉を吐いた後、十四郎は扉の横に控える貞吉を怒鳴りつけた。
「見ず知らずの者を屋敷に通すとは何事か! 貴様、自分の仕事が分かっているのか!」
「東京からのお客様は、お待たせしてはならないから、確認しなくても良い、すぐに洋間に通しなさいと、旦那様が仰ったものですから……」
貞吉の反論はだが、火に油を注いだ。
「あれは帝国議会関係のお客人だ! こんなどこの馬の骨とも知らん男と、見分けが付かないのか、馬鹿者!」
「でも、柴田が連れて来たから……」
「まだ言い訳するか! この役立たずめ!」
十四郎の激高に、貞吉は恐縮し俯いた。仕方なく、零は口を開いた。
「あの、私たちは無関係に、こちらにお邪魔した訳ではありません。こちらのお嬢様である、竹子様、梅子様のご依頼でお伺いした次第です。ハイヤーの柴田さんも、お嬢様がたから手配されたものですので……」
「竹子? 梅子? あいつら、何を考えている!」
苛立ちを抑えられない様子で、十四郎は目の前の大理石のテーブルを蹴り上げた。
「竹子様か梅子様から、お話を伺ってはおられないのですか?」
「あいつらはまだ帰って来ておらん! どこをほっつき歩いているんだ」
……まぁ、東京からここまでの移動は一日仕事だ。零たちは朝早くに汽車に飛び乗ったが、もう一本後の便に乗っても不思議はない。そして、彼女らを二俣尾駅で迎えるのも、柴田に違いない。あの男、そのところを教えておいてくれても良かっただろうに。零は歯がゆく思った。
「行き違いになってしまったのなら、私から事情をお話ししましょう。竹子様、梅子様のご依頼というのは……」
「聞く必要はない! 今すぐ出て行け!」
「しかし……」
「出て行けと言っているんだ!!」
全く話にならない。零は首を竦めた。
その時だった。湯呑を載せた盆を持った下女が入って来た。歳の頃は十一、二だろう。まだ幼いが「失礼いたします」と礼儀正しく挨拶をして、大理石のテーブルに湯呑を並べる。
しかしこの行為は、間が悪い以外の何物でもなかった。
十四郎は鬼の様相で顔を赤くし、下女の肩を蹴り飛ばしたのだ。
「誰が茶を出せと言った!」
「も、申し訳ございません!」
下女は、ひっくり返った湯呑から熱い茶を浴びながらも、絨毯に額を擦り付けて十四郎に謝罪した。
「この屋敷の奴らは、出来損ないばかりだ! 不出来を恥じない愚か者ばかりだ!」
十四郎は平服する下女の小さな体を、なおも蹴りつける。
「私がどんなに教育しても、なぜ満足に茶も出せない! この愚か者!」
さすがに黙って見ている訳にはいかない。零は止めようと足を出したのだが、もっと早く動き出した者がいた。
――桜子だ。彼女はツカツカと十四郎に歩み寄ると、その頬にバチンと平手打ちを食らわした。
「いい加減にしなさいよ。女の子を足蹴にするなんて、男として最低よ!」
零は凍り付いた。何とかして桜子だけでもこの屋敷に残そうと、思案を巡らせていたのだが、その計画は一瞬にして崩れ去った。
十四郎はわなわなと頬を震わせながら、血走った目で桜子を睨んだ。
「貴様、女の分際で私に手を上げるとは、不心得者にも程がある。許さんぞ!」
「あらそう、じゃあ、女にぶたれましたって、警察でも呼んだら?」
桜子は全く怯まない。平然と十四郎を見返してから、ワンピースのポケットからハンカチを取り出し、床に伏せたままの下女の濡れた髪を拭いた。
「大丈夫? 熱くなかった?」
「は、はい! ……申し訳ございません」
「あなたが謝る事はないわよ。さ、一緒に片付けましょ」
そう言って、桜子が床に転がる湯呑を拾い上げようとした時、十四郎の靴がそれを蹴り飛ばした。湯呑は絨毯の上を滑るように転がり、零の足元でふたつに割れた。
桜子は憮然と立ち上がる。十四郎との間に、火花が散るような睨み合いが起こる。――もう駄目だ。
零は大股で桜子に歩み寄り、その腕を掴んだ。
「行きましょう」
「でも……」
「失礼いたしました」
その時、柱時計の鐘がボーン、ボーンと五回鳴った。それを最後まで聞く事なく、二人は部屋を出た。
ここが目的地なのは、言われずとも分かる。鬱蒼とした薮が途切れたところに石垣が姿を見せ、その上に、かつての陣屋を思わせる、立派な門が現れたからだ。
漆喰の重厚な長屋門の向こうに、夕日を受け黒々と入母屋の屋根が聳えている。しかし、つづら折れから見た屋根とは形が違う。別棟もあるのだろうか。車を降りた零は、目を細めそれを見上げた。
代官の住居及び役所となるのが陣屋である。役所であるため、領地の中心部にある場合が多いが、中には戦国時代の城跡がそのまま使われる場合もあった。この屋敷は後者の方だろう。山城らしい荒々しい石垣が、それを物語っている。
「取り次いで来ますので、少々お待ちを」
柴田が、数段上がった長屋門の潜り戸に消える。
すると後に残されたのは、エンジン音に負けじと騒ぐ、けたたましい虫の声だ。夜闇を迎える直前、門灯に灯はない。道のすぐ脇の、薮の奥の暗闇を心細く感じたのだろう、桜子が零に囁いた。
「凄いお屋敷ね」
「はい。予想はしていましたが、こんな山奥とは思いませんでした」
二人が感じる威圧感は、建物以上に、村を見下ろすこの場所にある、という要素が大きいのかもしれない。それだけ、建築に掛かる労力も大きいはずで、それは即ち、権威の象徴でもある。そんな威容に気圧され、何となく零も小声になる。
「ひとつ、心得ておいて欲しいのですが」
「何?」
「今から、竹子さんと梅子さんのご依頼の件で、少なくともお祭りが終わるまでは、お屋敷に滞在する許可を頂きたいんですがね。ご当主の十四郎氏が、梅子さんに聞いた通りのお方だとすると、追い出される公算が高いです」
「……え? じゃあどうするの?」
「竹子さんと梅子さんを頼りに、何とか居座れるよう、説得するしかありません。……が、男の私は難しいかと」
「…………」
「最悪、桜子さんだけでも残れるように、頑張ってください」
「は? ……まさか、それが私を引っ張り出した本当の目的?」
零は知っていた。この椎葉桜子という人物、実は薙刀の達人である。薙刀はなくとも、手頃な棒切れさえあれば、並みの男では相手にすらならない。しかし、年頃の娘としては腕っぷしを自慢にしたくはないのだろう、桜子はあまりその腕を見せたがらなかった。
それを、用心棒に利用しようというのだから、桜子が機嫌を損ねるのも無理はない。
そんな桜子の眉が釣り上がる直前、柴田が戻ってきたので、零は胸を撫で下ろした。
「東京からのお客様と、下男に通しましたので。どうぞ」
潜り戸から中に入る。
長屋門は、左右を小屋に挟まれた門である。目の前のそれは、江戸の当時そのままの威厳を残していた。
かつては門番の詰所として使われたのだろう、左右の小屋それぞれに、格子のはまった窓がある。そこへの出入り口らしいものは、潜り戸を通っただけでは見当たらない。
そこから続く石畳の両側には、手入れされた庭木と石灯籠が配置されている。
そして正面に、外から見た入母屋屋根の平屋が構えていた。門に比べ、比較的新しい建物だ。明治以降に建て替えられたのだろう。豪邸には違いないが、武家屋敷ではなく民家の造りだ。
その格子戸になった玄関の前に、尻端折りに股引の男が立っていた。下男の貞吉である。
「後は、彼が案内しますので」
貞吉がペコリと頭を下げたのと同時だった。玄関の奥から、男の激しい怒声が響いた。
「出て行け! 私の言う通りにすればいいんだ!」
その声に、柴田がギクリと背を伸ばす。
「……誰か、旦那様にお客様かな?」
「へえ。寄合の言伝だと、『多摩荘』の旦那と『まるいや』の若旦那が」
貞吉は平然と答えた。途端に柴田はソワソワとしだし、慌てた口ぶりで、
「じゃあ、私はこれで」
と、玄関に背を向け、そそくさと出て行った。
不穏な背中を見送る二人を、貞吉は急かした。
「どうぞ、お上がりくだせえ」
欅の一枚板の上がり框を上がる。正面には蒔絵の衝立が置かれ、その左右に伊万里焼の大壺が並べられている。高価なものではあるだろうが、些か悪趣味に、零には思えた。
廊下はそこから左右に伸びており、貞吉が向かったのは右だった。
廊下の左手の壁には、額に入った日本画か幾つか掛けられている。左手は硝子窓になっており、長屋門から続く竹垣の向こうに、薮を這うつづら折れが見下ろせた。
定吉に続く三人は、そこで、正面の観音開きの扉から出てきた二人の男とすれ違った。
一人は、「多摩荘」という屋号が染め抜かれた藍染の法被を着ている。五十過ぎだろう。でっぷりとした布袋様みたいな体格だ。ツルツルに艶のある頭が、むしろ若々しく見える。
もう一人は、もう少し若い。四十くらいか。短く刈った頭に日焼けした肌。刺し子の着物の首に「まるいや」の号の入った手ぬぐいを巻いている。
二人は一様に暗い顔をして、こちらに軽く会釈だけして通り過ぎた。
零と桜子は顔を見合わせた。絶対に状況は悪い。今行ったところで同じ目に遭うのが目に見えている。ならば、日を改めた方がマシではないか?
ところが、貞吉は容赦なく、二人が今出てきたばかりの観音開きをノックした。
「東京からのお客様がおいでです」
そして、返事も聞かずに扉を開ける。仕方なく、零と桜子は貞吉の後に従った。
「東京からの客? 誰だおまえたちは」
中から浴びせられた第一声はこうだった。
そこは、屋敷に似つかわしくない洋間だった。十二畳ほどもあるだろうか。白壁は腰のところで板壁に切り替わっている。床は深紅の絨毯。若草色のカーテンが掛けられた、十文字に格子の入った窓からは、水川村の遠景が一望できる。
彫刻の施された木製サイドボードに、白亜の大理石のマントルピースなど、調度品がバラバラで、玄関の装飾品と同様、趣味は良くない。
そして声の主は、正面の壁に立つ柱時計の前の、ビロードのソファーに腰を据えていた。
歳は五十前だろう。浅黒い肌は色艶が良く、精悍な印象を受ける。だが、眉間に縦に深く刻まれた皺が、この男の心情を示していた。
――この男が、この屋敷の主、来住野十四郎である。
開襟シャツにスラックスというラフな格好から、年齢の割に引き締まった体格が透けて見えるようだ。顔立ちと共に、男前と呼んでいい部類である。
その豊かな髪の下から、明らかに友好的でない視線に射竦められ、零は覚悟を決めて名乗った。
「神田で探偵社をしております、犬神零と申します。こちらは、助手の椎葉桜子です」
「探偵? そんな者は知らん。呼んだ覚えはない」
棘のある言葉を吐いた後、十四郎は扉の横に控える貞吉を怒鳴りつけた。
「見ず知らずの者を屋敷に通すとは何事か! 貴様、自分の仕事が分かっているのか!」
「東京からのお客様は、お待たせしてはならないから、確認しなくても良い、すぐに洋間に通しなさいと、旦那様が仰ったものですから……」
貞吉の反論はだが、火に油を注いだ。
「あれは帝国議会関係のお客人だ! こんなどこの馬の骨とも知らん男と、見分けが付かないのか、馬鹿者!」
「でも、柴田が連れて来たから……」
「まだ言い訳するか! この役立たずめ!」
十四郎の激高に、貞吉は恐縮し俯いた。仕方なく、零は口を開いた。
「あの、私たちは無関係に、こちらにお邪魔した訳ではありません。こちらのお嬢様である、竹子様、梅子様のご依頼でお伺いした次第です。ハイヤーの柴田さんも、お嬢様がたから手配されたものですので……」
「竹子? 梅子? あいつら、何を考えている!」
苛立ちを抑えられない様子で、十四郎は目の前の大理石のテーブルを蹴り上げた。
「竹子様か梅子様から、お話を伺ってはおられないのですか?」
「あいつらはまだ帰って来ておらん! どこをほっつき歩いているんだ」
……まぁ、東京からここまでの移動は一日仕事だ。零たちは朝早くに汽車に飛び乗ったが、もう一本後の便に乗っても不思議はない。そして、彼女らを二俣尾駅で迎えるのも、柴田に違いない。あの男、そのところを教えておいてくれても良かっただろうに。零は歯がゆく思った。
「行き違いになってしまったのなら、私から事情をお話ししましょう。竹子様、梅子様のご依頼というのは……」
「聞く必要はない! 今すぐ出て行け!」
「しかし……」
「出て行けと言っているんだ!!」
全く話にならない。零は首を竦めた。
その時だった。湯呑を載せた盆を持った下女が入って来た。歳の頃は十一、二だろう。まだ幼いが「失礼いたします」と礼儀正しく挨拶をして、大理石のテーブルに湯呑を並べる。
しかしこの行為は、間が悪い以外の何物でもなかった。
十四郎は鬼の様相で顔を赤くし、下女の肩を蹴り飛ばしたのだ。
「誰が茶を出せと言った!」
「も、申し訳ございません!」
下女は、ひっくり返った湯呑から熱い茶を浴びながらも、絨毯に額を擦り付けて十四郎に謝罪した。
「この屋敷の奴らは、出来損ないばかりだ! 不出来を恥じない愚か者ばかりだ!」
十四郎は平服する下女の小さな体を、なおも蹴りつける。
「私がどんなに教育しても、なぜ満足に茶も出せない! この愚か者!」
さすがに黙って見ている訳にはいかない。零は止めようと足を出したのだが、もっと早く動き出した者がいた。
――桜子だ。彼女はツカツカと十四郎に歩み寄ると、その頬にバチンと平手打ちを食らわした。
「いい加減にしなさいよ。女の子を足蹴にするなんて、男として最低よ!」
零は凍り付いた。何とかして桜子だけでもこの屋敷に残そうと、思案を巡らせていたのだが、その計画は一瞬にして崩れ去った。
十四郎はわなわなと頬を震わせながら、血走った目で桜子を睨んだ。
「貴様、女の分際で私に手を上げるとは、不心得者にも程がある。許さんぞ!」
「あらそう、じゃあ、女にぶたれましたって、警察でも呼んだら?」
桜子は全く怯まない。平然と十四郎を見返してから、ワンピースのポケットからハンカチを取り出し、床に伏せたままの下女の濡れた髪を拭いた。
「大丈夫? 熱くなかった?」
「は、はい! ……申し訳ございません」
「あなたが謝る事はないわよ。さ、一緒に片付けましょ」
そう言って、桜子が床に転がる湯呑を拾い上げようとした時、十四郎の靴がそれを蹴り飛ばした。湯呑は絨毯の上を滑るように転がり、零の足元でふたつに割れた。
桜子は憮然と立ち上がる。十四郎との間に、火花が散るような睨み合いが起こる。――もう駄目だ。
零は大股で桜子に歩み寄り、その腕を掴んだ。
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