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【捌】第二ノ事件
④
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広間に沈黙が張り詰めた。亀乃は目を見開き、貞吉はあんぐりと口を開け、十四郎は顔色を失い、梅子は無表情だった。
赤松は続ける。
「完全な白骨である上、山犬に噛まれ損傷が激しく、詳しい事は分からんのですわ。年齢、性別、死亡時期や死因は不明。……ただ、骨格から、かなり小柄な人物であると、監察医先生は仰ってましたな」
それを聞く一同の顔を、百々目は鋭く観察する。そして、口を開いた。
「あの古井戸は、百合園の方からは全く見えません。しかも、周囲には百合が植えられており、近付く事もできません。我々もその存在を知りませんでした。……あの古井戸の存在をご存知の方はおられますか?」
しかし、皆俯くばかりで答えない。……犯人は、あの古井戸を知る人物である。そんな事は誰にでも分かる。
そこで零は手を挙げた。
「貞吉さんはご存知ですよね? 私をあそこに案内したのは、貞吉さんですから」
「ああ、あ、あっしは、その……」
百々目は静かに告げた。
「別室で、お話をお伺いしましょう」
貞吉は百々目に睨まれると、すぐに白状しだした。
「……あの山犬は、あっしが飼っとりました」
洋間のソファーで小さくなりながら、貞吉は小声で続けた。
「この辺、時々山犬が出て、百合を荒らすんでさぁ。だから、あの枯れ井戸に竹を渡してむしろを敷いて、その上に鶏のガラなんかを置いとくと、寄ってきた山犬が落ちるんでさぁ」
「要するに、山犬捕獲用の罠に使っていたと」
「へぇ。で、猟銃で撃ち殺したり、飢え死にさせたりしてたんですけど、ある時、二匹落ちてた事があって」
伺いを立てるように上目遣いの貞吉を、百々目は無表情で見ていた。
「飢え死にさせようとしたら、そのうち、共喰いを始めて」
「…………」
「それが、面白くってな」
「…………」
「それからは、二匹落ちるまで待って、共喰いさせてたんでさぁ。なかなか共喰いを始めない時にゃあ、鶏を一羽、落としてやるんですわ。すると、それを争ってるうちに、共喰いし始めるんでさぁ」
冷静を繕えなくなったのだろう、百々目は不快な表情を浮かべた。反対に貞吉は、徐々に楽しそうな口ぶりになっていく。
「そのうち、あんまり山犬が落ちなくなったからな、飼う事にしたんですわ。吠えないように、喉を潰してな。満足にエサを喰わせちゃあ面白くねぇから、いつも飢えさせておくんでさぁ。そんでたまに、生きた鶏やら兎やらを落として、喰い付くとこを見てたんでさぁ。必死で逃げ回りながら喰われてくの、ありゃあ面白かったですわ。……いっつも叱られでばっかで、どうにもイライラすると、夜コッソリあそこへ行ってな、鶏が喰われるのを見るんでさぁ」
貞吉はニヤニヤと口を歪めながら、百々目を見上げる。
「こんな屋敷で何も楽しい事なんかないあっしの、唯一の娯楽だったんですわ。……これは、何かの罪になるんですか?」
百々目は絶句した。目を閉じ眉を寄せて、口を一文字に結んでいる。
犬神零は、その様子を少し離れて眺めていた。
……貞吉は年月をかけ、あの凶悪な殺人装置を育んでいたのだ、全く悪意なく。
吐き気を催しつつも、零は声を出した。
「板戸のようなもの二枚で、古井戸を隠してありましたよね? あれはいつも、どういう状態にしてあるんですか?」
「閉めてあります、ピッタリ並べて。誰かに物音を聞かれて気付かれたらまずいんでな。あれを閉めれば、多少吠えても聞こえなくなるんでさぁ」
「しかしあの時、蓋がずれていました。それに心当たりは?」
「さあ。あっしもそれで、おかしいなと中を見たんでさぁ」
「――では、普段はどのように、あの古井戸に向かわれるんですか?」
すると、貞吉の顔が引き攣った。
「百合を踏まないよう、どうやってあの古井戸に出入りをしていたのですか?」
零は繰り返す。貞吉は口をもぐもぐとさせたまま、呆けたように零を眺めた。
零は言った。
「――一本歯の下駄、ではありませんか?」
「……どういう事ですか?」
零はテーブルに歩み寄り、隅に積まれた捜査資料の中から、竹子が殺害された事件の資料を取り出した。それをペラペラとめくり、当日撮られた、天狗堂の周囲を写した写真を百々目に示した。
「あの日は雨上がりでぬかるんでおり、第一発見者の亀乃君や君や、来住野十四郎氏に踏み荒らされ、犯人とおぼしき足跡は残っていなかったはずだが」
「……ここですよ」
零の指は、天狗堂の横、建物の土台となっている石積みの横に点々と続く、長方形の跡を写した写真を示した。
「――これは、一本歯の下駄の跡ですよね?」
「…………」
貞吉は相変わらず、口をもぐもぐとさせている。
「これならば、百合を踏まずに百合園の中を行き来する事も、可能だったのではありませんか?
……気になっていたんですよ。これだけ広大な百合園の手入れを、隅々まで、どのように行っているのか。貞吉さん、あなたは普段から、一本歯の下駄を使っていたんですよね。
そして、清弥さんを探している時に発見した、古井戸へ向かう足跡は、一人分しかありませんでした。ふらついていたので、それは酔った清弥さんのものでしょう。つまり犯人は、一本歯の下駄を使用したのではありませんか?」
百々目が赤松を呼んだ。そして告げた。
「彼を、来住野竹子氏及び不知火清弥氏殺害の重要参考人として聴取します」
こうして、水川咲弥は解放されたのである。
「捜査へのご協力、心より感謝いたします」
あくまで「任意聴取であった」事を強調しながら、百々目は彼を送り出した。
思わぬ方向からの急展開に、赤松は零だけにコッソリと、ガッツポーズを見せた程である。
……だがその後、貞吉は口を閉ざした。
「古井戸から見つかった人骨について、何かご存知ですか?」
百々目にどんなに睨まれても、一言も発しなくなったのである。
証拠と目される一本歯の下駄も発見できなかった。薪として燃やしてしまえばそれまでなのだ。
零はその夜、離れの畳に寝転がって、開け放たれた縁側から、百合園を眺めていた。
百合園の奥、古井戸の場所には明かりが灯され、警官が二人見張りをしている。
「どうしたのよ、犯人は逮捕されたんじゃないの?」
「いや、彼は犯人ではありませんね」
「……は? あなたの指摘で、彼は取り調べを受けてるんでしょ?」
「確かに。彼がふたつの事件に関係しているのは、間違いないと思います。……しかし、彼には動機がない」
「うーん……」
桜子は縁側に腰を下ろした。足をぶらぶらと揺らす彼女の断髪を、爽やかな夜風が撫でる。
「例えば、理不尽に怒られた恨みを持ってたとか」
「そんな相手の呼び出しに、不知火清弥氏が応じますかね?」
「……それもそうね……」
腕枕をしたまま、零はじっと、百合園を舞う蛍を見ている。
「中でも気になっているのが、天狗堂の天狗の足跡です。……あの足跡、石垣のところでプツリと消えていました。あの石垣は、戦国時代に造られた砦のもので、簡単に登れる代物ではありません。――それに、あの足跡、一方通行でした。彼が犯人として、一本歯の下駄であの石垣に向かって何をしたのか、そして、どこへ消えたのか……」
水川咲哉の住まいは、水川信一郎・夢子夫妻の住むセメント御殿の建つ小高い山の下方である。同じ敷地と言っていい距離だ。
咲哉はその夜、夢子に呼ばれた。
以前から、近くに住む甥を、夢子は可愛がっていた。特に、娘の杏子を亡くしてからは、彼をその代わりとばかりに招いて、手料理を振る舞う事がよくあった。
咲哉もまた、母親を亡くしている。この言葉に甘えるのが、彼にとって嬉しくもあった。
この日も、咲哉の解放を聞きつけた夢子は、彼を夕食に招いた。
「……このお肉料理は、とても美味しいね。何という料理なの?」
「ミートローフよ。咲ちゃんが気に入ってくれて良かったわ」
夢子は咲哉の向かいに座り、満足げに微笑む。……普通にしていれば、ごく普通の、気の良い伯母さんなのだ。
伯父の信一郎はいない。与党幹事長との癒着が暴露された一件から、対応に忙しいらしい。
夢子は咲哉が食事をするのを眺めながら、自分はワインを飲んでいた。
「警察に監視されてる時は、ちゃんとお食事は出たの?」
「うん。青梅の料理屋の仕出しだったよ。悪くはないんだけど、冷めてて、天ぷらも湿ってたし。伯母さんの料理は天国みたいだよ」
「それは嬉しいわ。――ところで、咲ちゃん」
夢子は身を乗り出した。
「警察に、何を聞かれたの?」
その据わった目線を、料理に夢中の咲哉は気付いていない。
「んー、抜け道の事を何回も聞かれたよ。どうやって、あの抜け道を見つけたのかって」
「どうやって見つけたの?」
「小さい頃、よく親父、僕を陣屋様に連れて行っただろ?」
彼が幼い頃から滝二郎は、竹子か梅子との距離を縮め、幼馴染みにしたいと考えていたのだ。しかし幼い咲哉は、もっと幼い双子の姉妹に興味がなかった。
「僕、暇だったから、よく屋敷の外を探検してたんだ」
「その時に一度、石垣から落ちて、大変な事になったわよね」
「うん。それがあってから、屋敷の外に出るのを禁止されちゃったんだけど、その前に、あの抜け道は見付けてたんだ。で、この前の前夜祭の後、モタモタしてたら、警官が長屋門の見張りを始めたから、これはまずいなと考えてた時、あの抜け道を思い出してね」
「そうなのね。……他にも、抜け道を知ってたりするのかしら?」
そこで咲哉はようやく気付いた。なぜ夢子はそんな事を聞くのかと、顔を上げたのだ。――そして、据わった夢子の目を見て、ゴクンと肉の塊を飲み込んだ。
「……し、知らないよ。僕が知ってるのは、あの狸道だけだよ」
「そう」
夢子はいつもの笑顔に戻った。そして、
「それならいいわ」
と、ワイングラスを空けた。
――その夜、九時。
夜勤の警官たちは持ち場につき、捜査員たちは、再び彼らに貸し出された広間の後方で、それぞれ休息していた。
百々目はひとり、洋間のソファーに身を沈め、捜査資料を眺めていた。
――貞吉は、事件の核心に迫る事柄を知っている。
黙秘を決め込む彼の様子から、彼は確信していた。しかし、決定的な何かがなければ、貞吉は口を割らないだろう。……一体それは、どこに隠されているのか?
一番上に置かれた書類には、彼が住まいとしていた長屋門の東側の部屋を調べた様子が書かれている。
藁の敷布団にむしろの掛け布団。……そして、天井に据えられた戸棚に、山犬を撃ち殺したという猟銃が置かれていた。……もし、彼がふたつの事件の実行犯だとしたら、なぜこの猟銃を使わなかったのか。
どうにもはまらないパズルのピースに、ゾワゾワとした不快感を伴う苛立ちを覚える。……やはり昼間、あの探偵に指摘されたように、私は冷静さを欠いているのだろう。
……物思いからふと顔を上げると、テーブルの前に来住野梅子が立っていた。
捜査本部の警備は必要ないと断っていた。長丁場である。少しでも捜査員を休ませなければならないとの考えからだ。
そこに、何の物音も立てずに存在する彼女は、まるで湧いて出た幽霊のように不気味だった。
彼女は相変わらずの無表情で言った。
「彼は無実よ」
百々目は目を細めた。
「なぜそう言えるのです?」
「ならば、なぜ彼を犯人だと思うの?」
百々目は答えず、彼女の人形のように整った顔を観察した。だが、そこからは何も読み取れそうにない。
梅子は続けた。
「あの古井戸を知ってるのは、彼だけじゃないはずよ。父や大叔母なら、知らないはずがないわ」
「なるほど。しかし、彼らにはアリバイがあります。……通夜の晩、十四郎氏は強かに深酒をして、君と松子氏に部屋に運ばれている。水川夢子氏は九時前に屋敷を出た」
「そうね。でも、あの古井戸は知ってるわ」
……どうやら、論理的な議論をする気はないようだ。百々目は小さく息を吐いた。
「では、君の姉である竹子氏の事件についてはどうですか? ――彼は、ほうじ茶を飲んだと嘘をついた。ほうじ茶に睡眠薬が入っていると知った上で。これについては、どう説明を?」
すると、梅子がニッと口を動かした。その動きは、彼の肌を総毛立たせた。
「――あの夜、私は彼と一緒にいたの。一晩中、明け方まで、ずっと」
赤松は続ける。
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しかし、皆俯くばかりで答えない。……犯人は、あの古井戸を知る人物である。そんな事は誰にでも分かる。
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「貞吉さんはご存知ですよね? 私をあそこに案内したのは、貞吉さんですから」
「ああ、あ、あっしは、その……」
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貞吉は百々目に睨まれると、すぐに白状しだした。
「……あの山犬は、あっしが飼っとりました」
洋間のソファーで小さくなりながら、貞吉は小声で続けた。
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「要するに、山犬捕獲用の罠に使っていたと」
「へぇ。で、猟銃で撃ち殺したり、飢え死にさせたりしてたんですけど、ある時、二匹落ちてた事があって」
伺いを立てるように上目遣いの貞吉を、百々目は無表情で見ていた。
「飢え死にさせようとしたら、そのうち、共喰いを始めて」
「…………」
「それが、面白くってな」
「…………」
「それからは、二匹落ちるまで待って、共喰いさせてたんでさぁ。なかなか共喰いを始めない時にゃあ、鶏を一羽、落としてやるんですわ。すると、それを争ってるうちに、共喰いし始めるんでさぁ」
冷静を繕えなくなったのだろう、百々目は不快な表情を浮かべた。反対に貞吉は、徐々に楽しそうな口ぶりになっていく。
「そのうち、あんまり山犬が落ちなくなったからな、飼う事にしたんですわ。吠えないように、喉を潰してな。満足にエサを喰わせちゃあ面白くねぇから、いつも飢えさせておくんでさぁ。そんでたまに、生きた鶏やら兎やらを落として、喰い付くとこを見てたんでさぁ。必死で逃げ回りながら喰われてくの、ありゃあ面白かったですわ。……いっつも叱られでばっかで、どうにもイライラすると、夜コッソリあそこへ行ってな、鶏が喰われるのを見るんでさぁ」
貞吉はニヤニヤと口を歪めながら、百々目を見上げる。
「こんな屋敷で何も楽しい事なんかないあっしの、唯一の娯楽だったんですわ。……これは、何かの罪になるんですか?」
百々目は絶句した。目を閉じ眉を寄せて、口を一文字に結んでいる。
犬神零は、その様子を少し離れて眺めていた。
……貞吉は年月をかけ、あの凶悪な殺人装置を育んでいたのだ、全く悪意なく。
吐き気を催しつつも、零は声を出した。
「板戸のようなもの二枚で、古井戸を隠してありましたよね? あれはいつも、どういう状態にしてあるんですか?」
「閉めてあります、ピッタリ並べて。誰かに物音を聞かれて気付かれたらまずいんでな。あれを閉めれば、多少吠えても聞こえなくなるんでさぁ」
「しかしあの時、蓋がずれていました。それに心当たりは?」
「さあ。あっしもそれで、おかしいなと中を見たんでさぁ」
「――では、普段はどのように、あの古井戸に向かわれるんですか?」
すると、貞吉の顔が引き攣った。
「百合を踏まないよう、どうやってあの古井戸に出入りをしていたのですか?」
零は繰り返す。貞吉は口をもぐもぐとさせたまま、呆けたように零を眺めた。
零は言った。
「――一本歯の下駄、ではありませんか?」
「……どういう事ですか?」
零はテーブルに歩み寄り、隅に積まれた捜査資料の中から、竹子が殺害された事件の資料を取り出した。それをペラペラとめくり、当日撮られた、天狗堂の周囲を写した写真を百々目に示した。
「あの日は雨上がりでぬかるんでおり、第一発見者の亀乃君や君や、来住野十四郎氏に踏み荒らされ、犯人とおぼしき足跡は残っていなかったはずだが」
「……ここですよ」
零の指は、天狗堂の横、建物の土台となっている石積みの横に点々と続く、長方形の跡を写した写真を示した。
「――これは、一本歯の下駄の跡ですよね?」
「…………」
貞吉は相変わらず、口をもぐもぐとさせている。
「これならば、百合を踏まずに百合園の中を行き来する事も、可能だったのではありませんか?
……気になっていたんですよ。これだけ広大な百合園の手入れを、隅々まで、どのように行っているのか。貞吉さん、あなたは普段から、一本歯の下駄を使っていたんですよね。
そして、清弥さんを探している時に発見した、古井戸へ向かう足跡は、一人分しかありませんでした。ふらついていたので、それは酔った清弥さんのものでしょう。つまり犯人は、一本歯の下駄を使用したのではありませんか?」
百々目が赤松を呼んだ。そして告げた。
「彼を、来住野竹子氏及び不知火清弥氏殺害の重要参考人として聴取します」
こうして、水川咲弥は解放されたのである。
「捜査へのご協力、心より感謝いたします」
あくまで「任意聴取であった」事を強調しながら、百々目は彼を送り出した。
思わぬ方向からの急展開に、赤松は零だけにコッソリと、ガッツポーズを見せた程である。
……だがその後、貞吉は口を閉ざした。
「古井戸から見つかった人骨について、何かご存知ですか?」
百々目にどんなに睨まれても、一言も発しなくなったのである。
証拠と目される一本歯の下駄も発見できなかった。薪として燃やしてしまえばそれまでなのだ。
零はその夜、離れの畳に寝転がって、開け放たれた縁側から、百合園を眺めていた。
百合園の奥、古井戸の場所には明かりが灯され、警官が二人見張りをしている。
「どうしたのよ、犯人は逮捕されたんじゃないの?」
「いや、彼は犯人ではありませんね」
「……は? あなたの指摘で、彼は取り調べを受けてるんでしょ?」
「確かに。彼がふたつの事件に関係しているのは、間違いないと思います。……しかし、彼には動機がない」
「うーん……」
桜子は縁側に腰を下ろした。足をぶらぶらと揺らす彼女の断髪を、爽やかな夜風が撫でる。
「例えば、理不尽に怒られた恨みを持ってたとか」
「そんな相手の呼び出しに、不知火清弥氏が応じますかね?」
「……それもそうね……」
腕枕をしたまま、零はじっと、百合園を舞う蛍を見ている。
「中でも気になっているのが、天狗堂の天狗の足跡です。……あの足跡、石垣のところでプツリと消えていました。あの石垣は、戦国時代に造られた砦のもので、簡単に登れる代物ではありません。――それに、あの足跡、一方通行でした。彼が犯人として、一本歯の下駄であの石垣に向かって何をしたのか、そして、どこへ消えたのか……」
水川咲哉の住まいは、水川信一郎・夢子夫妻の住むセメント御殿の建つ小高い山の下方である。同じ敷地と言っていい距離だ。
咲哉はその夜、夢子に呼ばれた。
以前から、近くに住む甥を、夢子は可愛がっていた。特に、娘の杏子を亡くしてからは、彼をその代わりとばかりに招いて、手料理を振る舞う事がよくあった。
咲哉もまた、母親を亡くしている。この言葉に甘えるのが、彼にとって嬉しくもあった。
この日も、咲哉の解放を聞きつけた夢子は、彼を夕食に招いた。
「……このお肉料理は、とても美味しいね。何という料理なの?」
「ミートローフよ。咲ちゃんが気に入ってくれて良かったわ」
夢子は咲哉の向かいに座り、満足げに微笑む。……普通にしていれば、ごく普通の、気の良い伯母さんなのだ。
伯父の信一郎はいない。与党幹事長との癒着が暴露された一件から、対応に忙しいらしい。
夢子は咲哉が食事をするのを眺めながら、自分はワインを飲んでいた。
「警察に監視されてる時は、ちゃんとお食事は出たの?」
「うん。青梅の料理屋の仕出しだったよ。悪くはないんだけど、冷めてて、天ぷらも湿ってたし。伯母さんの料理は天国みたいだよ」
「それは嬉しいわ。――ところで、咲ちゃん」
夢子は身を乗り出した。
「警察に、何を聞かれたの?」
その据わった目線を、料理に夢中の咲哉は気付いていない。
「んー、抜け道の事を何回も聞かれたよ。どうやって、あの抜け道を見つけたのかって」
「どうやって見つけたの?」
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「僕、暇だったから、よく屋敷の外を探検してたんだ」
「その時に一度、石垣から落ちて、大変な事になったわよね」
「うん。それがあってから、屋敷の外に出るのを禁止されちゃったんだけど、その前に、あの抜け道は見付けてたんだ。で、この前の前夜祭の後、モタモタしてたら、警官が長屋門の見張りを始めたから、これはまずいなと考えてた時、あの抜け道を思い出してね」
「そうなのね。……他にも、抜け道を知ってたりするのかしら?」
そこで咲哉はようやく気付いた。なぜ夢子はそんな事を聞くのかと、顔を上げたのだ。――そして、据わった夢子の目を見て、ゴクンと肉の塊を飲み込んだ。
「……し、知らないよ。僕が知ってるのは、あの狸道だけだよ」
「そう」
夢子はいつもの笑顔に戻った。そして、
「それならいいわ」
と、ワイングラスを空けた。
――その夜、九時。
夜勤の警官たちは持ち場につき、捜査員たちは、再び彼らに貸し出された広間の後方で、それぞれ休息していた。
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黙秘を決め込む彼の様子から、彼は確信していた。しかし、決定的な何かがなければ、貞吉は口を割らないだろう。……一体それは、どこに隠されているのか?
一番上に置かれた書類には、彼が住まいとしていた長屋門の東側の部屋を調べた様子が書かれている。
藁の敷布団にむしろの掛け布団。……そして、天井に据えられた戸棚に、山犬を撃ち殺したという猟銃が置かれていた。……もし、彼がふたつの事件の実行犯だとしたら、なぜこの猟銃を使わなかったのか。
どうにもはまらないパズルのピースに、ゾワゾワとした不快感を伴う苛立ちを覚える。……やはり昼間、あの探偵に指摘されたように、私は冷静さを欠いているのだろう。
……物思いからふと顔を上げると、テーブルの前に来住野梅子が立っていた。
捜査本部の警備は必要ないと断っていた。長丁場である。少しでも捜査員を休ませなければならないとの考えからだ。
そこに、何の物音も立てずに存在する彼女は、まるで湧いて出た幽霊のように不気味だった。
彼女は相変わらずの無表情で言った。
「彼は無実よ」
百々目は目を細めた。
「なぜそう言えるのです?」
「ならば、なぜ彼を犯人だと思うの?」
百々目は答えず、彼女の人形のように整った顔を観察した。だが、そこからは何も読み取れそうにない。
梅子は続けた。
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「なるほど。しかし、彼らにはアリバイがあります。……通夜の晩、十四郎氏は強かに深酒をして、君と松子氏に部屋に運ばれている。水川夢子氏は九時前に屋敷を出た」
「そうね。でも、あの古井戸は知ってるわ」
……どうやら、論理的な議論をする気はないようだ。百々目は小さく息を吐いた。
「では、君の姉である竹子氏の事件についてはどうですか? ――彼は、ほうじ茶を飲んだと嘘をついた。ほうじ茶に睡眠薬が入っていると知った上で。これについては、どう説明を?」
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